僕がボタンを拾い上げると、セリナは無邪気な笑顔で、はだけた胸元を僕の方に向けてくる。
「それで、悠真。悪いのですが、このボタン、わたくしにつけてくださいます? 実は裁縫というものは、専ら使用人の仕事でして、わたくし、針と糸の扱いが全く分からないのですの」
彼女は大きな碧眼で、僕の顔をじっと見つめている。その瞳には、一点の曇りもない。ただ純粋に、困っているから助けてほしいと願っているだけだ。
(……はい? 今、何て言いました? この、僕が……彼女の、はだけたブラウスのボタンを……?)
僕の頭の中で、爆音と共に警報が鳴り響いた。いや、むしろ警報というよりは、勝利を告げるファンファーレに近い音が鳴っていた。
「……そ、それは……」
目の前には、無防備にはだけた胸元。そして、純粋無垢な瞳で僕を見つめる、学園の(そして僕の)憧れの的。
僕の青春は、どうやら今日から、さらに予測不能な方向へと加速していくらしい――そう覚悟を決めた、その時だった。
「ちょっと待ちなさい、天音坂さん!?」
甲高い声が教室に響き渡った。
僕とセリナの視線の先に立っていたのは、藤堂 葵(とうどう あおい)
だった。セリナの幼馴染で、学園内でも数少ない、彼女に物申せる貴重な友人だ。栗色の髪をポニーテールに結び、いつもハキハキとした印象の彼女は、今、顔を真っ赤にして僕たちを睨みつけている。特に僕を。
「悠真くんも悠真くんだわ! 男子が女の子のブラウスのボタンをつけようとするなんて、デリカシーがないにも程があるんじゃないの!?」
「え、いや、その……」
僕は焦って弁解しようとするが、葵の剣幕に気圧される。
「天音坂さんも天音坂さんよ! 人前で、しかも男子にそんなことを頼むなんて、もう少し羞恥心というものを持ちなさい!」
「羞恥心……?」
セリナは首を傾げ、はだけた胸元を再び見下ろす。本当に理解していないようだ。
その間にも、教室の隅では男子生徒たちのヒソヒソ声が大きくなっていた。
「くそっ、朝霧のやつ、あわよくばセリナ様の胸元に触れる気だったのか……!」 「いや、あれはセリナ様が頼んでるんだぞ! 朝霧、代われ! 代われェッ!」 「葵ちゃんナイスアシスト! ぐっじょぶ!」
羨望と嫉妬と、そして一部からは感謝(?)の入り混じった視線が僕に突き刺さる。胃がキリキリと痛んだ。
「まったくもう! 貸しなさい、天音坂さん!」
葵はそう言うと、僕の手からボタンをひったくるように奪い取り、セリナの目の前に立った。
「私がつけるわ。あなた、裁縫できないんでしょう?」
「あら、葵。ありがとう。助かりますわ」
セリナは素直に頷き、葵がブラウスのボタンをつけやすいように、大人しく胸元を差し出した。葵は顔を真っ赤にしながらも、手慣れた様子でボタンを元の位置にはめ込んでいく。
僕はその様子を、ただ呆然と見ていることしかできなかった。
(ああ……終わった……)
ホッとした気持ちが、全身を駆け巡る。 これで、僕がセリナの胸元に触れるという、とんでもない事態は避けられた。これで変態呼ばわりされることも、学園中の男子から命を狙われることもない。平穏な日常が守られたのだ。
……しかし、なぜだろう。
僕の胸の奥には、わずかな、本当にわずかな、**「惜しい」**という気持ちが残っていた。
(いやいやいや! 何を考えてるんだ、僕! 朝霧悠真! お前は常識人だろ!? これは危機一髪だったんだぞ! むしろ感謝すべきだ!)
頭ではそう理解しているのに、心臓が、微かに「チッ」と舌打ちしたような気がした。僕の理性と本能は、どうやら別の方向を向いているらしい。
葵がボタンをつけ終え、「よし、これで良し」とばかりにセリナから離れた。
「それにしても、セリナ様は本当に無自覚すぎるわ……」
葵は深い溜息をつき、僕に鋭い視線を向ける。
「悠真くんも、もう少し常識を教えてあげてちょうだいね?」
「……はい」
僕は返事をしながら、心の中で呟いた。
(常識を教えている僕が、一番非常識なことを考えそうになったんだけどな……)
僕の青春は、どうやら今日から、さらに予測不能な方向へと加速していくらしい。 僕の心臓が、そんな未来にほんの少しだけ期待していることには、まだ気づかないふりをした――いや、もう気づかざるを得ないのかもしれない。


