今、松陰の本作成のため、一生懸命「吉田松陰撰集」を読んでいます。
むちゃんこ難しいんですけどね。
吉田松陰といえば、必ず出てくる名前、金子重輔。重之助とも。
この人、身分が低かったこと、そして、早くに亡くなってしまったため、あまりにも世の中の扱いが低いんですね。
松陰より一歳年下で、とても勤勉な人だったみたいです。
長崎にロシアの船に乗ろうと出かけた松陰ですが、寄り道したりしすぎたせいで長崎に着いたときにはロシアの船はもう出航しちゃってたみたいです・・・
それから江戸へ帰ってきたときに二人は出会ったのです。運命の出会いです。
二人はすぐに意気投合し、金子は松陰の弟子となります。
それから年が明け、下田にペリー率いる艦隊が再来するわけなんです。
有名な日米和親条約の提携が行われたときです。
二人は下田に走り、船に乗って異国へ、アメリカへ密航しようと試みます。
しかし、運悪く条約締結したばかりで、密航を手伝うわけにはいかないと、追い返されてしまうのです。
すぐに自首した二人は牢獄へ入れられます。いろいろ詮議があり、運が悪ければ死罪でしたが、まあ、一説にはペリーさんか誰かが罪を軽くしてやんなさい的なことで、長州へ送り返されることになりました。
ただ、このときすでに金子の体は病に冒されていたのです。
ですが、そんなことは容赦なく、罪人を乗せる駕籠に乗せ、乱暴に運ばれていきました。
途中、下痢や嘔吐を繰り返すのですが、全く手当もされず、西行を続けられました。
松陰はそのひどい様を許すことができなかったと思います。罪人とは言え、身分が低いとはいえ、侍です。こんな恥辱は耐えられないことです。
長州についてからも、身分の低い人がいれられる牢に入れられ、たいした治療もされず、まあ、このときはもう医者の手には負えなかったのでしょう。亡くなってしまいました。死因は結核性の腸疾患だったと言われています。
あまりにも優秀な人材を亡くしてしまった松陰は嘆き、悲しみました。そして、この25歳という若さで亡くなった金子重輔という人物の名を後世に残そう、そう思い、彼に付いていろいろ書き残しました。いろんな人に彼に付いて詩を作ったりしてもらいました。
この二人が出会わなければ、お互いもう少し長生きができたかもしれません。
だけど、この二人が出会い、猛挙したからこそ、その後松下村塾で多くの人が学び、日本を動かしていきました。
この二人が出会わなければ今の日本はありません。
もっともっと光を当てても良い人物だと、深く思っています。