昨日の事をちょっと振り返ってみますとね。えらい一日やったんどっせえ~~そら!昔の言葉で言うとまず活動写真を観に行きましたやろ。その帰りに物産館に寄りました。物産館から出たら土砂降りの雨どすがな。こらあかん、こうもり傘と違ごて小さい折りたたみ傘や。しばらく待ってましたんどすけど一向に雨やまん。これから、やいと屋のあとに床屋が開店したし髪切ってもらいに行きたかったんどっけどね。行こか、行かんとこか、なんや九州の入り口みたいにもじもじしてましたんや。  ええい!{男は度胸、女は愛嬌、坊さんお経で相撲取り裸、梅干しラッキョで、ウグイスホケキョ}で思いきって自転車乗って傘差して床屋に付いたらピタッと雨やんだ。ほんま、いかれこれですわ。世の中そんなもんどす。その帰りに寺町今出川の角に道しるべがあります。ここは子供の頃から知ってました。
小学校一年の一学期までここに住んでましたさかい、よう知っとります。しかもこの道しるべの前で電車に引かれた、いや、正確には引かれかけたんどす。昭和二十三年、6歳でした。自宅は寺町道今出川を上がったとこにありました。。寺町道を今出川を少し下がった北側に米屋があった、おそらく配給米で母と並んでたんどす。わしこの頃からせっかちで並ぶのに飽きたんでお母ちゃん僕、先に帰るゆうて今出川道を渡った時転んだんです。なにしろあのころは信号なんかあらへんし、自動車て一台も走ってへんだし米屋からまっすぐ北に走って線路につまずいて転んだ、その時意外と冷静で電車の運転手さんが必死でブレーキ掛けてるのがわかったし前を見たら道しるべがあったのも分かったのになんで起き上がれなかったのが今だに不思議です。幸いギリギリのとこで電車の前の金網の下まででした、車輪はあと何センチだったかな?そのあと報道陣が家に押しかけてきてえらい騒ぎやったって母が言ってました。
 
今出川道寺町東北角にあります。  建立は慶応四年でかなり古い。高さは168センチ。
{東} 須磨や伊兵へ 下かも 五丁 比ゑい山 三り 若松や安兵へ 金屋久兵へ
 東   吉田      十二丁   黒谷      十五丁   相模や宗助 八百や与助
 真如堂   十四丁   坂本越   三り   福枡や伊兵へ 出石や熊吉 大和や常七
{南}  かう堂   九丁      六角堂   十九丁   丹波や安兵へ 同 与兵へ
 南   六条      卅五丁   祇園      廿二丁   新米や幸三郎  清水      廿九丁   三条大橋   十七丁
{西} 内裏      三丁      北野      廿五丁
 西 金閣寺   三十丁   御室      一り十丁 あたご   三り
{北} 丹波や市兵衛  上御霊   七丁      上加茂   三十丁   近江や太四郎 亀や正五郎
 北 くらま   二り半   大徳寺   廿三丁   竹本天喜 若さや常次郎
    今宮      廿六丁   慶応四年辰年四月   岡野金兵衛   若さや九郎助   山城や市兵へ
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!当時信号も横断歩道も無かったのでそのまままっすぐに道標に向かって渡ったが!
 
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電車の線路の上で転んだ、そこえ丁度電車が来た!
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この写真は北大路橋ですが終戦前に写されたのですがまったく自動車は通ってないですねえ。
 
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京極小学校入学の時の写真です。
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 向かって右端が倉橋先生でその横が私です。倉橋先生の後ろが母です。
この頃昔の事も忘れがちですのでアルツハイマーにならない内にブログに書き込んでおこうと思いました。
ほんまによう忘れるわ~~金の勘定はしっかりしてるけどね。
 
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