式内社・八心大市比古神社は醍醐天皇の延長5年(927)に撰修された「延喜式」の神名帳に登載されて、古来朝廷から尊崇された社として重んじられた。 「五穀豊穣の守護神」として、近郷の人々から崇敬され、信仰されている神社である。 御祭神は「大山祇命・おおやまつみのみこと」、相殿(二柱以上の神を同じ社にあわせまつること)には「少彦名命・すくなひこなのみこと」、「軻偶突智命・かぐつちのみこと」である。


大山祇命は、山を主宰し、また山開きにはこの神をまつり、「三嶋大明神」とも言っている。地元では「三島さま」と称するゆえんです。 少彦名命は他の神と力を合わせ、心を一つにして国土を造り固められた。また畜産のために療病法をはじめたり、鳥獣昆虫の災厄に対する「まじない」を定められた神であり、温泉の神、酒の神であるとも信じられている。軻偶突智命は、火を司る神である。


いつの日からかや茅堂に鎮座しておられたが、天正8年(1580)3月11日に今の三島野に移られた。


鎌倉時代から明治維新まで「三嶋大明神」と呼ばれていたが、その後旧名に復し「八心大市比古神社」と改め、明治6年県社(新川県)に列せられた。


その後、幾多の変遷をへて昭和17年10月に、現在地に今の社殿、総檜の「流造」の建築で雄大にして壮厳な社が完成した。


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「富山の寺社・日本海文化と神社」(昭和53年)によると、「古墳文化期に渡来人の影響の大きかった北陸地方は、朝鮮系渡来人に由来する神社が濃密に分布しているようである。黒部市の八心大市比古神社に新羅系の伝承がみられ、かつ祭神でもある大市比古が任那系渡来人の苗裔であったことが知られる。

また「神社覈録」巻39によれば、この社の祭神として、大山祇神とともに大市姫神があげられている。三日市村の発展はこの社の発展でもあった。・・・(後略)」








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この絵馬は、延喜式内社、八心大市比古神社(通常・三島さま)に奉納されて

いる。

神社の起源は古く、延長五年(九二七)の延喜式神名帳に記載されていて、

この社の神の使いは鶏であり、三日市及び周辺の氏子は鶏肉を食することを

禁忌としている。


絵馬には、つがいの鶏が描かれ、雄鶏は正面真ん中に尾を大きく開き、

鶏冠をいからし、左足は大地を力強く踏みしめ、右足は腹部まで上げ、

眼光鋭く、正面をにらむが如く威厳を放っている。

左足には餌でもついばむように頭を下げ、穏やかな表情の雌鶏が対照的に

描かれた見事な構図である。

鶏冠には朱色、全体を胡粉で白く上品に塗り、黒色の細い線で仕上げている。


額縁絵馬全体寸法は縦約41センチ、横約60センチ、杉の一枚板の

板地著色で描かれ、絵馬の表と裏に次の文字が書かれている。


「右表書 奉掛御神前望叶成就所敬白

     (ほうがけごしんぜんぼうきょじょうじゅところけいはく)


左表書 元禄貮巳歴卯月吉日 三日市 銭屋利太郎

     (げんろくにみれきうづききちじつ)


裏書  三島大明神宮守左内(印)

     (みしまだいみょうじんみやもりさない)

 

     橘式部卿陰陽師左門」



奉納されたのは元禄二年(一六八九)で奉納者は地元、三日市の銭屋利太郎で

ある。鶏之図の絵馬としては、県内最古といわれ貴重である。




永禄6年(1563年)、二人の僧が京都の醍醐寺を出発し、布教の旅に出た。
その旅程を記した記録が『永禄六年北国下り遣足帳』という文書で、
その中に「三日市」の地名を見つけた。京都に戻る永禄7年(1564年)10月7日に、
三日市のハタコ(旅籠)に50文で泊まったことが書き留められている。
 これまで「三日市」の地名が表れる最も古い文書は、
八心大市比古神社(三島神社)が所蔵している慶長元年(1596年)の
『御獅子頭御入之家』と書かれた留帳であった。
その中に「越中新川櫻井三日市」と記されている。
『遣足帳』の記録は、それより32年もさかのぼることになり、
少なくとも今から447年前の中世に「三日市」の地名が存在したことを示す
貴重な資料である。
『永禄六年北国下り遣足帳』については、平成4年に国立歴史民俗博物館の
山本光正氏と小島道裕氏が研究発表されており、私は同博物館のホームページで
その内容を知った。『遣足帳』は、いわば中世後期の旅日記であり、
当時の「旅と消費」を伝える希有な文書である。


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二人の僧が歩いたルート。○印は宿泊地。



二人の僧は永禄6年9月20日に京都を出発し、北国下りルートで、
近江~越前~加賀~越中~越後~信濃と歩き、11月17日に上野国(群馬県)の鷄足寺
に到着している。その後、半年の間、下野や常陸など北関東を巡っていたらしい。
翌年の永禄7年5月には山形県南部の長井地方まで足を延ばしている。
旅の目的は真言宗醍醐寺派の布教にあったと思われる。
永禄6年10月4日、二人は倶利伽羅峠を越え、小矢部市安養寺の「ハタコ」(旅籠)に宿泊し、二人分48文の宿代を払っている。6日には越中金山(魚津市金山谷)辺りで宿泊、
7日朝に「ハタコ」に48文を支払った。昼頃「昼休み・サケ(酒)」代に52文使っており、
距離からすると三日市ではなかったか。この日は「越中ヲイ庄」(朝日町大家庄)に宿泊、
翌8日朝に「ハタコ」に48文支払い、その日は「市フリ」(新潟県市振)を経て
「イト井郷」(糸魚川)に宿泊、同じ48文を出費している。


当時「ハタコ」は一泊二食で一人24文程度、1文は現在の100円から150円に相当するので、一泊2400円から3600円ぐらいと思われる。
 布教を終えて京都に戻る翌年の永禄7年10月8日、「五十文 八日 ハタコ 三日市」の
記録があり、ここに「三日市」の地名が登場する。
二人の僧はその日、三日市でどんな夜を過ごしたのだろう。


「ハタコ」の宿賃などが書かれており、左端に「五十文 八日 ハタコ 三日市」
の文字が見える。現時点では、三日市の地名が明記された最古の文書である。

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永禄六年北国下り遣足帳=部分=
(国立歴史民俗博物館の資料画像データベースより)
         


 


桜は農事の折り目


今日の花見というと、満開の桜の下で、飲みかつ歌うと言った単純なもの

なっていますが、花見のルーツを探ると稲作国家日本の姿が浮かび上がります。


かつて桜の花が咲き散る時期というのは、農作業のちょうど節目に当たっており、

桜の花はその良い目安になっていました。


江戸時代の「田畑作付目当」には桜が散り残り、

ヤマブキの花が咲いたら苗代の仕付けを開始する、

などの目安が述べられています。

花見はそうした農事に際して、稲の実りが豊かであるようにと祈る、

宗教儀礼でもあったことが分かります。


春3月から4月にかけて、若い男女が小高い丘に上がって花見をして、

花の枝を持ち帰り庭先に立てた竿の先に結び付ける風習がありました。

これは田の神である山の神を招き寄せるためで、

桜はその神の依代であるということなのです。





桜はその花の散り際のいさぎよいことが

武士の風流と死への傍観を意味する合言葉となり、

江戸の国学者・本居宣長は

「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花」 と歌いあげた。

この歌は日本人の心の美しさを詠んだものであると批評した学者もいる。


また桜を日本軍国思想の象徴的な精華とされ、

予科練の歌「七つボタンに桜と錨」と山桜紋は海軍学生のボタンに採用され、

今なおこの紋は海上自衛隊のシンボルとして受け継がれている。