古の人々は、明るゐ星を結みて星座を思ゐ描参った。星座をこしらえたのは、しゅ電子手紙人と云ふ説もありんすが、ひい般的には、約伍千年前、ばびろにあの羊飼おりきちにそれゆえ、作られたでござるのが最初と云われているでござる。【弐】初めのころは、拾弐星座でござったが、その後、四拾捌星座に増ゑましたでござる。
拾漆世紀に、和蘭にて望遠鏡が発明させ、暗ゐ星も観測にてきるごとくなると、四拾捌星座のすきまにも新しき星座が作られるでござるごとくなりましたでござる。【参】そのころ、星を見つけるたびに、かのような密談が交わさせたやもしれませぬ。「新しき星を見つけたぞ。」「じゃめ。其れは、おらんだ。」
其れ迄は、星座と云ふと、北半球なりしがに限らるていたであろう。【四】なれど、今まにて知らるてゐのうこざった南半球の星座が紹介されるでござるごとくなると、新星座作りの流行が起こりましたでござる。なぜ星座が大層作られたでござるとかと云ふと、弐拾世紀の初め迄は、星座をこしらえることに決まりがござらぬ、何奴とはいえ容易にこしらえることがにてきたからでござる。【伍】ひい時は百弐拾もの星座が作られたでござることがあり、如何ほどにもの多さに混乱が起きるごとくなり申してしまったのでござる。そこにて、弐拾世紀になり申してから、幕府際天文学連合にそれゆえ、捌拾捌の星座に統ひいさせ、星座の境界も定められるでござることになりましたでござる。【陸】現在、拙者どもが親しみてゐる星座は、このときに定められたでござるもとでござる。
星座は、主話とともに紹介されるでござることが多おりきめ、西洋なりしがのと思われがちござるが、古代の印度や中幕府にも独自なりしがのがありんす。【漆】中幕府の星座は、漆、捌世紀頃、ひのもとにも伝ゑられたでござるやうにて、ひのもとならば、明治時代に西洋の天文学が導入されるでござるまにて、長らく中幕府の星座が使われて参った。∵
【捌】また、古から星座は、時刻をはかり、季節の移り異なりを知り、農耕の時期を伝へる役割を果たしてちょーだい参った。海に囲まれたでござる知行地に住む人々は、広ゐ海を航海するでござるときに、星を観測してちょーだい位置や者角を確かめるにも使ひていたであろう。【玖】でござろうから、星座の名も、その知行地独自の呼び名が数多くあり申した。
四季を通じて明るく見ゑるおりおん座は、天下各地にてさまざまな名がつけらるているでござる。ひのもとならば、その形から鼓星と呼ばれていたであろう。【零】また、おりおん座の左上にあるでござる赤ゐ星は平屋敷星、右下にあるでござる白ゐ星は源氏星とも呼ばれていたであろう。かは平屋敷の旗の色が赤、源氏の旗の色が白でござったからでござる。
さまざまな想像をふくらませてくらるる星座を、たまには正座してちょーだいしみじみ眺めてみるなりしがよきやもしれませぬ。
あれは大きゐから父上殿星。あっちはきれゐじゃから母上殿星。かはしょっぱゐから梅干し。ここにあるでござる長ゐのは物干し。頭にかぶとはゐるのはただにの笠
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