小さい時から優れた少年だったらしく、樋口兼豊の長男として生まれる。
幼名は樋口与六。上杉謙信の姉(仙桃院)に才能を認められ、小姓として上杉家に
使えることになる。謙信の元で共に学んだ、上杉景勝とは兄弟のような関係にあったという。
~以下wiki参照~
直江家相続
天正8年(1580年)8月から、景勝への取次役など側近としての活動が確認できる。8月15日(9月23日)には景勝印判状の奏者をつとめている。天正9年(1581年)、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が毛利秀広に殺害されるという事件が起きると、景勝の命で直江景綱の娘で直江信綱の妻であったお船の方の婿として結婚(お船の方にとっては再婚)し、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。以後、兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る。
豊臣政権時代
天正11年(1583年)には山城守を称する。天正12年(1584年)末から秀治が病に倒れると、直江兼続
は内政・外交の取次のほとんどを担うようになる。秀治の死後、兼続は単独執政を行ない、これは兼続死去まで続くことになった。天正14年6月22日(8月7日)、上洛の最中、主君上杉景勝は従四位下・左近衛権少将に昇叙転任するが、兼続も従五位下に叙せられる。
天正15年(1587年)、新発田重家討伐で武功を挙げ、天正16年8月17日(10月7日)には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の姓を授けられ、あらためて山城守の口宣案を賜る。天正17年(1589年)の佐渡征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においても、景勝と共に参陣して武功を挙げた。上杉領となった庄内地方においても大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切った。
慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封されると、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領を与えられている。
関ヶ原
慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭するようになる。石田三成と懇意にあった兼続は、家康との対立を決意する。そして徳川家との融和を主張した上杉家重臣・藤田信吉と対立して追放に追い込み、さらに家康の度重なる上洛要求も拒むなどして、やがて関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こした。
このときに家康を激怒させ、会津遠征を決意させる直接のきっかけとなった直江状の筆者として有名であるが、文面自体は後世の偽作であるともいわれている(家康家臣の日記等から、上杉側から何らかの返書があり、これを見て家康が激怒したこと自体は確かなようである)。
関ヶ原の戦いでは、兼続は東軍に与した最上義光
の領地である山形に、総大将として3万人の精鋭を率いて侵攻した。義光は戦力集中の為、一部の支城の放棄を命じたが、畑谷城を守る義光の家臣・江口五兵衛などはこの命令を拒否して篭城、上杉軍はこれらの激しい抵抗を排除して攻略した。その後、同じく義光の家臣で、志村光安が守る長谷堂城
と里見民部が守る上山城
を攻める。5百名が守備する上山城攻めには4千名の別働隊があたり、守備側は野戦に出た。上杉軍は約8倍の兵力を持ちながら守備側に挟撃され、大混乱の末に多くの武将を失うなど、守備側の激しい抵抗に遭って攻略できず、別働隊は最後まで兼続の本隊に合流できなかった。長谷堂城攻めでは、兼続率いる上杉軍本隊が1万8千名という兵力を擁して力攻めを行ったが、志村光安以下1千名の守備兵が頑強に抵抗し苦戦する。逆に守備側2百名余りの決死隊の奇襲によって上杉軍陣中で同士討ちが発生するほどの大混乱に陥り、兼続の本陣近くまで攻められるという事態を招く。この戦いで上杉方の武将・上泉泰綱が戦死するなど多数の被害を出した(長谷堂城の戦い)。
その頃、美濃では関ヶ原本戦が行われていた。本戦で西軍が敗れた事が奥州に伝わると、上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。勢いに乗った最上軍と義光救援のために伊達政宗が援軍として派遣した留守政景軍が追撃してきて激戦になるが、水原親憲、前田利益ら上杉勢の諸将の奮戦もあって、米沢への撤退に成功した。この撤退戦は語り草となり、兼続は敵である義光、家康にも称賛されたという。
結果として上杉軍の最上侵攻は、山形城
の攻略が成らなかったばかりか、逆に反撃に出た最上軍に庄内地方を奪回され、また伊達軍の福島侵攻を誘発した。