…恋ひ死なむ後の煙にそれと知れ終にもらさぬ中の思ひは
私の恋愛観は、実践を伴わぬまま、もっぱら読書によって形づくられた観念的なものである。現実の恋を生きたことはなく、理想としての恋のみを思惟してきた。その根底には、三島由紀夫『葉隠入門』に記された「忍恋」の思想が強く影響している。私は恋愛に精神性の「丈」の高さを求め、獲得と引き換えに訪れるエネルギーの死を忌避するがゆえに、フラストレーションを抱え込みながらも、死ぬまでただ一途に一人の人を思い続けることを理想としてきた。
もちろん、これは強がりだと言われればそれまでである。現実には、意中の人と結ばれることができれば、無常の喜びを(少なくとも当分のあいだは)甘受できるだろう。殊に、打算の入り込む余地が少なく、自然に男女の距離が縮まりやすい学生という立場においては、恋が獲得へと一直線に進むのはむしろ当然である。私もまた、その例外ではない。忍恋という高邁な理想を夢想しつつも、現実を前にすれば、女性に対する認識は容易に揺れ動いてしまう。
問題の所在は、愛欲と肉欲とを峻別できていない点にあるのだろう。愛欲、すなわちアガペーのみを女性に向けることができるならば、忍恋は決して難しいものではないはずだ。身体を超越した精神的な愛を抱くことができれば、それはきわめて「丈」の高い恋となる。それは獲得や見返りを目的とする愛ではなく、自らの一身を無償に差し出す愛である。一方で、肉欲、あるいはエロースは、必然的に現実の肉体の獲得を要求する。形而下の肉体という形式を伴わなければ、性欲が真に満たされることはない。欲に塗れた肉を媒介として発散されるものが、高い精神性へと昇華される理由は、どこにもない。
もっとも、ここで私が肯定しているのは、性欲を風俗によって処理し、愛欲のみを女性に向けるといった、いわば戦前的な器用な分業倫理ではない。今日の倫理観に照らせば、それが許されないことは自明である。ショーペンハウアーは、人間にとって性欲の発散は人生における暇つぶしの一形態であり、決して回避不可能なものだと述べた。それでもなお、私は肉を断ち、ひたすら精神的な愛を追い求めていたいと思う。それは、拗らせた童貞であるがゆえの思考にすぎないのかもしれない。しかし、少なくとも若き日の私は、このように考えていたというその事実を、ここに記しておく。