これは自分の一部フォロワーさんへの(つまり宝塚に関する一連の報道の時期や内容と、私がどういうふうにコンテンツを愛したかをご存知の方への)文章なので、そうでない方には色々と説明不足かと思います。


自死する方が出る前の今年2月頃から、私は「この集団は推せない」と思い宝塚のファンをやめる決断をしていました。きっかけは一連の文春報道ですが、それ自体よりもファンダムの反応を見て決めたというほうが正確かもしれません。そして事が起きてしまった以降は、あれ程までに愛したヅカローをもう観られないという気持ちになり、ひどく苦しんできました。そして宝塚と距離を取るために、ハイロー新作舞台にも当面は反応しないことにしました。自分にハイロー新作が喜べない事態が来るとは夢にも思わず、そのこと自体もまた私を打ちのめしましたが、それでも。

ファンダム批判になりますが、思ったことを書き留めていた文章があるので、自分のスタンス表明のために置いておきます。


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【これは20232月に書いた文章です】


週刊誌報道にまつわる諸々についてモヤモヤが消えないからやっぱり思ったことを書いておこうと思いました。根本的な問題に触れずに終わってしまって良いのだろうかという私の気持ちの話です。


素人が生意気言うので、ご気分を害するかもしれませんが、新規ファンにはどう見えたかという話として受け取ってもらえたら(何もわかってない奴という意味でも、外側の視線という意味でも)いいんじゃないかなと思います。


私も週刊誌報道に対しての怒りは感じましたが、それは週刊誌がそういうものである以上、かなりの諦観と共に感じた怒りでした。ドラマ『エルピス』の台詞「善玉も悪玉もない」じゃないですけど、週刊誌はデマを撒き散らして人を傷付けもするし、真っ当な調査報道で暴かれるべき真実を伝えたりもする。後者が前者の罪を帳消しにするわけではありませんが、それでも私個人としては週刊誌と情報提供者を「悪」と断じて事を済ませるような心境にはなれず、事態そのものに対しての関心が怒りを上回りました。御本人や周囲の方々が深く傷付けられたのは本当につらいことでしたが、それとは別の面で考えるべきこともあるように思ったからです。


今回報じられたハラスメントは事実無根として否定されましたが、まかぜさん御本人の「そんなふうに受け取る子じゃない」という言葉を額面通りに解釈すれば、厳しいことを伝えてはいたんだろうなということになります。そして、先日発売のぷらすあくとのせりかさんのインタビューが「まかぜさんには男役の基礎を愛ある厳しさで叩き込んでいただいた」とか「ちゃんと叱れる上級生になりたい、自分も叱られて成長してきたから」というお話だったので、やっぱり愛情をもって叱る指導方法が浸透した世界なのは間違いないんだろうなぁと思いました。


もちろん、名前が出た方々の間で、尊敬と信頼のもとに行われた指導が素晴らしいものだった可能性は高く、当人達が否定したなら信じたいと思います。ただ、どんな出来事がきっかけであれ、ふと見えた問題の片鱗について何も言及せず見えなかったふりをするのも、とても不自然なことではないかと思いました。


問題とはつまり、ハラスメントの温床になりやすいカルチャーがそこに存在している、ということです。ハラスメントが実際にはなかったとしても、それを生みかねない土壌があるということ自体を問題視すべきではないか、ということです。


「まかぜさんはほしかぜさんに厳しい指導もしたかもしれないが、それはハラスメントではない」に今や多くの方が自信を持ってYESと言うのだろうと思いますが、「ほしかぜさんがかけられた言葉はどこの誰が言われても問題のない言葉であるはず」にYESと言えるかどうかはわかりませんし、「その厳しい指導はどこの企業においても歓迎されるようなものであるに違いない」にはYESと言っていいかわからない人も出てくるんじゃないでしょうか。実際にどの程度のことをどんな口調で伝えているのかはわかりませんが、ジェンヌさん達ご自身が「厳しい」「叱る」という言葉を選択されている以上は、やはり一般的に言う「叱責」にあたるのではないかと捉えるのが自然ですし、だとすればそれは、限定的な空間と人間関係の中のみで許されているやり方である可能性もあるのではないかと思います。


つまり、まかぜさんの人格への確かな信頼とは別途、彼女達が属するカルチャーについては、疑義を呈する必要があったりしないんでしょうか。土壌が整っている以上、我々の知らないところでやはりハラスメントはあるのでは?普段から叱責を受けるのが当たり前・自分より権力のある相手に逆らわないのが当たり前という環境だからこそ、理不尽な暴言を放つ演出家に対しても皆で我慢してしまったのでは?今回は問題なくとも今後またいつか心折れる誰かが出てしまうのでは?ということです。


脈々と受け継がれたカルチャーの中で成功した方々の努力を貶めようというつもりは断じてありませんが、叱責する形の指導について「自分は成長できたからそのやり方が正しい」とは限らない。それは生存者バイアスであって、適応できた人の陰に隠れて、声なき脱落者がいたかもしれないということに目を向けなければならない。Aさんが愛ある指導に感謝していてもBさんは深く傷付き去っているかもしれず、生き残った者の証言のみをもって「ハラスメントはなかった」とすることはできません。もし深く傷付いて離れていった誰かがいるならば、やはりそのやり方は正しくはない。それは教育や指導ではなく、ストレス耐性の低い人間を振り落とすための選抜に過ぎません。令和5年にそれをまだ良しとするのか?という話です。

「叱責」は場合によっては良い結果をもたらすでしょうし絶対悪ではありませんが、職場に必ず必要だというものでもありません。厳しい徒弟制には伝統があるが問題もあるとか、失敗を恐れてビクビクするよりも精神的安全圏が確保されているほうがパフォーマンスが上がる、というのはふた昔くらい前からビジネスシーンにおける新人育成では一般的に言われていることです。パワハラという言葉ができた2000年代初頭以降、「私はこうやって厳しく育ててもらった」と後輩にも同じやり方を繰り返そうという人達を「でも時代は変わったから」と諭して、次世代には負の遺産を負わせないように、皆がパワハラをパワハラだと認識できるように、社会はゆっくりなんとか20年かけて変わってきたわけですよね。まだまだ不完全ではあるけれど、だからこそ意識して更に変えようとしていかないと、という状況だと思います。一般社会ではそうですし、芸能界でもそういう空気になってきました、特にMetooが巻き起こった去年からは顕著です。例えば著名な映画監督達が「昭和の巨匠は暴力も振るったものだが、実際のところ芸術の場に叱責による緊張感がなくとも良い作品は作れる」と現場の労働環境改善を図っています。たくさんの劇団がハラスメント撲滅のためのステイトメントを出したりしています。欧州の名門バレエ団などでも近年パワハラがどれだけ大問題になったか。つまり、芸能従事者だから特別なのだというものでは全くありません。時代の節目として、伝統ある組織も変わることが求められている昨今ではありませんか。


カルチャーというのはもう個人の責を問えるものではないので、特定のどなたかを非難しているつもりはありません。「推しを批判するつもりはないが推しが身を置いている文化は古くてアップデートされてないと思う」という話をしているつもりです。そしてそれを即悪いと短絡的に断じるものでもなく、どの程度の深刻さで受け止めるかは人それぞれでしょう。問題が一切ないとは言えないがそこまで悲観する必要があるとも思えない、時代と共にゆるやかに変わってきただろうし今後も良い方に向かうのではなかろうか、くらいの温度感でとらえることも可能かもしれません。が、私はそれを良いことだとは思えませんでした。事態はすでにかなりまずいところまで来ているのではないか、当事者もファンも圧倒的に危機感が足りないのではないか、と感じます。新しくトップに立った人が「ちゃんと厳しく叱れる上級生になりたい」などと言ってしまえる、それを世間的にどう見られるか体面も考えずに美徳と信じきっている世界は相当に危ういです。そして何よりも、日本の芸能界でもMetooが吹き荒れた激動の2022年を経て、今ここで宝塚にこういう話題が出てジェンヌさんもファンもこういう反応になったということは、昨年明らかになった演劇界における複数のセクハラやパワハラ案件に関しては本当に無関心だったのだろうなぁと感じました。それらを意識的に追ってきた私にとっては、その閉鎖的な状況が、何よりもつらく感じることでした。


ここで私が考える事実を列挙してみます。いずれも複層的に存在する個々の事実であり、どれかが正しいからどれかが間違っているとか、どれかを取り上げればどれかを覆い隠せる、というものではないと思っています。


①ジェンヌさん同士は強い絆で結ばれている

②デマや誹謗中傷で人を傷つけることは許されない

③宝塚では伝統的に、演出家や上級生により叱責する形での指導が行われている(叱責する者とされる者の間に権力勾配がある)

④叱責する形での指導は一般的に、度を越えたり人格否定になるケースが発生しやすく、必ずではないがハラスメントと紙一重である

⑤芸能従事者への指導はハラスメントになりやすい(良いか悪いかの度合いが数値化できない・良し悪しを判断する者に権力が集中しやすい、など)

⑥同じ環境でも適応できる人間とできない人間がいて、最前線で活躍する者の語る言葉には常に「生存者バイアス」がかかっている

⑦ハラスメントであるかどうかは当事者が判定するものではない(加害者はもちろん、被害者当人が「自分が悪いので平気です」と言ってもハラスメントはハラスメントたりえるし、見ている者への環境型パワハラというものもある)

⑧愛情はハラスメントの免罪符にはならない(多くの加害者が愛情を盾にそのつもりなくハラスメントを行ってしまっている)


演劇界では2022年、たくさんの劇団がハラスメント撲滅のためのステイトメントを出したりそれに類することを話題にしていました。舞台芸術からどうやってセクハラ・パワハラをなくしていくか、皆で何に気をつけるか、そういう文脈の中で上記④〜⑧はごく当たり前の前提とされてきたように思います。けれど、宝塚は、そういう風潮があったということにすら一切無縁の世界のようで。週刊誌報道の後、ファンも①と②の話に終始していたように感じられました。劇団の対応が良かったか悪かったかという文脈において、ハラスメント防止のために劇団はもっと尽力すべきという意見も見かけましたが、そもそもジェンヌさんが良しとしている「愛ある厳しい叱責」ってアウトなんじゃない?そのカルチャーが時代錯誤なのでは?と仰ってる方はお見かけしませんでした。私の観測範囲内でのことですから、もちろん色々と見逃しているかもしれないとは思いますが。


企業がハラスメント防止に取り組む場合、最初にやるべきことは通報窓口の設置ではありません。意識して「指導」と「ハラスメント」の間に境界線を引くこと、つまり何がやっちゃダメな行為かを定義し、社内に周知することが基本的な出発点となります。厳しく叱ることは美徳というカルチャーをそのままにしておいて、通報窓口を設けても意味がありません。だからこそ、先に報道のあった演出家をジェンヌさんは誰も通報しなかったのでしょう。これでは、いくらハラスメントに真摯に向き合うと言っても、今後の改善が見込めるはずもありません。


繰り返し申し上げますが、特定の誰かを非難しているつもりはありません。ただ「愛ある厳しい叱責」は特定の個人間で行われた時に個々にアリだったとしても、それが通例としてまかり通り、組織の体質になってしまうと、必ずまずいことが起こるものです。だからこそ意識的に「指導」と「ハラスメント」の間に境界線を引かなければいけない。けれど宝塚歌劇団ではそのような認識はないのだなということがよくわかりましたし、かつ世の中のムーブメントにも関心はないのだろうなとも思わされました。伝統的な部分に関しては、良くも悪くも閉じた世界のままでいたいのかなと。外界から隔絶された清く正しく美しい花園のまま。


私は、推しも人間だから瑕疵もあろうとかどんな組織にも膿はあるだろなとか(逆に言えばそれでも推そうと)常々思っているので、大好きで感謝してる相手にも平気でこういうことを言えてしまいますが、ご不快に思われた方にはすみません。伝統ある世界で、しかも先達の方々をある意味で神格化しているような世界観で、過去のやり方を否定するような変革は非常に難しいだろうことも、内部の方もファンもわかっていて黙っている面もあるだろうことも察します。が、それでも今回の件では、エッほんとにこのまま行くんですか?少なくとも外からどう見られるかの意識は持ってないと無防備すぎてまずくないですか?と思わずにはいられませんでした。


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2月に書いたのはここまでで、結局誰にも見せずに、ご贔屓が退団されたら黙ってファンダムを去ろうということにしました。

短い時間いただけの人間がファンダム批判をして去っていくことが申し訳なく躊躇したのもあり、また、仮に出したとしても、共感を得られる層には今更なことだろうし届いて欲しい層には届かない、ならば意味がないだろうなと思ったからです。多分、ファンダムに似たような意見が見られないことが、ここにはいられないと思うのに決定的だったんだと思います。

けれど、今となっては、出しておいたらよかったのかなぁと思います。たとえ誰にも届かなくても。


ご遺族が声を上げたことで大騒ぎになった今、非難の声は主に管理責任のある劇団に向いています。しかし、問題のあるカルチャーを主体として担ってきたのはタカラジェンヌです。それを良いこととしてきた歴代の先輩方や、それを持て囃してきた長年のファンダムにも、責任があるのではと思います(それを認めたからといって、劇団の管理責任が減免されるものではありません)。

ここで言う責任とは、起きてしまったことについて誰の咎なのかなすりつけあうためのものではなく、今後変わっていくための未来へ果たす責任です。その責任は、過去がまちがっていたと認めることなしには果たせません。今は「わからない」「信じられない」と強張ってしまっている心がほぐれたとき、良い方向に変わるための勇気が生まれますように。

何よりもご遺族が納得と安寧を得られるように、それを当然ながら最優先で願いつつも、宝塚歌劇団とファンダムの変化を祈っています。