STAP細胞論文問題に関連して、この問題を取り上げる者は小保方氏を「陥れたい」「女性だからいじめている」「妬みがある」と言う人がいることに、私は驚く。この問題をワイドショー的に捉えることは自由だが、国家の礎である教育研究と真剣に向き合うことにはなっていない。ましてや、女性の社会進出などと関連付けることは、この問題の本質を眩ます邪心でしかない。


研究者にとって最も恐れていたことがこの一件なのである。今、特に特許出願に絡む研究者は基礎が確立しないまま熾烈な競争の中にいる。「先発明主義」が取られているため、一番最初に発見した者に特許が認められ、多額の金が渡るようになっている。それに加え、企業も研究者に多額の資金を援助しているため、研究者は金の亡者の小間使いになっているのである。


ところが、研究者というのは概ね羊のように従順で世間知らずな人間が多いため、自分の置かれている立場を認識できず、また、善悪の判断もつかないことが多く、言いなりになり、平気で不正をする人が目立つ。研究者の倫理観の欠如は半端ではない。私のような金銭とは無縁の分野でも不正の話を聞いたことがある。いわば、不正は常態化している。


本人はまだ認めていないが、今回のSTAP細胞論文疑惑でも、同様の臭いを感じる。小保方氏一人に罪を着せるのは可哀想だ、との意見をよく聞く。私もそのように思いたいが、残念ながら、今回の件はそうとはならないだろう。おそらく、小保方氏はこれまで真面目に研究に取り組んできた。技術的には相当高いものを感じる。しかし、なぜ、その研究に取り組むのか、という思想面において「未熟」であったのではないだろうか。だから、結果を出すことに先走ってしまったように思えてならない。小保方氏の早稲田大学に提出した博士論文の冒頭20ページが盗用だったと言われるが、冒頭には通常、研究史と、なぜ自分がそのテーマに取り組むのかということの意味や必要性を説明する。しかし、それが盗用であるならば、思想性を重視しない傾向があるのかもしれない。


研究とは個人主義で分業制の世界である。チェック体制が行き届いていないという意見もあるが、四六時中研究室に閉じ篭もりようやく導き出す複雑な実験結果をチェックすることなど、ほぼ不可能である。今回理研は再現実験を試みると言っているが、それにも1年はかかるらしい。このことからしてもチェックの難しさを窺わせる。せいぜい、定期的に研究ノートを第三者に見てもらうことで実験の客観性を確保するくらいしか、チャックはできない。


先日の若山教授の会見、「核心部分の画像に問題があり、STAP細胞の存在が信じられなくなった。」とする主旨の発言が総てを物語っていると思う。



ヴァイディヒ


ここ暫く記事の更新を怠っておりましたが、再開したいと思います。私の研究の一端をお見せいたします。19世紀ドイツ(ヘッセン・ダルムシュタット大公国)の政治運動家フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヴァイディヒ(Friedrich Ludwig Weidig1791-1837)についてです。


この人物は政治運動家であると同時にプロテスタントの牧師でもありました。この人物の説教が残されており、これがヴァイディヒの死後1838年に刊行されています。下記にその刊行までの経緯についてまとめてみました。



1837年、ヴァイディヒが獄中で自決をした後、幾人かの友人により、『フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヴァイディヒの聖遺物』とのタイトルでヴァイディヒの詩、説教をまとめた出版物が刊行された。この出版物は、同内容のテクストのまま2版出版されたが、2版目は印刷ミスの修正箇所の一覧が末尾に加えられている。当初、印刷場所としてヘッセン領内が計画されていたが、ヴァイディヒに関する伝記の記載において「非の打ちどころのない人物であったが、政府から無罪のまま迫害され虐待された」などと記されていたため、検閲の関係上、当地での出版は実現せず、マンハイムとなった。


この出版物の冒頭には「フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヴァイディヒ博士の生涯より」(Aus dem Leben des Dr. Friedrich Ludwig Weidig)という論文が添えられている。この論文の執筆者は法律顧問官カール・ブフナーであることが確実である。ブフナーは1848年にヴァイディヒ財団の副会長であり、1848年にヴァイディヒの新しい墓が建立されたときにも弔辞を述べた人物である。ブフナーはヴァイディヒとも面識があったため、彼の人物像を正確に描写することができた。ブフナーは1849年にエドゥアルト・ドゥラーにより出版された『民衆の友により語られる、民衆の男たち』(Die Männer des Volkes, dargestellt von Freunden des Volkes)の第7巻で「『聖遺物』は自分の監修の下で出版された」ことを語っている。また、『聖遺物』と『民衆の男たち』におけるテクスト比較の結果、全箇所において字面が一致している。従って、『聖遺物』はブフナーの編集であるとみて間違いない。ヴァイディヒと面識のある人物が編集した『聖遺物』はヴァイディヒ研究において信頼に値する文献と言える。


ブフナーの略歴について下記に纏めたい。

1800:ダルムシュタットに誕生。ギムナジウム期に解放戦争に触発され、煽動文的な詩を発表した。

1817:法学を学ぶためにギーセンに来る。政治組織「黒衣派」に加入する。

1819:ハイデルベルク大学入学

1820:ザントの死刑にショックを受け匿名で彼に関する著書『K.L.ザントの最後の日々と瞬間』を刊行する。

1829:法律顧問官となる。

1831:退職する。以降、弁護士、作家として影響力を持つようになる。

1844:『ドイツの法律家』を刊行する。40年代には有名な作家とコンタクトを取り活動する。(フェルディナント・フライリヒグラート、エドゥアルト・ドゥラー、ルイーゼ・フォン・ポレニウス、ベルトルト・アウエルバッハ、ユスティヌス・ケルナー、グスタフ・シュヴァープ、ルートヴィヒ・ウーラント、ハインリヒ・ケーニヒ、エマヌエル・ガイベル、レーフィン・シュッキング、ホフマン・フォン・ファラースレーベン、アンダーセンとカール・マルスらである)*これらの人々との親交の影響もあり、ヴァイディヒの著作がいかに上質で出版されたかが、明らかである。

1872:ダルムシュタットで死去


『聖遺物』のオリジナル原稿を持っていたヴィルヘルム・ディールなる人物が語るに、この原稿はフリートベルクのC.ビンダーナーゲル社で印刷されることになっていた。しかし、検閲義務が課せられていたフリートベルク群長のキュヒラーにより、原稿がダルムシュタット政府当局に渡された。これは返却されることなく、ギーセンの宮廷裁判所に譲渡された。後に、新たな原稿が国外マンハイムにて印刷される運びとなった。フリートベルクで印刷されるはずの原稿には出版された原稿にある序とあとがきが欠落しているが、ヴァイディヒの論文「プロイセンと憲法」(1831年に刊行)が収められている。


また、『聖遺物』にヴァイディヒの3つの説教『共同の利益に関して』、『1823年イースター』、『我々に残されたこと』が収められている。これらは全てヴァイディヒの執筆による原本である。しかし、タイトルに関しては印刷の際に少し変更されている。


『聖遺物』に収められているヴァイディヒの説教『共同の利益に関して』、『1823年イースター』、『我々に残されたこと』のうち前二者はブッツバッハのマークス教会に収められていたことが間違いない。これらに加え、当局の報告によるとさらに少なくともあと2つの説教があると言われている。


1818117日、ギーセンの宮廷裁判所の報告によると、ヴァイディヒはドイツ民衆の屈辱的な状況に終止符を打つ目的で、説教台から身分制議会と皇帝を対象とした祈祷をした。査察官であり、牧師であったロインなる人物は、この事態に関する報告義務が課せられたのだが、181992日にギーセンのある教育顧問官が、ロインの年貢に関する説教に対してヴァイディヒが反対の説教を行ったという噂の真相について、問うた。ロインは守秘義務が課せられた。一方、1819917日、ダルムシュタット当局はこの件に関して次のように報告している。ヴァイディヒは教会の決定を退廃した説教で冒涜したかどで罪が着せられる、と。また、彼のこれまでの人生と言論について調査し、彼を監視対象としなければならない、と。実際に、1819923日に当局はヴァイディヒを監視対象とすることを公示した。


ヴァイディヒとブッツバッハの牧師との関係については詳細には分からないが、後に彼の上司となるシュタインベルガ―は1814年にヴァイディヒが設立した「ドイツ協会」から脱会し、この詳細について事実をあげて述べている。ヴァイディヒの説教は当時の状況をコンテキストとして踏まえて読むべきであり、政治的に解釈されるべきである。


【『共同の利益に関して』】


この説教の主題である共同体意識、公正さ、言論の自由、全体の利益は、単なる聖書表現ではなく、ヴァイディヒと大公国の切望するところであった。これを先取りしているのがこの説教である。教師でもあったヴァイディヒは人々を真理に導こうとしていた。後に書かれる『ヘッセンの急使』と比較してみると、農民への賛美という意味において、階級構造の描写という枠を超えたものがある。彼は裁判官と国家に権利を保護することを委ね、隣人の権利を侵害する者は泥棒以上に悪いということを確信する一方で、無法者が暴力を行使した場合、正当防衛の権利がある、との結論に至った。しかし、原則として法は暴力によりもたらされるものではない、ことを勧告している。


ヴァイディヒが述べているキリスト教支配の理想像は、ヴァイディヒが敬意を抱いた旧来の大公への対立像を意味していないだろう。しかし、その他の国家体制に対する対立像を意味しているであろう。


【『1823年イースター』】
この説教でヴァイディヒはルター派における事情を頼みとしている。


【『我々に残されたこと』】

現存する最後の説教から11年が経過しているが、この間、ヴァイディヒは脅迫、収監などを体験した。これがこの説教を読む際の注意点となるだけでなく、行間にも深く刻み込まれている。また、ヴァイディヒはそれを率直に言葉にしている。ヴァイディヒは『ヘッセンの急使』を執筆後わずか数か月を経てこの説教を執筆しているのだが、オーバーグレーンに左遷されたのにもかかわらず、自己が悪徳の犠牲者であるとの認識で善の勝利と正義と真理の支配を述べている。従って、彼が神を畏れ、地上の偶像を崇拝すべきでないと語るとき、彼は個人的に自己に関連することを口にしているのである。しかし、ヴァイディヒは偶像の強大さをイメージできなかった。そして、イエスが悪と戦ったことを想いお越し、彼自身も聴衆に悪と戦うことを奨励している。そして、彼は真理と善と道徳、法、正義と真理に裏打ちされた市民的教会秩序により完成と幸福が訪れることために尽力した。


彼が自負する言葉として次のものがある。「誠実な者は真実を語り広める。なぜなら、真実により自己と隣人は善となり幸せになり、精神的に強靭となり、自由になるからである。」ヴァイディヒは信仰と希望と愛により、自己の神学的、政治的展望を広めた。彼は左遷後の新天地オーバーグレーンで、自らの義務を理解していた。そして、地域の人々に高官に対する敬意を、自分への信頼も求めた。彼は自らの説教の中でブッツバッハで自らの身に降りかかった悪徳について、巧妙に自らの公正な心情を織り交ぜながら述べている。





【参考文献】

F.L.Weidig Gesammelteschriften 1987 Darmstadt




文学研究において確かに経験は大事である。作品内在解釈、受容美学理論、カルチュラルスタディーズ・・・。これらの理論を学んでも作品への共感を抱けなければ意味がない。恋をしたことのない人間がゲーテの『若きウェルテルの悩み』を理解できるだろうか。否である。しかし、サイエンスの立場で文学作品を研究する場合、共感や感動をあえて廃する必要がある。


文学研究には実体験と共感が要求されることから、これまで、この分野において科学的再現性を証明することは困難であるとされてきた。文学研究とは本質においてサイエンスとは相容れないのである。


私もそのとおりだと思う。従って、感動を前提とする作品内在解釈を筆頭に、これまでの文学研究はサイエンスではない。このような考えに至り、私は文学作品が生み出される社会的背景に絞り研究を重ねることにした。ここには歴史的資料に基づく再現性の確保がかなり可能であるからだ。つまり、実証主義研究に移行した。


サイエンスを重視する立場に立つと、文学作品と読者との間に生み出されるコミュニケーションなど問う必要性がなくなる。このような恣意的な部分には議論は存在しても、再現性の証明は存在し難いからだ。


事実を確定する。これがサイエンスの姿勢であるならば、空想や虚構である文学作品の解釈のうちに事実の確定をすることは不可能である。よって、サイエンスの立場を堅持するのであれば、文学研究において語彙の使用頻度の統計や作品の背景やコンテキストに限定される。


文学作品の内容など、興味がないとの立場を取れなければ、文学者は科学者とは呼べない。解剖学者が死人を解剖する場合、感情移入すべきではないであろう。文学研究も同じである。いちいち感動したり感情移入などしてはならない。「これは素晴らしい作品だ。感動した。」と思うのであれば、それを研究すべきではない。その時点で客観性の確保を放棄したことになるからだ。