【0】
 幽霊と、出会った。
 最期に僕が見た、世界で一番大切な人と同じ姿をした少女は、降りしきる雨の中に佇んでいた。
 病室から出ることを許されなかったため、自然と長くなった黒い長髪。白いブラウス。
 何もかもが、あの時のままだった。
「……」
 少女の姿に見入ってしまった一ノ瀬直樹は、ハッと我に返った。
 白いブラウスの少女がこちらに気づいた。
 少し驚いたように目を見開いたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
 昔からの癖だった。
 僕の姿を見たとき百合は必ずといっていいほど、嬉しそうな表情を浮かべた。
「ただいま、直樹くん」
 何で2年前に死んだはずの百合がここにいるのか。
 そんなことは考えなかった。
 考えたら全てが壊れてしまうような気がした。
「おかえり、百合」
 手に持っていた傘を投げ捨て、百合の体を抱きしめる。
 微かな、けれども確かな温もりを感じた。百合の命の暖かさを感じていた。
「少し見ない間に直樹くんは、背が伸びたかな? もう私より大きいや」
 悲しそうに呟く。
「二年も経ったからね……」
 本当に長い二年間だった。君を失った僕にとっては。

【1】
 僕と百合が初めて会ったのは、三年前。中学一年生になって初めての夏だった。
 二人とも同じクラスだったとはいえ接点などなく、ただのクラスメイトという関係だった。
 転機はある日のHRだった。
 文化祭の実行委員を決めるのだが、僕の予想通り立候補者が出ず『くじ引き』で決めるということになった。
 その結果、僕と白川百合が実行委員に選ばれた。
 ありきたりだが、文化祭の準備をする過程で僕たちは仲良くなっていった。
 週末には二人で街に出かけたりもした。本当に楽しい一時だった。
 異変が起きたのは、八月に入った頃だった。
 メールを送っても百合から返信がない。
 家に電話しても留守番電話ばかりだった。
 心配になった僕は、担任に頼んで連絡を取ってもらった。
 百合の両親によると百合は二日ほど前に自宅で倒れ、救急車で運ばれたらしい。
 医者の診断によると、百合は癌だと言われたようだ。
 それも進行が早く、長くは持たないと。
 泣きながら伝えてくれる両親に僕は気の利いた言葉の一つも言えなかった。
 当時の僕は自分のこと、そして百合のことしか考えていなかった。
 病室に行くと、白いブラウスに身を包んだ百合が出迎えてくれた。
「ごめんね直樹くん。心配かけちゃって……」
 僕は何も言えなかった。
 どうすることもできなかった。
 ただ百合の手を握っていた。遠く離れていかないように。
 ここに留まっていられるように。
 そんな僕の想いも儚く崩れ去った。
 その十日後に百合の容態は急変し、帰らぬ人となった。
 その日は、僕の心情を映し出したかのように、どんよりと曇り、霧のような雨が降っていた。

【2】
「次はどこに行くの?」
 僕の隣を歩く百合はそう尋ねた。
「丘の上にある公園だよ。二人でピクニックした場所」
 傘を握る僕がそう返す。
 百合と再開したその日、僕は百合に何も聞かず思い出の場所を巡ることにした。
 いつ崩れてしまうか分からない今を、精一杯満喫したかった。
 百合を失ったあの日からずっと思い描いていたことを、現実にしたかった。
 何も聞かずに僕についてきてくれる百合。
 彼女はおそらく僕の考えていることを分かっているのだろう。
 楽しそうな笑顔を浮かべている。
「到着、だね」
「あぁ。懐かしいな……」
 2年ぶりに見た、思い出の場所は百合の姿とは違って、すっかり変わっていた。
 公園の一角には子供向けのアスレッチックなどができている。
「すっかり変わってるね。でも、直樹くんと来たときのことを思い出せるよ。二人でサンドイッチ食べたよね」
「百合が膝枕して、ってうるさかったな」
 二人で微笑みあう。
 こんな時間がずっと続けばいいのに、そう願ってしまう。
 公園からの帰り道。
「直樹くん……」
 不安そうな百合の声。
「何だい、百合」
「あのとき、最期に病室で会ったとき……。何を言おうとしてたの?」
 言葉に詰まった。
 恥ずかしげに視線を逸らして言う。
「ラブレターを、渡そうと思ってたんだ」
 渡そうと思っていた。
 けれどもタイミングを逃した僕は、ついに最期まで渡すことができなかった。
「そっか。読みたかったな、直樹くんからのラブレター」
 寂しげに、そして悲しげに言う百合。
「明日、もってこようか?」
「え?」
「今日はもうすぐ暗くなるから無理だけど、明日……。明日、今日と同じ場所でまた会おう。そのときに渡すよ」
 ついに渡せなかった僕のラブレターは、今もタンスの中に相手を待ちながら眠っている。
「……うん」
 百合は泣いていた。
 頬を伝う涙をそっと拭い、唇にキスをした。
「また明日」
「……また明日」
 また明日。僕と百合の再会の言葉。
 昔から僕たちが家に帰る前に必ず交わした一種の約束。
 この言葉を言えば、必ずもう一度会える。
 そう信じていた。

【3】
 百合と再開した翌日は、晴天だった。
 あの日のラブレターを握り締め、昨日と同じ場所へ向かう。
 百合の姿はなく、代わりに目に入ったのは一枚の便箋だった。
『直樹くんへ』
 自分の名前が書かれているのを見て、直感的に悟った。
 あぁ、もう百合と再開することはない、と。
 奇跡は二度も起こらないと。
『昨日は楽しかったよ。昔みたいに直樹くんと一緒に居られて嬉しかった。私が直樹くんの前に現れたのは、伝えたいことがあったからなんです。言おうと思ってた。でも直樹くんの楽しそうな顔を見ていたら、言えなかった。ごめんね。もう私のことは思い出さないで。過去を引きずらないでほしい。確かに私と直樹くんは告白こそできなかったけれど、お互い本当の恋人のような気持ちだったと思う。でも、私はもうこの世にいないの。思い出でしかないの。私との思い出のせいで直樹くんが苦しむなんて、耐えられない。だから、私のことは忘れて、前を向いて歩いてほしい。たまに後ろを振り返るのもいいけど、過去ばかりにとらわれないでほしい。私はずっと直樹くんのそばにいるから。見守っているから。今までありがとう、さようなら、大好きな直樹くん』

 そこで手紙は終わっていた。
 気がつかないうちに、涙が頬を伝っている。
 もう拭ってくれる人は隣にいない。
 もう一度、もう一度だけ百合に会いたい。
 そう思った。
 足が動き出す。
 当てはなかった。でもあの丘に行けば、百合がいる気がした。
 走る。
 走る。
 走る。

 最期にこのラブレターを渡したかった。
「……到着」
 息が切れているにも関わらず、体はまだ動く。
 丘の頂上へと走る。
「百合ー!」
 ぽつぽつと、雨が降り始める。
「直樹くん……」
 間に合った。驚いている百合。
「これ……」
 手に持っていたラブレターを差し出す。
「約束だから。また明日、って」
「バカだなぁ、直樹くんは……」
 二人して笑いあう。お互い涙を流しながら。
「百合のことは忘れないよ。
でも、確かに僕は過去に囚われすぎていた。
これからは前を向いて歩く。約束するよ」
 雨が僕の心の曇りを洗い流してくれるような気がした。
「よかった」
 安堵のため息をつく百合。
 急に雨が引いていった。
 同時に百合の姿も少しずつ、消えていく。
「百合!」
 まだラブレターを渡していない。
 これだけは渡したい。
 自分の気持ちを伝えたい。
「またね、直樹くん」
 雨がやんだ。
 もう、百合の姿はどこにもない。
 けれど僕の目の前には素敵な青空が広がっていた。
 その青空に、虹が広がっていく。
 綺麗に輝くその虹に、百合の姿が重なって見えた。
 まるで僕と百合が、寄り添っているようにも見える。
 そう思うと、自然に心が軽くなる。
 百合の言葉、伝えたかったこと。なんとなく理解できた気がした。
『私はずっとそばにいるから。だから前に進もう?』
 百合の言葉が聞こえるような気がする。
 今の僕の心は、この素敵な青空のように澄んでいた。

 君が好きだよ。
 心の中で何度唱えても、君には届かないけれど。
 想いだけが溢れて、今も胸の中にしまったまま、届けられずにいるけれど。
 不器用に綴ったこの恋文が……。


 ――いつか君に届くといいな。