先週の三笠編の続きです。
いよいよ、三笠に乗艦です。
東郷元帥の銅像を後にして、乗艦口を目指します。
乗艦口は、ちょうど、三笠の左舷後方に位置しています。
艦首は、皇居に向けられているように置かれたとのことです。
乗艦口のタラップ付近に、戦艦大和の主砲弾がありました。
小学生の頃、読んだ戦記物の本に拠れば、
「東京から発射すると、横浜を通過し、大船あたりまで届く」
と書かれていたのを思い出しました。
台座には、正式名称「91式徹甲弾」、最大射程「42000m」
と書いてあり、概ね、東京~大船間の距離である40キロ
と合っていることが確認できました。
そのほかに、大和主砲弾の横には、三笠の主砲の砲身が
あります。
左の黒い砲弾は、ロシア艦の砲弾です。
それにしても、大和の主砲弾と比べると、小さいですね。
さあ、いよいよ、タラップを駆け上り、三笠に乗艦しました。
ちょうど目に付いたのが、後部主砲塔です。
ちょっと、テントの屋根があって邪魔ですが、圧巻の構図です。
ちょうど、このあたりは、後部甲板あたりで、記念グッズ
コーナーと喫煙所になっているので、屋根があるのかも
しれません。
ちょうど、砲身の付け根の台座に、説明がありました。
こちらは、三笠主砲弾です。
この砲弾もしゃがんで眺めたぐらいですから、小さいです。
それにしても、説明にもありますように、日露戦争の頃の
主砲の最大射程は、10kmとありましたが、大和の主砲弾
の最大射程の4分の1です。
日露戦争と太平洋戦争とでは、40年の歳月がありますが、
更に、大和から60年の歳月が経過した現代では、大和の
主砲弾よりも更に、大きく、射程の長い、ミサイルへと進化
しています。
40kmの射程なんか、かすんでしまいますね。
実は、大和も現役の頃は、空母を中心とした機動部隊による
所謂、「大艦巨砲主義」から「航空主義」へ変遷を遂げた時期
と重なっており、大和は、あまり実戦では、活躍しておりません。
時代は、戦艦の主砲の射程よりも、航空機の航続距離が、
勝敗を決する「制海権」から「制空権」を奪いあう戦闘へ変化
していたのです。
この「大艦巨砲主義」は、日本海海戦の成功体験からくるもの
で、過去の栄光から脱却できなかったことが、先の大戦での
旧帝国海軍の悲劇を招いたことでもあると個人的に思ってます。
まあ、このへんのウンチクは、別の機会にするとして、
いよいよ、前部主砲塔へと向かいます。
これぞ、戦艦三笠!という、いい構図です。
やはり、テントなんかないほうがいいですね。
主砲の上の人がいっぱいいる櫓みたいなところが、
三笠の艦橋です。
日本史の教科書等で、東郷元帥が双眼鏡を手に
して、幕僚といっしょにいる図を見たことありませんか?
有名な「三笠艦橋の図」です
ふと気づいたのが、日露戦争の頃の艦橋には、まだ
屋根がない、というか、むき出しだったことがわかり
ます。
実際、僕も艦橋に登りましたが、結構、狭いです。
↓艦橋から前部甲板を眺めたところです。
かの東郷元帥もこんな感じで、眺めていたのかと思うと
ちょっと感動です。
実際、本当に、結構、眺めはいいですよ。
日本史選択で、近現代史が好きな方には、おススメです。
とりあえず、今回は、ここまで。
次回は、いよいよ、三笠艦内編です。
それでは、また。