あれから、

母の突然死から

15年が過ぎた。

 

「もう15年」

「まだ15年」

「あっという間だった」

「長い時間だった」

 

よく聞く表現ですが、

私はどうしてもこれらのような言葉を口にする気にはなれません。

 

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今年の3月で

日本にとって運命的な、悲劇的なことが起こったあの日

東日本大震災から10年が経過しました。

 

「もう10年」「まだ10年」

「早かったね」「長かったね」「もう10年か」「あっという間の10年」など聞こえてきますが

(もちろん上記のような声のみではありませんが)

私個人としてはなんだか違和感があります。

 

とはいえ、私自身は被災していません。

震災発生時、私はチェコにいました。

 

ですから決して何をかれこれ言える立場ではありません。

被災地が、そして日本中が大変な思いをしていた時に、

全く関係のない異国にいて、ただ祖国を思い、祈り、せめてもの義援金を募り送ることしかできない身でした。

 

たくさんの人が住まいを無くし、大切な人を失いました。

その悲しみ、怒り、絶望は私の想像を絶するものと思います。

そんな中でも津波から逃れて、生き延びて、そして今日まで生き抜いてきた方々を心から尊敬します。

 

10年、と言いますが、必死で生き抜いた方々にとって、年月が過ぎたことを改めて確認することが、心を軽くするわけではないと、私は思っています。

むしろ「酷」と思います。

 

私たちは年月を数えること、また、過ぎ去ったことを確認する行為を頻繁にします。

お誕生日、結婚記念日、**記念日、命日、、などなど。

それによって幸せな気分になったり、「節目」と思ったり、思い出して泣いたり。

 

ただ、私自身の経験では、「大切なひとの突然死」からの年月を数えることはただただ酷でしかないと思うのです。

 

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2006年4月、当時チェコにいた私の携帯電話に数十件にものぼる日本からの不在着信がありました。

仕事で電話に気が付かずにいた私でしたが、ただ事ではないだろうと、すぐにその番号に折り返しました。

 

「すぐに帰ってきなさい。」

知人男性の声でした。

「亡くなったんだ。お母さん。」

 

夜11時過ぎ、地下鉄の駅で聞いた報せ。

電話を切り、一緒にいた友人に何があったかを伝えようとしましたが、

自分が何を言っているのかもよくわからない状態でした。

 

そのまま、地下鉄のベンチに座り込んだのを覚えています。

幸いだったのは、たまたまこの日この友人が私の仕事先に顔を出してくれていて、一緒に帰るところだったということ。

友人が私を自宅まで送ってくれ、その夜は私の家に泊まり、一緒にいてくれました。

 

 

母に最後に会ったのはその3か月前。

「おばあちゃん(母の母)が危険な状態だから帰ってきなさい」と連絡があり、帰国。

祖母は、私が帰郷している間は安定していたのですが、その1か月後に亡くなりました。

 

そして母は、ちょうどその2か月後に亡くなりました。

死因は心不全。

 

どういうこと?病気なんてなかったじゃない!!

元気だったじゃない!

おばあちゃん亡くなって、また自分自身の人生ハチャメチャやるって言ってたじゃん!

私がもしチェコ人との赤ちゃん産んだら、チェコまでおんぶ紐持ってきてあやすって、はりきってたじゃない!!??

わかった、またお母さんのキツイ冗談が始まったんだな。

。。。ってか、これ夢じゃんね。そうだよ。目が覚めればきっと、、、

 

日本へ向かう長いフライト中、そんなことばかり延々と頭をめぐっていました。

 

日本に到着しなきゃいい。いっそこの飛行機も事故を起こすとか、、?
ああ、もういやだ、いやだ!!!

。。。あ、、、そっか、でもこれ夢だからいいか。大丈夫だよね。そう、夢だもん。

 

現実というのは常に続きます。残酷です。

勿論無事に日本に到着し、秋田の母の家までたどり着いてしまいました。

 

 

 

母は本当に亡くなっていました。

妙な化粧して、花に囲まれて、棺桶という箱の中に寝ていました。

「今回は冗談が過ぎるよ。。。」

兄がボソッと口にしたのを覚えています。

 

翌日は叔父や叔母の助を借りながら火葬、葬儀とトントンと物事が進められて、、、

よく覚えていません。

 

そして約1か月後に、私はチェコに戻り、元の生活を再開しました。

今思うと、実はものすごく悲しくて、ショックで、絶望してて、耐えられないほどだったと思うのですが、

当時の私はトランペットと学校のことに集中することで気を紛らわせていたのでしょう。

 

そして母の死からちょうど3か月経った日、

プラハのとある教会を訪れ、母へ黙祷をささげ、気持ちを改めようとしていました。

私はクリスチャンではありませんが、美しい場所を訪れることで気持ちを清められると思ったのです。

 

ですが

黙祷をささげているうちに、気持ちが耐えられずに立てなくなりました。

「3か月」という時間が私にのしかかってきたのです。

 

 

あれから3か月が過ぎた。

 

あれから、とはいつから?

3か月過ぎたってどういうこと?3か月前に何があったの?

え。。知らない。

何があったっていうの??3か月ってなに!?何なの?

3か月過ぎたなんて知らない!!私の知ったこっちゃない!!!

 

気持ちが破裂しそうでした。

3か月時間が経ったということで、3か月以前と今とで異なる事実があることを認めなければいけない。

あれ以前」と「あれ以後」が存在することを認めなければいけない。

母の死を認めなければならない。

 

それが、私には出来ませんでした。

 

 

あれから15年が過ぎようとしています。

母が亡くなった時の気持ち、ショック、そしてその時に見た風景、匂い、音、、、今も鮮明に覚えています。

そして、今でも15年が過ぎたという事実を受け入れられない自分がいます。

 

何も考えずに過ごしているときは「母は亡くなった」という事実と共に生きられるのですが、

母の死からの年月を数えれば数えるほど

母との思い出に浸れば浸るほど

あれ以前」と「あれ以後」が存在するという事実に怒りの感情がわいてきます。

 

そんな私を差し置いて、時間は、現実は続いていきます。

 

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「時間が解決する」とはよく耳にする言葉ですが、

 

その時間の経過が、時間を数えていくのが、私には酷でなりません。

 

 

母の場合、突然死とはいえ自然死でした。

それでもやはり私の中に残るショックは大きく、重く、今も時折のしかかってきます。

 

私よりもはるかに大きな悔しさ、悲しさ、怒り、絶望に満ちた思いをされた方が何万人といらっしゃると思うと

「10年の節目」という言葉を簡単に口にすることは、私にはできません。

 

 

改めて、震災で命を落とされた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、

悲しみや怒りを抱えながらも今までを必死に生き抜いてこられた被災地の方々、

震災以外にも大切な人を無くされた方々、痛みを抱えながら生きる方々に心より敬意を表します。