全国ほとんど 雨 一色
靴がずぶ濡れでした。
今日は予告通り、「世田谷城」の紹介の第二回目です。
今回は現在「世田谷城」の遺構がのこる寺、豪徳寺の前身『弘徳院』についてと、建立した家の話。
今は井伊家の菩提寺となっておりますが、建立当初は違いました。
弘徳院は文明12年(1480年)奥州吉良氏の吉良政忠の伯母で世田谷城主であった吉良頼高の娘である弘徳院のため、「弘徳院(弘徳庵とも)」と称する庵を結んだのが始まりとされています。当初は臨済宗に属していましたが、天正12年(1584年)曹洞宗に転じました。 本尊は釈迦如来となっています。

そもそも吉良氏とは足利一門において、分家の今川家とともに足利将軍家の連枝としての家格を有した家で、その格式は「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われ、足利将軍家の血脈が絶えた際には足利宗家の家督を継承することが許されていたほどの名門中の名門でした。奥州吉良氏もその中の一つでしたが室町時代は一時滅亡の危機にも瀕しました。しかし初代鎌倉公方である足利基氏から招かれた吉良治家が上野国飽間郷に移住すると、徐々に勢力を回復し始め、また鎌倉公方家に仕えた奥州吉良氏は、当公方と同じ足利氏の流れを汲むため、「鎌倉公方の御一家」という他の家臣とは別格の扱いを受け、「足利御一家衆」などと称されました。吉良成高の代に武蔵国荏原郡世田谷に世田谷城を築城。同地に土着して以降は拠点を変えるたびに「蒔田御所」や「世田谷御所」とその地名で呼ばれました。
江戸時代の
「忠臣蔵」「刃傷松の廊下」などで有名な『吉良上野介義央』ももちろん名門吉良氏でしたが、ご存知の通り「赤穂事件」により三河吉良氏当主義央は死亡。嫡孫の義周も改易されてしまい、散々な目にあっています
江戸城 松の廊下

靴がずぶ濡れでした。
今日は予告通り、「世田谷城」の紹介の第二回目です。
今回は現在「世田谷城」の遺構がのこる寺、豪徳寺の前身『弘徳院』についてと、建立した家の話。
今は井伊家の菩提寺となっておりますが、建立当初は違いました。
弘徳院は文明12年(1480年)奥州吉良氏の吉良政忠の伯母で世田谷城主であった吉良頼高の娘である弘徳院のため、「弘徳院(弘徳庵とも)」と称する庵を結んだのが始まりとされています。当初は臨済宗に属していましたが、天正12年(1584年)曹洞宗に転じました。 本尊は釈迦如来となっています。

そもそも吉良氏とは足利一門において、分家の今川家とともに足利将軍家の連枝としての家格を有した家で、その格式は「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われ、足利将軍家の血脈が絶えた際には足利宗家の家督を継承することが許されていたほどの名門中の名門でした。奥州吉良氏もその中の一つでしたが室町時代は一時滅亡の危機にも瀕しました。しかし初代鎌倉公方である足利基氏から招かれた吉良治家が上野国飽間郷に移住すると、徐々に勢力を回復し始め、また鎌倉公方家に仕えた奥州吉良氏は、当公方と同じ足利氏の流れを汲むため、「鎌倉公方の御一家」という他の家臣とは別格の扱いを受け、「足利御一家衆」などと称されました。吉良成高の代に武蔵国荏原郡世田谷に世田谷城を築城。同地に土着して以降は拠点を変えるたびに「蒔田御所」や「世田谷御所」とその地名で呼ばれました。
江戸時代の
「忠臣蔵」「刃傷松の廊下」などで有名な『吉良上野介義央』ももちろん名門吉良氏でしたが、ご存知の通り「赤穂事件」により三河吉良氏当主義央は死亡。嫡孫の義周も改易されてしまい、散々な目にあっています

江戸城 松の廊下






