楓士雄パンツ泥棒問題について、悩んだのだけれどお気持ち表明しておこうと思う。正直言うと事務所の価値観については問題点が散々指摘されてきているので、これ一つだけが特段気になるわけではないんだけれど、むしろSNS上での反応が「なんか未だにモヤモヤはしてる」程度で議論にならず留まっているような気がして気になった。といっても私の感覚がズレているのかもしれないし、事務所や作品をディスりたい訳でもない。むしろめちゃくちゃ感謝してる。ただ、多様な意見が存在することは価値があるはずだし、それダメということを黙殺せずダメじゃないですか??と声を上げることは私にとっては愛なので、まあなによりも精神衛生にもいいし自分のために吐き出しておくか、と思いました。そのほうがすっきりザワ楽しめるから。


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まずパンツ泥棒問題とは、HiGH&LOW THE WORST EPISODE:O 1話にて突然会話に登場する以下のエピソード、およびそれに対してSNS上で嫌悪感を表明した人達が相次いだ一連の流れを指します。


司「そういやお前芝マンの姉ちゃんのパンツ盗んだよな」

(芝姉弟の映像インサート)

ジ「いやいやいやいや、アレは楓士雄さんがいけないんスよ」

司「アイツまだ持ってっかな?」

ジ「絶対持ってますよ」

司「きっと家宝にしてんな(笑)」

ジ「(笑)」

司「まあでも、お前のお陰で楓士雄と仲良くなれた」


このエピソードに嫌悪感を示したのは主に女性で、嫌悪されたのは以下の部分でした。


・下着泥棒そのものの気色悪さ

・推しの役柄が下着泥棒をすること

・被害者が明確であること(生々しい)

・良い想い出扱いされていること

・下着を盗む行為が男の通過儀礼とか度胸試し扱いされていること


まとめると、パンツ盗むのは性犯罪なのに軽々しく描くな、女性の感じる不快感を考えたらこんなエピソードは入れないはずだ、その女性への配慮のなさが嫌だ、ということになると思う。ひとことで言えば、皆が女性蔑視を嗅ぎ取ったのでしょう。


逆に、楓士雄が実際にやったかどうかはわからないとか、映画で回収される伏線ではないかとか、やって欲しくない・主人公にふさわしくないという気持ちから、深読みや期待をする人も見られました。しかし、映画で触れられることは一切なかったので伏線ではありませんでした。


ザワで楓士雄が犯した他の違法行為と絡めて、軽犯罪に対して罪悪感を抱かないキャラクター設定に一貫性が見られるから伏線回収されたと言ってもいいという説も目にしました。が、先に述べた通り、この問題の本質はセクシズム(性差別)にあり、その視点なしにはこのエピソードは語れません。


何故この問題が起こったのかを明らかにし、そして事務所にどう変わって欲しいのかのお気持ち表明をさせていただくために、問題点を整理したいと思います。


このエピソードは何故挿入されたのか

目的は明らかに、楓士雄と司とジャム男の仲の良さの演出にあります。彼らにとっては笑いながら語り合う想い出話であり、「お前のお陰で楓士雄と仲良くなれた」切っ掛けであり、軽微な罪の共有をする3人の親密さの表現なのです。


何故「パンツ泥棒」でなければならなかったのか

例えばジャムパンの万引き、釣り堀からの魚泥棒、テストのカンニング、原付無免許運転など。コミカルで軽微な罪なら色々と作れそうなものですが、何故、パンツ泥棒でなければならなかったのか。その答えを出すには「ホモソーシャル」という概念があるとわかりやすいと思います。

ホモソーシャルとは、恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきのこと。特に男性のそれが堅固です。男同士の熱い友情、殴り合ってわかりあうライバル、絶対に裏切らない仲間など。厳密にそれ自体を指す場合は悪いものとは限りません。

しかし、ホモソーシャルな男同士の強い絆は、ミソジニー(女性蔑視)を伴いやすい傾向にある。体育会系の下ネタとか、サラリーマンが連れ立ってキャバや風俗行く行為などがそれにあたります。異性愛者としての性欲を共有することで暗に「俺はお前のケツは狙わない」アピールをし、安心して連帯感を育めるんじゃないかと思われます。

今回の楓士雄のパンツ泥棒エピソードも、このホモソーシャルとミソジニーの表れとして見れば、狙いは明らかです。言ってしまえば楓士雄が実際に盗んだかどうかの真偽の程はどうでも良く、性的なエピソードを仲間内で共有する行為自体がメインであり、男同士の「身内」感を醸し出すための演出なのです。盗んだのがパンツでなければならなかった理由はここにあります。

なお、映画では、久保監督が楓士雄の好感度に気を遣い、脚本の髙橋ヒロシ先生が「楓士雄は女好き要素を取り払った坊屋春道」だと壱馬くんにアドバイスしていたと聞きます。

映画の後に作成されたEPISODE:O の脚本においてだけホモソーシャルとミソジニーが表出してしまったことで、楓士雄のキャラがブレた感はややありますが、ブレてなければ良いというものではないので、そこは一連の「パンツ泥棒問題」の論点からは排除すべきだと考えます。


なぜ「パンツ泥棒」は許し難いのか

先述のホモソーシャルな男社会という文脈において、女性はまずもって個としてリスペクトされる存在にはなりません。男同士の関係性を高めるための記号や道具になる。だからホモソーシャルはミソジニーに繋がりやすい、というのが定説です。

ハイローにおいて女性が記号的(母、姫、名誉男性などのステレオタイプ)であることは以前から指摘がありましたが、ここまで単純な文脈であからさまに「男同士の親密さ」演出の道具にされたのは初めてではないでしょうか。

ここでは芝姉は「(下着に盗む価値があるほどの)いい女」あるいは「(度胸試しの相手になるほどの)おっかねー女」という記号に過ぎず、彼女の被害者としての心情が思い遣られることは決してないでしょう。

そんな女性へのリスペクトのなさに、多くの方が知らず傷付き「モヤモヤした」のではないかと思います。

なお、「単純に推しに変態行為をして欲しくない」という声もあるかもしれませんが、私個人の場合、推しの役が、例えば、好きな女の子の縦笛を舐めようが体操服の匂いを嗅ごうが全く平気です、それが「好きな子」という個人に向けられていて、男同士で笑って共有されない限りは。まあこれは人によると思いますが。やはり論点は、女性を個として尊重するかどうか、尊重するにしろしないにしろ、製作側が作品が孕む差別意識に自覚的かどうかではないかと思います。


「パンツ泥棒」への嫌悪は女だけの問題なのか

ここまでの話を、もしかすると、男は気にならないことを女が過敏に気にしている、と受け取る方もいらっしゃるかもしれません。しかし、SNS上の反応を見ていると、男性でも「価値観が古い」と気にしてくださっている方はいらっしゃいました。

私はこれを女性だけの問題にはしたくないし、事務所には彼ら自身のためにも価値観をアップデートして欲しいと思う。女性を「オンナ」という記号に貶めずに個として尊重するということは、そっくりそのまま、男性のことも「男らしさ」という呪縛から解き放ち、誰もが生きやすい社会へつながっていくはずだからです。

少しハイローから脱線しますが、ホモソーシャルの文脈はミソジニーだけじゃなくてホモフォビア(同性愛嫌悪・恐怖)にも繋がるんですね。それは男性に「男らしさ」を強要し、そこから逸脱した者への激しい抑圧を生み出します。体育会系の組織で陰湿ないじめやそれによる自殺がニュースになること、ありますよね。それって男性にとっても生きづらい環境であるはずです。

一般化して語りますが、なぜ男はゲイを嫌うのか。女がレズビアンに対して見せる反応に比べ、男は圧倒的に激しくゲイを嫌悪し、笑い者にし、蔑む傾向が強い。SNS上でも「LGBTQとか自由だと思うけど、生理的に気持ち悪いって思うのは仕方がない」「俺が奴らを気持ち悪いって思うのも自由」という声が男性からは聞こえる。その嫌悪感は、おそらく、恐怖に基づいています。

私が思うに、ヘテロの男性は性的欲求の対象とされるプレッシャーを基本的には理解しないのでしょう。ひどく下世話な表現をすると、彼らは自分が催さない限り性行為は存在しない世界に住んでいる。彼らにとって女性は「自分をその気にさせるかどうか」を見て判断する対象で、原則として女性が彼らを脅かすことはない。

(ここを上品に表現すると鴻上さんの「男は見る性」という話になると思う)

https://dot.asahi.com/dot/2019052900029.html?page=2

その安全な世界に、ゲイ男性は恐怖を持ち込む。「自分がその気じゃなくても成立し得る性行為」という概念が初めて生まれる。自分が知らないところで性的対象にされているかもしれない、というプレッシャーを初めて感じ、ヘテロ男性は恐怖して、自らの安全を脅かす仮想敵としてゲイを憎むのではないでしょうか。そして「異性愛者としての男らしさ」に帰属意識と連帯感を求め、画一的な「男らしさ」「女らしさ」を社会に押し付けて、そこからはみ出る者を抑圧しようとするのではないでしょうか。

これが、ホモソーシャルと、ミソジニーと、ホモフォビアの連動です。女性だけではなく、男性にも不利益がある話です。


セクシズムはフィクションから排除されるべきなのか

男同士の熱い友情、殴り合ってわかりあうライバル、絶対に裏切らない仲間。みんな大好きブロマンス。これらを描くのに、ミソジニーだホモフォビアだと気を遣っていたら、十分に描けないではないか、という声が聞こえてくる気がします。確かにそれは困る。

けれど、戦争映画は戦争を賛美していますか? むしろ、極限状態における人間ドラマを通して、戦争の愚かさと命の尊さを描いていないでしょうか。

だから、描きようはいくらでもあるはずなんですね。女性を貶めなくてもカッコいい男の世界は描ける。多分、性差別をするキャラクターを登場させてすら、女性を傷付けない物語にすることはできるはず。全ては、制作側が自覚的かどうか、意識ひとつだと思います。


望むこと

これだけ急にコンプライアンスが叫ばれる世の中になって、私達は時代の過渡期に居ます。旧弊を打破するのは簡単なことではないけれど、手を取り合って新しい価値観に進むためには、「それ古いんじゃない?」と声を出していくしかないと思う。昨日まで気付かなかった人も今日気付けばいいし。なにせ過渡期なので。

あと、フェミニズムについて詳しいわけでもなんでもないので全て個人の見解ですが、もし「モヤモヤ」を語る言葉のない人に届いてほんのちょっとでも語る切り口の参考になったら良いなあと思いました。何か間違ったこと言ってたら申し訳ない。