懶い日曜の想造、CENTIMENTAL、そして午睡。
 
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 日本酒とは本当に美味しいもん、アップタウンのとある酒Bar、ある若者と僕で二人、美酒微醺のとあるタイミング、

「僕おばあちゃんが3人居るんです。すごい気まずかったです。」

「いや、それ計算合えへんやんか、いや、それ計算合えへんやんか。」

そうなんですよと認められても合わない数字の辻褄はそのまま、僕の興味はその実際問題どういった柵でそうなって云々からは遠く離れ、後半の「気まずかったです」に誘導され彼の言葉足らずの説明、舌っ足らずな話し方に気がいってしもて、その彼の次は、共にはははは、って云う笑いという始末。

「なあ、このこと書いてもええ?」

「別にいいっすよ。」

醸造関係の彼は、30+歳ながら見た目に若く、背筋のぴんとした好青年の印象、付き合いもそこそこに裏表のない所謂、結婚しないの?って、いや相手が居ればねえって方。

お小遣いたくさん貰えてええなあ、なんて発想も正論ながら、いやあんたそんなお金どっから貰って来たの、お母ちゃんら解ってんねんでなんて希有な経験もくらい、あるいはその中で孫っ子の気を惹こうとお年玉を含めた競争も有りかねないと、それ不謹慎でもやっぱええかもの頭の中。
 僕の父方のおばあちゃんは、早くに亡くなり、会った事有るのか否かも解らん状態、母方おばあちゃんは長生きしてくれて、何年か前に大往生、で、会いに行けなかった僕は後悔の念を人並みに持ち合わせ、大家族で土建会社を営む親戚連中にも顔を見せづらい云々、遠いところでご冥福をなんていう不始末。
「風樹の嘆」を思い出した。

樹静かならんと欲すれども風止まず、子養わんと欲すれども親待たず。。

 あさ8時近くまで飲んで、イエローキャブで帰宅の途、瞬きしたら自宅前の結末。


アメリちゃん
2008

 あなたはキャンプとかアウトドアとか興味ないのね、嫌いなの、いや、好きやねんけど、ただ行かへんねん、といった会話、そうなると必ず夜型昼型なんての話となり、本来人は朝日と共に起きるだの、性格に影響するだの、挙げ句に僕は早死にするらしい、そんな最後は健康診断に行きなさいよなんて、何の話、これを年4回程。きっとこれ,コーヒーの飲み過ぎやわ。連休であればある程、就寝時間が、朝と呼ばれる時間帯に深く、ポットのコーヒーは泥水になり、目の裏の奥の方が痛くなり、あ、俺もしかして脳腫瘍かもなんてな発想も頻出。もうちょっと起きてたらなんかええ事ある、もうちょっと起きてたら、、、で、おえって成りそうな睡魔が訪れ、結局何も無かったわーのタイミングで、枕に頭をあずける始末。
宵っぱりの朝寝坊、そのフクロウ目を覚ますなり、

「そりゃ眠いわ、寝たんさっきやもん。」

 さらにその生活サイクルを、10何年もつづけていたら、いや、逆に規則正しいで自分ら(ヒバリ)より、なんてのも自身の中で正当化される程に、おまけに昼に着たシャツは2回着られへんけど、夜着た奴は、3-4回着てもいける的な、どっからくんねん、その発想。
 そういえば日本にいたころ、強烈な夜型生活をしていた僕は、それを逆転生活と呼んでいたのだが、朝8時からの「おはようゲートボール」を観ながら、そう、点けっ放しで寝る癖がついた時期があった。余程に寂しかったんやなあ。そんな頃のある傾眠状態、「今からゲートボール始めたら、歳とった時ええのんちゃうか、例えば、え?トイレ?ここ真っ直ぐ行って突き当たり右まがって左の奥、なんてちょっとええかっこ出来るやん、確かに早う始めた方が顔も売れるやん、技術的にもなあ、でもいつかやるかなあ、ゲートボール、つうか、長生きせんかったら練習損やん。」なんて夜型人間の発想。
しかしながら、やはりあの赤いゼッケンを着ける事に、あれないな、ありえへんの帰結。
 そいや、キリンって全然寝ないって話を聞いた、確か睡眠1-2時間とか、でもそれでしっかりやって行けるんやったら、キリンうらやましなあ。




Harlem 2008
 時折中華の出前を取るのです。そしてその配達スピードは異様に早く、それも15分くらいで届いてまう事がほとんどで、僕はそれをいかにも自然な速達の様に思っていて、それって逆に大丈夫?と思いながら、MSGの覚醒力に負け、まるで毎回同じ思考を繰り返し、これたべたっけ、あれなんだっけと、出来れば違うものをと思いつつ結局同じものをたのんでしまう。日本の様に愛想のいい出前なんて居る訳ないこの土地では時に、チップの額に舌打ちしたり、首を(というか顔を)横にあれあれと振ったりと、何基準やねん?で僕を評価する様。時に、こなくそと、チップを多めに渡してみた事もあったが、瞬間、その顔は既に西を向いている有様、まるでハンターにさっくりと猟られ、路肩に自分の生首が転がる結末。それでも、ま、そんな奴でも、違う形で出会ったら結構いい奴かもなんて、負け味溢れる納得で食事。
したら、歯が欠けた。
がりっごりっ、あの野郎、なんか入ってるやんかー、って左手に出してみると、際立って白、あれこれ俺の歯だ、と変な安心プラス、ていうかこの歯、2-3ヶ月前に何千ドルもかけて造った歯やんか、と歯医者さんの事も考えらないかん展開。わーこれまたお金払わなあかんのかなあ、と食事を済ませ、鏡を見たら、やっぱそうだ、左の奥。しかしながら幸いかけたのが歯の角の辺りで、大事っぽい中の名も知らぬ物質が露出することもなく小安心。ふと、いつかテレビでおじいさんたちが、いきんでたのを思い出す。

ハチマルーニーマルー!

ってその意味は、「80歳で自分のは20本」なんてことらしい、なにげに自分の歯をかぞえてみると26本、ということでサンロクーニーロクー。呟くと、偶然ロクの部分が韻を踏んで、嬉し。
80歳まで失える歯は、あと6本。

ハチマルーニーマルー!





これフレディーの、さっくり狩られます。

Queens 2008
 春という事で、クリスマスから窓際のポインセチアを、晴れ続きの先週末からお庭に出してみた。かつては、心躍らせる赤、鮮やかに、その季節を象徴した名残もない程に藍緑色の葉で覆われ、ポインセチアらしからぬ、の様相。で、今日は久しぶりの雨。その雨の中、まんまるの水玉が葉の上で揺れ、曇空ながらもきらきらと、それを見てふと“青葉に降る雨”みたいな意味の言葉があったなぁって、でも頭の隅を一向(ひたすら)にうろうろしても見つからず、で、検索。そうそう、翠雨(すいう)、いい言葉やなあと、この翠という字と具合が好きだなあ、そういやよう使うてるわ、翠、碧、緑。この翠って色は、もともとカワセミの羽の色、んー情趣なりと、日本語の深さに感慨を覚える。

徳冨盧花先生の「自然と人生」、“赤松黒松の挺然林より秀でて翠蓋を碧空に翳すあり”
これは英語じゃ出来ひん表現。最近は色んなところで、ああ日本人で良かったと思う事が多く、特にそれを感じるのは何かノスタルジックな魅力に遭遇した時や、あるいは淑やかさとかそんなんに触れた時。

 またお庭に出て、お隣の白樺を見上げ、薄曇りのなか一体化した景色を深呼吸、深呼吸、その瞬間僕もその景色に溶け込んで、消えるよう。




Two Girls, Brooklyn 2008


 今、毛玉だらけの赤いアディダスのジャージを着ている、そのラインは白で、まるで体育の女の先生のいでたち。ただそれだけだが、つうかこのジャージ、一体誰のやねん、を皮切りに、あれあのコーラのTシャツ何処いってん、あのおっさん最近見いひんなあ、あのコーラのTシャツ着てこのジャージやったら、全身真っ赤やん、日本代表のオリンピック選手やん、国歌そろそろ変えた方がええんちゃう、なんて冗長な旅にでてしまう、自嘲的な半笑いの所以。

  あーしかし、今日はコーヒーまずいなぁ、目つぶって飲んだらちょっと赤ワインみたいな味するやん,なんて、ふと見るとギャロ君が空気のなかに何かを見つけた様子、くんくんと宙に鼻をかざし、春の陽光ぼっこの最中、目を細めている。

久しぶり、67にトライXで撮った。


gallo


 大切な人は、ある時突然、“新しい”場所へと去った。

 病院へ行った翌日、午前中は少しゆっくりする事にした。
プロムナードを下り、湖へ繋がる小道を歩いた。白い小さな花が朝日に反射してきらきらと光っている。
野いちごの花。湖面に反射した光の層と山桜の影に、釣り人が投げた疑似餌が弧を描く。天蚕糸まではっきりとみえた。釣り人の対照的に黒い陰が、まるで影絵劇の様にその輪郭に光を帯びている。
僕は頭の中に巡る事々を、呼吸でリズムを取りながらひとつずつ丁寧に飲み込んで、きっとうまく行くと結論づけた。桜の花弁は枝から離れると、その惜情を、そして右へ左へと自然摂理のままに舞い、地を別れの関頭とし、その短い季節を終える。その瞬間が人生の恍惚であれ。彷徨い、きっと振り向いた君、舞う様に、美しく、そして消え行く。

いつまでも離れられないでいた。
ほんとに ありがと。




April '08
 我輩は無職である。長い息継ぎということで、気怠い火曜の午後をお庭で過ごしているという、聞こえ羨ましげな時間。次の仕事も決めずに、無鉄砲に退職願を出してしまったのには訳あって、そこそこ長い思考の末、今の自分に“喝”、の発想、そっこー退社。しかし全くもって意味わからん、喝をいれるどころか、平日の真っ昼間にコーヒー飲みながら何か書いてるやん、こりゃよくみりゃこの緑色のパーカー、昨日の朝から着てる奴やん、コーヒーも注ぎ足し、注ぎ足しで24時間くらいおんなじカップやん、おまけに超外晴れてるやん、パラソルの下で読書やん。しっかし、どのタイミングで喝っていれるのやらの呆果て。
よう考えたら、“喝”はカツアゲとおんな字、なんやら物騒、ゲームセンターの日常。

 時間もある訳やし、折角やし、やれカメラ機材の整理、本の整頓、寝癖をちょっと直してみたりで、逆に焦ってきたりもする、ただ無駄に過ぎる時間をカチカチと肌に感じながら、でもまたお庭に出て物語の続きに没頭の始末。
いつの間にか陽射しは更に高く、手をいっぱいに広げる翠蓋の葡萄樹を鮮やかに照らしていた。
人生、前途洋々なり、ただ今は、一休み。
 



ハドソンリバー沿いを南へ散歩

Hadson River Park, 2008
「伊豆の踊り子」を久しぶりに読み返す、やはり大変に素晴しいと心の中に心地よく広がる何かを感じている事、これ充実の湯槽につかる様。なんて思いながらも、日本を離れてもう14年、最近は専ら日本のテレビドラマかすかに夢中の様子。学生さんがらみのお話がらみで、「ごくせん」という、ざっと云えば任侠世界の娘さんが教師をやるなんていう、あ、そうなん、位のアプローチ、しかしこれがまた面白かったりするから難儀。何が難儀、そう、僕が見ているのはその2002年の作品、1シリーズ息継ぎ無しに一気に見てしまう有様。そんで、あれこの男の子かわいいねって、彼らのそれぞれくん、最近の日本の男の子ってほんと細くて、これがいいかどうかは別として,かわいい。しかしながら“最近の”なんていってももう6年まえ、今ではどうやら3作目のシリーズがええ感じらしいから、ということは、更に次の世代の子達が頑張っているという現状、というか当然の成りよう。時代というのはその全てを引っ括めて、当たり前に変わるもん。そうね、しかし最近はなんでもかんでも新し、新し、あのかわいい男の子達でさえもその若さできっと生き残りにせっせやなあ。
ここでふとまた川端康成先生、どのご時世、どのご時流でも、変わらん心動かす美しさ。
青年は20歳の学生さん、伊豆を発ち、“どんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような”新しい自分を感じつつ家路に着く。


<center>ハーレムの女の子</center>


Harlem 2008