近所の古本屋さんで 確かに 数年前に見掛けた 全16巻
そのあとすぐ買いに走ったら 書棚を移動されて消息行方不明
店員さんと一緒に探すも 見つからず (ネットで探せばええのにネ)
きのう立ち寄っていつものように『ねぇかなあ』と探索してたヤツ
発見 しました
第3巻がマッハ論だね
とりま廣松先生のマッハ批判をみっけ
『認識論の究境的な与件は ”反省以前的な、意識に現れるがままの世界” いわば幼い童心の感覚へ流れ込む大量の情報、フェノメナル(現相)世界、それを措いてはありえない。 マッハは 色 形 音 味 香り など感性的諸要素が 複合的な函数的連関態を形作っていることに目を止め、その連関態を 「思考経済の法則」 に従って縮約的に記述することを目指す。 しかし我々は現実の世界は要素複合体以上のものであると指摘し、 この『以上』とそれの存立する構造的機制を問題にせざるをえない。 この感性的素材『以上』の あるものは、それ自身は感性的要素ではありえず、非感性的 あるいは イデア的なものであると言わざるをえない。
だがマッハの現象主義的立場からすれば、世界は要素複合体 以上でも 以下でも無いのだから、そのようなイデア的契機を容れる余地はないであろう。 だとすれば、マッハ要素一元論は一方でこのイデア的契機を否定しながらも、 他方でそれを「函数的連関」や「ゲシュタルト」といった形で密かに体系の中に導入しているのであり、その点で一種の自己欺瞞に陥っているのだ。 マッハ哲学は意味契機の存立とその共同主観的な被媒介性をを看過することにおいて、現相世界の歴史的・社会的な相対性を把捉していない。』
廣松先生は この 『以上』 の契機を
『フェノメナル(現相)世界は 所与がそれ以上の或るものとして「誰」かとしての或るものに対してある』
認識の四肢的構造連関の範式に即して捉えなおすのである
前後を読んでないと 意味不明ですが そういうことなのだナ
物理学界におけるマッハは 哲学界においてもマッハであるのだナ
批判といっても、強靭なマルクス主義者であり 根がマッハ主義者
アンチからの蔑称は 光栄 であるかもしれない
16巻かあ まった当分読めるなあああ