エピソード2です



少し巻き戻し、
中三からのお話をしましょう

2011年3/11
東日本大震災

この頃は私は埼玉の実家にいたのですが
幸い中学の卒業式の次の日だった為
あまり被害はありませんでした


そう思ってテレビをぼーっと眺めていると
なんと、私の父親はかつて東京電力の社員
だったのですが、、
福島第一原発の事故。。
母親は思わず悲鳴を上げていました。


父親は家庭電力サポートセンターの様な所で
働いていたのですが、
被災地に行って泊まり込みで謝罪にでろと
上から指示があったそうで、殆ど家にいませんでした。


そこからお腹の調子を壊し
、近所の病院にいくと
「ストレスからくる胃炎ですよ」
と、胃薬をだされていたそうです。


それが半年たっても治らず、
医者にお願いし、胃カメラをやっても
異常なしとのこと。


それでも治らなく、少し大きな病院で
癌の検査をしたところ、


スキルス性胃がん

胃の外側からできる癌だそうです


既にステージ4
余命半年と宣告されたそうです。


いきなりすぎて家族全員固まりました、、


「絶対治すから心配しないで」

と、いつもの家族での夕ご飯でいわれたのを
今でも覚えています




まずは、胃の摘出手術の日程がきまりました。


ただ、父親には本当のことは言わなかった様ですが、
胃を摘出すればいいと言うレベルではなく、
全身に転移していたそうで、
そのまま摘出はせず、1部だけ証拠として取り、
手術はおわりました。



父親以外は、その事を知っていて、
私はまだ麻酔で寝ている父親の隣で、
初めて泣きました。



あんなに嫌いだったけど、
しなないでよ。




私は友達の家族の様に、
「ぱぱがね、」と友達に家族の話をしたり
大人になった時、
結婚式でないてくれるのかな?とか

当たり前に、私の将来想像する人生に
父親がいました。



嫌いだけど、好きになりたい。



そんな思いでいつも接していました。





すると、父親が
「なんでないてるの?」
と、麻酔から目を覚ましたのです。




ドラマのようにまだ鮮明に
記憶に残っています。




そこからは、どんどん痩せ細り、
入院している父親にお見舞いで会う度に
私も具合が悪くなり、
普通の食事、高校生活がなかなか送れませんでした。
部活中何度も気持ち悪くなっては休みを繰り返していました



母親もいつも泣いていました。



何も出来なくて、もどかしかった。




突然自分が、または1番愛する人が
最期のリミットを言い渡されたら
流石に正気ではいられませんよね、


母親はそれでもよく頑張っていたなと
今ではおもいます。





そんな中、一時帰宅を許された父は、
家族で旅行がしたい。といいました。


父親は自然が大好きで、
車でよくいろんな所へ旅行へ連れてって
くれました。


私はその時の父親は好きでした。
旅行へ連れてってくれるから、ではなく、


なんか普通の、幸せな家族みたいだから。


これできっと、私の家族旅行は
最後になるんだなと感じていました。




選んだのはそんな遠くない秩父のコテージ。



これが最後なのは受け入れられずに、
苦しい感情を押し殺しての旅行でした。


またきっと旅行にいける。
そう無理やり思う事しかできませんでした



そんな中、また入退院を繰り返し
父親は本当にみるみる弱っていき、





そして、高校2年の学校帰り、
その時はやってきました。



その日は、

寝ても座っても苦しい。とずっと言っていて
母親はなにか感じたのか、祖母に電話し
家に来てもらっていました。



祖母はそんな実の息子を見ていられなかったのか、
寝たり起きたりしている方が体に良くないと、
無理やり寝かせた時、、


父が泡を吹いて苦しそうにしはじめ、
すぐさま救急車を呼びました。




母親は、いまでもその祖母(父の母)を
恨んでいるそうです。



無理やり寝かせたから、
その時がやって来てしまったんだと。




あの時目から涙を流しながら運ばれて行った
父の顔を忘れられずに、
いまでも夢に見たり、フラッシュバックする程
苦しそうな顔でした。




ここまで書いて結構苦しくなったので
1度中断します。。