いつからでしょう、己と他とに隔たりを感じるようになったのは。
他の人はどう感じているのか、私には知る由もありませんが。私は歳を重ねるにつれて本音と建前を学びました。それは今日の日本で生きていく上でとても大切なものです。無用な争いを避け、言葉を以って理解し理解される。素敵な事だと思います。
でも、気持ちを言葉にするのはとても難しい事です。それも、場合によって様々なニュアンスに変換しなければなりません。そもそも感情を言葉にする、というのはどういう事なのでしょう?
私は、私も、皆も、感情を言葉にしているのではなくて、言葉で示される感情を抱くようになっているのでは、と考えるようになりました。
本来であれば感情を示す言葉というのはあくまでもある程度の感情の機敏を分別し、相手に伝えるためにあると思うのです。それは言葉で全てを表す事は不可能か、可能であってもとても難儀な事であるからではないかと。
感情を言葉で示すはずが、言葉に縛られている気がするのです。自分でも何を言っているのか、完全に理解は出来ていないので支離滅裂になっているのは分かっていますが。
そうして人は望む事、言葉で示すのならば幸せを見失っている気がするのです。
幸せにならなくてはいけない。何故、幸せにならなければならないのでしょうか?今、幸せではないのでしょうか?
諸行無常という言葉がありますよね。本当は皆分かっているはずなんです。不動の幸せなんて存在しないんです。躍起になるのは危険です。全ての幸せも結局は、一時凌ぎでしかありません。
そう、知ってはいるのですが、私も囚われの身であります。将来を憂いて、今感じる事の出来る幸せを逃しがちです。それが一番勿体無いんです。
結果なんて何をしようがついて回るものとは、敬愛する知人の言葉です。行動によって結末は異なるが、そんなものは後付けでしかなく。行動そのものが、今感じている世界を満喫する事こそが、大事な事なのだと。私はそう思いたいのです。
私はようやっと家族や友人、周囲の人々とは違うのだと気がつきました。勿論、十人居れば十人の倫理観があります。それでも、他の人は幸せを定義したのかされたのか、確信を持っている様に思えます。
定められた幸せに向かうために、思い思いに生きている。それは羨ましくもありますが、私は疑問を抱かざるを得ません。子供のなんでなんでに等しいものだと理解はしていますがね。