次のテーマは,「洗面器」です。
判決は,こんなことを言っています。
武は,被告人から洗面器を持ってくるよう指示されたアナリエが,洗面器の意味が分らず,もたもたして何か違う物を持ってきたような記憶がある旨証言しているところ,アナリエも,「八木から「何とかメンキ」持って来てと言われたが,意味が分らず,バスタオルを持っていったところ,八木から,「それじゃねえんだよ」と怒られた」旨証言している。殺害実行の緊迫した場面において,洗面器の意味がわからず,指示と異なる物(バスタオル)を持参したなどというのは極めて特徴的な出来事であって,このようなことを体験してもいないのに証言するということはおよそ考えられないことと言える。
要するに,武さんとアナリエさんの「法廷証言」だけを並べて,両者が一致している,だから信用できると言っているわけです。裁判官は,武さんとアナリエさんが「法廷証言」に至るまでにどのような話をしていたのか,完全に無視しています。しかし,以下に述べるような武さん,アナリエさんの捜査段階の供述経過を見てみれば,2人が,体験してもいないことを体験したかのように話してしまうということが「およそ考えられない」などとは言えなくなるでしょう。
武さんが,佐藤さんにトリカブト入りアンパンを食べさせて殺害したことを語り始めたのは,平成12年10月24日ですが,まだそのころは,洗面器のことなど全く語っていません。洗面器どころか,佐藤さんが嘔吐したことすら語っていないのです。
また,私は,昨日つまり平成12年10月24日夜一人で事件当時のことを思い出しているうちに渡辺荘で八木さんから「押さえろ」と言われたのをはっきり思い出しました。***
押さえろと言われたのですから,私は,佐藤さんがトリカブトを食べた後押さえつけることが必要なほど暴れたのではないかと思います。佐藤さんが暴れた姿はこれからよく思い出したいと思います。(武H12/10/25検察官調書)
このように,10月25日の時点では,八木さんから「押さえろ」と言われたことは思い出したということですが,佐藤さんが暴れた姿については,「これからよく思い出したいと思います」という状態だったのです。
佐藤さんの嘔吐に関し,3人のうちで一番初めに語り始めたのは,やはり,森田考子さんでした。
八木「佐藤さんの様子を見に行ったら,部屋の中が想像つかないほどあばれて,もがいて死んでいたよ 。部屋中がヘドまみれになっていて,佐藤さんは玄関から入って戸が開いていて,部屋の入りぎわにうつぶせで,何かとろうとしたのか,外へ出ようとしたのか,手をのばす様なかっこうで死んでいた」
***
八木「ヘドがひどくて,はこべる状態ではない。はこぶのに車がよごれるからきがえさせた。何かを着せた」(森田H12/8/1上申書)
八木は,この時幾分興奮しながら,「赤ちょうちんは今日休んじゃった,佐藤さんの様子を見に行って来たんだよ,想像がつかない程になっているよ,暴れてもがいて死んでいたよ」と,佐藤さんが苦しんで死んでいたことを話したし,計画どおりに殺したことを話したのでした。そして八木は,「ヘド吐いて,玄関から入ると戸が開いていて部屋中がヘドまみれになっていた。佐藤さんは入り際にうつ伏せで倒れていた。外に出ようとしていたのか,何かを取ろうとしていたのか手を伸ばしていた。運ぶんに車が汚れるから運べる状態じゃない。とりあえず早く片付けなくちゃならない。布団と一緒にとりあえず突っ込んで行っちゃえば良い。俺のワゴン車で良い。」等と話したのでした。(森田H12/9/12警察官調書)
このような森田さんの供述は,捜査官によって,武さんにぶつけられます。武ノートには次のように書かれています。
今日は鈴木さんが来た。
刑事の調べ。
☆
考子は,死体を見ている。
☆
ゲロなどのそうじは,アナリがしている。
☆
考子の話はリアルで,見てきたような話だと言う。
☆
このままいくと,考子の話が一人歩きして,それが利用される。私は,その場合,すごく悪い立場になる,と言う。(武ノート5冊目:10/27)
森田考子さんが語る「ゲロ」の話が,ストレートにぶつけられていることがわかります。さらに,「このままいくと,[森田]考子の話が一人歩きして,それが利用される。私は,その場合,すごく悪い立場になる,と言う。」などと,佐藤さん殺害に関する出来事を早く思い出さなければ,自分の立場が悪くなってしまうという武さんの不安な気持ちが正直に記されています。
なお,この10月27日の取り調べのときには,武さんに対して宿題が出されています。
宿題
佐藤さんに,トリカブトをあげたときのようす
その後,トリカブトが効いて,その間のようす
死体を利根川に運んだ時のようす(武ノート5冊目:10/27)
武さんは,捜査官から,佐藤さんにトリカブトが効いてきたときの様子をよく思い出すように言われたのです。「早く思い出さなければ」という不安の中で,このような宿題を出された武さんの心理状態は,一体どんなものだったのでしょうか。
(つづく)
鍜治伸明