陸遜伯言(183-245)

魏や蜀と渡り合った孫呉の秘密兵器

元々、江東の豪族陸氏の生まれでかつて孫家とは因縁関係にあったが21歳の時に孫権に仕え、孫氏に対立する非協力的な豪族や不服住民の反乱を次々と平定し成果をあげていった。その後、孫策の娘を娶り孫家との結び付きを強化。荊州攻略の際、大都督呂蒙が才気に溢れ尚且つ当時無名だった事に目をつけて関羽討伐の主軸を任された。219年に陸遜は謙った態度で軍功を称える手紙を送って関羽を油断させ、呉への警戒を解いたのを見計らって呂蒙と共に魏との戦いに気をとられた関羽を挟み撃ちにし生け捕りにし荊州平定に成功した。

222年、劉備が義弟関羽を弔う為に侵攻してきた際、陸遜は大都督の座に就き迎撃にあたるも、実績が乏しく消極的な姿勢をとったので彼を侮ったり、臆病者と罵ったりするものもいたがこれが劉備軍の油断と疲弊を招き、火計による奇襲から攻勢に転じ、更に漁夫の利を得ようと侵攻してきた魏の軍勢も撃退したことでその名を大陸中に轟かせた。その後も孫呉の中核として発展に尽力し丞相にまで登りつめるが245年に跡継ぎ争いで孫権と対立し反逆の疑いをかけられ憤死した。彼の遺志は子の陸抗が引き継ぎ、斜陽の呉を支えてゆくこととなる。

夏候淵妙才(生年不詳-219年)

恐れを知らぬ神速の切り込み隊長

曹操の親族として族兄夏候惇と共に旗揚げ当初から従軍した。200年に官途の戦いで袁紹を破ってからは反乱の鎮圧に従事し主に奇襲攻撃や前線の指揮、兵糧管理の責任者として活躍した。

211年に涼州征伐に従軍し激しい抵抗を続ける馬超、韓遂を撃破し涼州を平定した。その後も曹操と共に漢中に独立勢力を築く張魯を降伏させ215年に張郃、徐晃らを率いて巴郡(現四川省隣)を制圧し本拠地へ引き上げた曹操から征西将軍として漢中防衛を任された。その頃から蜀を手に入れた劉備と漢中を巡っての睨み合いか続き、その後、益州付近まで進め、定軍山にて劉備軍と対峙する際、苦戦する張郃に兵の半分を救援に向かわせたところを敵の軍師法正に見抜かれ攻め込まれた。高所から背後を突いてきた黄忠に対して迂回させ、逆に背後を取ろうとしたが返り討ちに遭い戦死。総大将を失った魏軍は敗走し漢中は劉備の手に落ちてしまった。

夏候淵は魏軍でも極めて勇猛な武将であったが無鉄砲さ故に曹操から「指揮官には勇気ばかりではなく、時には臆病さも必要で、行動するときは常に知略を用いよ」と戒められていた。

馬超孟起(176-222)

西涼の象徴と謳われた猛将

武芸の才能に秀でて若い頃から勇名を謳われていた。202年の匈奴討伐の際、矢傷を負いながらも奮戦し勝利に貢献した。211年に曹操が漢中の張魯討伐に赴く際にこちらにも危険が及ぶとみた馬超は父馬騰と親交が厚かった韓遂と協力して打倒を試みた。寡兵ではあったがその凄まじい攻勢で敵の大軍に大打撃を与え敵将曹操をあわや討ち取るところまで追い詰めたが護衛にあたっていた許褚の抵抗に阻まれ敵軍師賈詡の「離間の計」によって韓遂と仲違いし足並みが乱れたところを叩き潰され敗走。これにより父馬騰ら一族郎党は曹操に処断された。その後、張魯を頼り反撃するも失敗に終わり、従兄弟の馬岱と共に益州攻略にあたっていた劉備の下に降った。これを知った蜀の劉璋は恐れをなして降伏した。その後は漢中攻略に従軍するも222年劉備に先立ち47歳でこの世を去った。

戦においては「錦馬超」の異名そのままに地の利を生かし巧みな馬術と槍さばきで暴れまわったが思慮に乏しく敵の計略にかかり曹操に敗れてしまった。蜀に降ってからは目立った功績は無いがその武威に魏の将は恐れ侵攻を躊躇ったと言う。