普通に生きていれば、普通の平凡な人生となる。

ただ起きて、ただ食べて、ただ働いて、ただ遊んで、何となく日々を

過ごすことになる。

 

何度も何度も、同じような日々を繰り返すだけなら、さすがに飽きてくる。

退屈になるのだ。

 

退屈さほど辛いものはない。

退屈さの本質は、もうどこにも行けない、という閉塞感だ。

 

退屈な日々は、どんよりと重たい曇り空のようで、気がめいってくる。

そうした退屈さが嫌だから、人は刺激を求めて快楽を求め、

犯罪をすることさえあるのだ。

 

美味しい食事を求めるのも、楽しい会話を求めるのも、

スポーツで汗を流すのも、性的な快楽を求めるのも、

すべて何か刺激を得て、快楽を満たして気を紛らわしたいのだ。

 

しかし、そうした快楽は長続きしないし、過剰に行えば辛く苦しくなることもある。

何事も「過ぎたるは猶及ばざるが如し」だ。

快楽を求めすぎて、人は苦痛を味わうことになる。

麻薬もそうだし、ゲーム中毒や性的なスキャンダルもそうだろう。

 

そういう快楽や煩悩を取り除けば、人は楽になれるとお釈迦さまは

教えたのかもしれない。

たしかに、そうした煩悩をなくせば、苦痛は無くなるかもしれないが、

生きているのか死んでいるのか分からない、奇妙な聖人・君子になるしかない。

 

むしろ、もっと究極の快楽を求めた方がよいと思うのだ。

つまり、退屈な日々を黄金に輝く日々にするのだ。

 

そんな魔法のようなことがあるだろうか。

ある。

それは、世のため、人のために生きてみることだ。

 

だまされたと思って、自分の欲望・煩悩をおさえ、誰かのために、

世の中のために、何かアクションを起こしてみよう。

自己の欲望をおさえるのは、意外に気持ちのよいものだ。

そして、自分の力を人のため、世の中のために使うと、得も言われぬ

幸福感が出てくるのだ。

 

そうすると、今まで暗く靄(もや)のかかったような灰色の人生が

カラフルな色彩を持ち始め、体が少しずつ温かくなり、

気分も晴れ、何か幸せな気持ちになる。

 

結局、人は誰かのために生きられた時に究極の幸せを感じれる生き物なのだ。

それは自分が欲を断って他者のために生きることで、人間として大きく

成長することなのだ。

 

「他人の不幸は蜜の味」というが、その蜜はいずれ苦いものとなる。

その不幸が自分の中にも忍び込んでくるからだ。

 

逆に、「他人を幸せにすることこそが最高の味」なのだ。

しかし、それが分かるまでには時間がかかる。

 

今まで「他人の不幸」や「他人の苦しみ」を自分の楽しみにしていた者

にとって、なかなか他人の幸福に喜びを感じられないかもしれない。

 

それだからこそ、少しずつでも実際に他人を幸せにしてみて、

相手の喜ぶ顔を見て、自分の中に幸せな感じが湧くことを

何度も繰り返してみるのがよい。体験学習だ。

 

何でもよいのだ。

ちょっと廊下を掃除するのでもよい。

ちょっと人にプレゼントするのでもよい。

ちょっと笑顔を見せるのでもよい。

ちょっと何か楽しい話題を提供するのでもよい。

 

こうした人を幸せにして喜ぶのは、天使や菩薩と同じ境地になることである。

そう、その喜びは、人間を超えて、天使や菩薩のような自己超越した

存在になることなのだ。

 

この時、いろいろ不思議な力を授かることがある。

人の気持ちを理解する力、状況を把握する力、全体を俯瞰する力、

人を癒す力、人を幸せにする力、そして、自分を幸せにする力。

 

そうした力を用いて誰かを幸せにできることが究極の幸せであり、

最上の喜びであり、黄金に輝く日々なのだ。

それが分かったならば、今日からやることは分かるはずだ。

退屈な日々を黄金の日々に変えることはそんなに難しいことではない。

 

 

 

最近、ウェルビーイングという言葉をよく見かける。

まぁ、昔からの言葉でいえば、「よく生きること」だろう。

 

ただ生きるだけなら、動物でも植物でも(鉱物でも?)できるだろう。

しかし、人間なら「よりよく生きること」が大事だということだろう。

ソクラテスもそうした意味のことを言っている。

(孔子もキリストも釈迦も、それに近いことを言っている。)

 

それでは、「よりよく生きる」とはどういうことか。

ウェルビーイングの定義からいえば、精神的・身体的・関係的・感情的に幸せな状態になることであろう。いや、そうした心身共に幸せな状態を持続可能にできることだ。

 

たしかに、心身が安心・安全で幸福を感じ、経済的にも社会・文化的にも満たされた状態が望ましいことは確かだ。

 

後は、そうした幸せの諸条件の中で、何を優先するか、だろう。

若いときは、自分の欲望を満たすことが幸せであり、何より優先されるように思えた。

 

だから、よい学校に進学したり、よい会社に就職したりして、一人前に給料をもらって社会人として生きられることを求めていた気がする。

 

しかし、そこでは競争が絶えず行われ、そこそこの順位がつくとそこで定着することになる。そして、退屈で寒々とした日常が続くことになる。

20代のころ、「こんな平凡な生活を手に入れるために俺はこれまでがんばってきたのか」と思って、愕然としたものだ。

 

やはり、何か「やりがい」というか、「生きがい」が必要なのだ。

何のために生まれてきたのか、悩み始めたのも、その頃だった。

 

若いころは、自分の存在意義がわからず、自分が無意味な存在に思え、人から恨まれたり非難されたりして自殺を考えたこともあった。でも、死ぬ勇気すらなく、生きながらえた。

 

そして、失望や絶望の中で生きていくうちに、だんだんと自分が生まれてきた理由が分かってきた。

というか、生まれてきた理由を思い出したのだ。

 

自分が生まれてきた理由は、生まれる前から実はあった。それは、自分の魂を成長させるためであると共に、この世を少しでもよくするためでもあった。

 

生まれる前から、それを知っていたが、生まれてきてすぐにそれを忘れてしまった。魂が赤ん坊の中に入った時は、すべて真っ新な状態になるので、それほどの認識能力もないのだから、忘れていたというより、考えつかなかったというべきだろう。

 

それでも、3~4歳の幼少時にそれを何度か思い出した。キリスト教系の幼稚園だったので、神父さんに導かれて自分の本性を思い出すことができた。

 

また、祖母に連れられて、浄土真宗のお寺でお坊さんに導かれて、自分の本姓に覚醒したところもある。

 

覚醒すると、不思議なもので、生まれてくる前の記憶を思い出すのだ。一種の個人レベルのアカシック・レコードともいえるだろう。

 

しかし、そうして覚醒したものの、その後の人生で、何度も何度も忘れてしまうことになった。

この世で普通に生きていくためには、神の道、仏の道を歩み続けることは大変だからだ。

 

親さえも、神や仏の話は嫌がっていたので、私も何も語らないようにした。

変な奴だと思われたくなくて、普通の人間を装っているうちに、普通の凡人になり果てた。

 

その後、何度も何度も、人生の岐路に立った時、どう生きるべきか、何のために生まれてきたのか、考え込むことがあった。

 

覚醒したことを思い出せばよかったのだが、そうした宗教的・神秘的な考えは、唯物論的に考えて、本当の正しい答えだとは思えないようになったのだ。

 

むしろ、大学生くらいになると、哲学や論理学、心理学、政治学や経済学を研究することで、人生の意味が分かるような気がした。

しかし、そうした学問の中には、偉人・先人の立派な話はあったが、本当に大事なことは書いてなかった。

 

大学を卒業して、社会に出てからは、営業の仕事をしたり、編集の職業についたり、大学で職を得たりした。アルバイトは数えきれないほどやったが、そうした中に人生の答え、どう生きるべきかの答えがあるような気がした。

 

少しは世のために生きたいと思ったものだが、結局は「自分のため」が優先していたように思う。

人生の椅子取りゲームに参加したようなもので、ゼロ・サム・ゲームは苛酷に思えた。

その過程では、多くの人たちに迷惑もかけたようにも思う。人を裏切ってしまったこともあったと思う。今思えば、申し訳ない限りだ。

 

そして、もう人生の後半になって思うのは、やっぱりこの世に生まれてきたのは、自分の魂の成長とか自己実現などのためだけでなく、世のため人のために生きるためだ、ということだ。

 

ここで何か青っぽい道徳論を言いたいわけではない。

むしろ、もっと現実的な話で、生き残るために切実な話をしたいのだ。

自分のためではなく、世のため人のために生きること、そうした何か尊い使命を果たすことなく、自分は本当の意味で幸せになれないということを実感したのだ。

単なる自分の幸せ(欲望)を叶えるためだけなら、私などこの世からいなくなってしまった方がましだと思えたのだ。

 

そして、誰かのために生きられること、世の中に少しでも貢献できること、それが本当の意味での幸せに繋がることだということに再び気づくことになる。

こんなことは、先ほども書いたように、すでに3~4歳の時に気づいていたことなのだ。

今更なんだ、とも思える。何度も何度も、人生の途上で気づいていたことなのだ。でも、それに本気で生きようとするまでに、本当の意味で再認識するまでに、随分と遠回りしてしまった気がする。

 

少しでもそうした気持ちをもって、人と接し、周りの人たちのためになること、世の中のためになることをしたいと思う。そうすると、意味もなく無味乾燥だったニヒリズム的な世界に一条の光が差し始める。

新しい生の躍動が始まる。いろいろ幸運な奇跡も起こり始める。いろいろ幸せな出会いも起こる。

今まで求めても決して手に入らなかったことが、次々と自然に起きてくる。

 

世には、暴力や強盗などの犯罪があったり、戦争が起きたりもする。

昔では信じられないような事件・事故が起きて、私のような非常識な人間をも驚かせる。

世の中には悪い人たちがいるのも事実ではある。そうしたことを起こしている人たちは、「自分たちが本当は何のために生まれてきたのか」をよくよく思い出してほしい。

立ち止まって、自分は何のために生きているのか、何のために生まれてきたか、深く深く思い返してほしい。

 

自分たちの人生の目的この世で果たすべき使命を思い出して、これから自分は何をすべきなのか、どうしたら幸せになれるのか、よくよく考えてほしいと思う。どうなったら、本当の意味で、ウェルビーイングになれるのかを本気で考えてほしい。答えが出ないなら、私と話をしてほしい。

 

私は微力ながら、いろんな人たちと対話したり議論したりしながら、誰かの幸せのためになれたら嬉しい。一歩でも、半歩でも世の中を改善・発展できるように働けたらありがたい。

この年になって遅ればせながら、そう思えるようになった。

そのためにも、皆さんと繋がらせてください。繋がりは、光となり、力となりますから。

ウェルビーイングの輪をもっともっと広げていきましょう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人生の目的」とは何か、を問われることがある。

 

人生の目的などよく分からないし、当然ながら、人それぞれだろう。

 

若いころ、自分は何者なのか、どう生きればよいのか、

なかなか分からずに悩んでいた。

 

なんとか、自己実現したい、

自分らしく生きたい、ワクワク楽しく生きたい、と思えた。

 

そして、流行のものに挑戦して、どんどん平凡化していく

自分にいら立ったりした。

 

自分らしく生きているつもりなのに、どんどん周りに合わせて

凡庸化していく自分がいたからだ。

 

「幸せになりたい」と思えた頃もあった。

「恋人がいればいい」「結婚したい」「子供がほしい」とか、

「やりがいのある仕事がほしい」とか、

「ぜいたくできるお金があればいい」とか、

いろいろ思った。

 

そうして欲望を広げているうちに、だんだんつらくなってきて、

「心が安らかになれば、それでよい」と思えるようになった。

 

その頃は、瞑想をしてみたり、マインドフルネスをやってみたり

したものだ。

しかし、心はさらに空洞化し、わびしくなるばかりだった。

 

悟りとは、空(くう)になることだと教わったことが

あったが、自分を空っぽにする悟りを得たところで、

何も幸せは感じられなかった。

自分だけ悟れたかも…という優越感は少しは得られたかもしれない。

 

いや、心を空(くう)にすることで、欲望から逃れることが

できて、少しは心が平安になったし、幸せも少し感じられたの

かもしれない。

 

しかし、そこはゴールではないと思えた。

そこは単なる自己満足の境地だと思えた。

 

やはり、もう一歩先に何があるかだ。

そう、自分なりに悟り、心が安らかになり、ささやかでも

幸せになることで終わりとするのではなく、

それを多くの人に伝えることも大事になるということだ。

 

生きにくい世の中だと不平・不満を言うだけでなく、

どうしたらもっとよい世の中にできるか、

自分に何ができるか、を考えることだ。

 

おせっかいかもしれないが、私もソクラテスのように

外に出て、苦しんでいる人たち、悩んでいる人たちの

相談相手となりたいと思った。

 

どう生きることが幸せなのか、本当の自己実現とは

どのようなものなのか、いろいろ話したいと思っている。

 

私は、暇なときは、外に出てたまたま出会った人たちから

いろいろな相談事を受けて、一緒にお話をして過ごしている。

 

こうしたブログもときどき書いていると、相談事を受ける

こともある。

 

そうしたところでは、単に自己表現をするのではなく、

少しでも人様のお役に立てるようなことを伝えたいとも思う。

 

まぁ、たいしてお役に立てないかもしれないが、

一緒に悩んだり、一緒に考えたりして、

生きるヒントくらいは提供できるかと思う。

 

おそらく私の方がたくさん悩み苦しんだ経験があるので、

他の人たちの悩みや苦しみには共感できるところが多い。

 

私との対話がきっかけになり、一人でも多くの人が

心安らかになり、やさしい光明を受けて、

幸せになってほしいと思う。

 

一人でも多くの人とつながり、何か大切なコミュニケーションが

できたら、と思う。