20代半ばのころある練習仲間から聞いた話。

その男の高校時代の教師が熱心な剣道家で当時よく中倉清師範の指導を受けていたという。

ある日道場の最寄り駅で降りると駅のホームのベンチで師範が防具袋を傍らに置いて休んでおられた。

当時の師範はおそらく80代半ば、彼は師範を気遣って近着き、「お持ちします」と防具袋に手を伸ばした。

師範は彼の手を遮り、微笑みながら「まだまだ」とつぶやいて立ち上がり、防具袋を担いで道場に向かったという。


私と練習仲間は「こうありたいものだ」と言い合った。

その練習仲間はもうこの世にはいない。

だが今でも何かにつまづいてそれでも踏み止まろうと「まだまだ」とつぶやくとき、この話を思い出す。

このブログの最初に自分の生活信条を書いた。

その一つ


何事に対しても見返りを求めない


この態度の持つ意味を最近よく考える。

これを掲げたきっかけは浅田次郎の小説だったと記憶している。どの作品だったかはもう覚えていない。


人は誰でも自分の生、行いに意味や意義を持たせたいと願う。それ自体は自然で悪いことなどではないと思う。

ただその持たせ方についてはよくよく吟味をしないと新たな間違いや迷いの元になる。


わかりやすい方便としては

「見返りを求めてもし裏切られる結果になったら悲しいでしょう?」

という考え方もある。

始めから「助けたいから助ける、他はおまけ」と思えれば余計なものは背負わずに済む。


人の利益も自分の利益も同じこと、助ける行為と助けられる行為も同じこと、という真相、道理に納得がいけばある意味当然の帰結と思う。


大事なもの、自分と関わりの深いものなら守ろうと思って当たり前、そうではなく、何の利害も価値観もなくただ守れるものを守るということが可能かどうか?


聖書のヨブ記によるまでもなく神の救いに人間の価値観、思惑は一切関係がない。

助ける価値、守る価値、自分の意義、全てを神といわずとも、道理、真理、に委ねる本来の意味での「他力本願」の結果こそが私にとっては「見返り、損得、わが身の度外視」ということになる。


貫くことはなかなか難しい。

それでも少なくとも今の自分にはこの実践以外に自分を活かしきる方法は考えが及ばない。



時間が経ってしまったが8月14日、Z団による「BARAGA-鬼ki」再演の昼公演を観劇した。

ACファクトリーの富田さんと石倉さんが参加されていたこともあるが基本的に幕末、新撰組が好きなことと、いくつかの初演のレビューでの評価を見て興味があった。


座長の富田さんが桂小五郎、石倉さんが井上源三郎を演じられた。

大変に見応えのある舞台だった。

新撰組というと近年は漫画などの影響で極端にキャラクター化が進んでいてたいていの作品は食傷気味であったのだがこの舞台はそういった部分と史実の部分のバランスが絶妙だった。


まず驚いたのは近藤勇役の末吉さん。よく見かける本人の写真にそっくりなのである。身長はもっと低かっただろうがキャラの描き方の上手さも手伝ってか「実際こんな感じだったんだろうな」と素直に思えてしまった。

ほかの隊士もみなよかった。殺陣もよく練られていてSEとの合わせ方の外れなさに感動してしまった。


女性キャストを活かすためにも大胆な史実の歪曲と切り取りが成されていたがその方向性が私の好みと大きく外れることがなかったのだろうと思う。土方最後の突撃はやはりグッと来てしまった。


しかし一番の泣き所は文句なしで源さんだろう。あれは卑怯なくらい来た。

何かを護って身体を張るおっさんという画はおっさんになる前からツボだったと思う。

今でも漫画史上最高の散り際は私の中ではエリア88のグレッグである。

石倉さんの思い入れの深さもあったと思う。

あのシーンだけで元は取れたと思えた。


富田さんの木戸孝允もよかった。クライマックスで土方を追い詰める木戸、大久保の画は演出の上手さもあったが本当に盛り上がった。


仕事が立て込んで一度しか見れなかったのが悔やまれる。是非再度の公演を期待したい。