『インフラとしての人材サービスを提供しはたらくを楽しむ社会を実現する』
よく新卒採用面接で学生さんに「はたらくを楽しむ社会っていうのはどんな社会ですか?ご自身の仕事はどうそのビジョンにつながてっていると思われますか?」というようなことを聞かれるケースが多いのだが。
楽しいから働くとかない。
楽しかろうが楽しくなかろうがお金をもらっている以上働く。
みたいな考えでずっといる私は自社のビジョンながら考えたことがない。
自分なりに受け入れようとしたことがない。
ので、いつも学生さんの前でも自論を展開していた。
面接後の意向調査ではウケはよかった。
が、そういう場面でビジョンに沿った形ではたらくを楽しむについてや仕事のやりがいの話をするならという立てつけで考えてみた。
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はたらく人たちが、自分がそこにいる意味を見いだせている状態。
この楽しむっていうのはマンガ見て楽しいとかっていう類のものではなく、
充実感、満足感みたいなものだと思うんだよ。
どれだけやりたいと思った仕事についたとしても
失敗もする、怒られることも、力不足を痛感することもある。
それでも、自分はこれがあるからはたらきたい!
って思えている状態なんだって。
それが、はたらくを楽しむということだと思う。
今、キャリアコンサルタントをやっていて思うのは
いかに今自分がここで働く意味を見いだせていない人が
多いかということ。
まずそもそも自分にとってなにが働く動機になっているか?
それを給与以外に見いだせていないケースがある。
キャリアコンサルタントはお客様がその答えを見つけるのを
手伝う仕事。
転職はしてからがスタートだからその瞬間だけでなく、
何年後かに振り返ったときにこの道を選んでよかった。
大変だなと思うことがあってもそれと向き合おうと思える。
そんな未来を作っていく仕事なんだ。
その為には、一時的で表面的なものではないお客様の声をきく必要があるし、
プロの視点で転職市場や業界動向はもちろん、
お客様の情報提供や幅広い視野をもって
その手助けをしていくことが必要。
極論、そうやって支援した結果、
転職せずに今の職場に留まることになっても、
転職活動を通して自分がそこにいる意味を見出したのなら
はたらくを楽しむ社会を作っていることになると思うんだよ。
自分の中の大事にしたいことがはっきりしてきた。
自分がやってきたことに自信がもてるようになった。
最初は魅力が分からなかったけど今はこの会社でがんばりたいと思える。
人生の大きな転機に自分が関わったことで、
そんなお客様の変化や成長を見ることができる。
それがCOのやりがいかな
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これを話そうとしたときに自分として言いよどむ部分がある。
とくに後半のやりがいの部分。
前半の定義パートは大丈夫。
学生さん向けに、対外用に加工してるからだろう。
あんまり、人の変化や成長がやりがいって思わないんだよなー。
よかったとは思うし、すごく好きな人なら別だけど。
特に今やっている領域だからそう思うのかな。
この仕事にやりがいを感じる人はたぶんこういうことに魅力を感じるんだろうなとしか思えない。
自分のオリジナリティが出せている、やりきった感があって、
成果が出せて、評価されると、よし!と思う。
オリジナリティややりきった感といった自己満足がほしい。
誰もが分かる形で成果を出して人に評価もされたい。
わたしの中には人の評価なんて関係ない、自分の軸があることが大事と強く思う部分と
人に評価されないと意味がないと思う極端な2つの感覚がある。
なぜだろう。
人からの評価について。
残っている一番古い記憶は3歳、保育園に通い始めたころ。
ちゅーりっぷぐみ。でも断片的。
その一つ上のあやめぐみのときぐらいから記憶が充実してくる。
基本的にはものごころついたときから
所属組織の中での相対比較でだいたいのことができる状態だった。
それはずっとそうなので出所は何かができなくて怒られたことが…みたいな種類の
劣等感によるものではない。
保育園、幼稚園ぐらいで「なんかできる」という感覚はあったような気もするが、
勉強とか運動のように明確に順位がつくことが日常的にないし、
自分で他者比較はそんなにしないし、されなかった気がする。
なにかができる、できないで優劣がつくことがない、
先生たちも平等に愛してくれる時期だから周囲の反応で
そういうことを感じることも少なかったんじゃないかな。
小学生になってそれが少し変わってきて。
例えば、授業で先生にあてられて答えられる人とそうでない人がいるとか。
先生に勉強しなさいと言われ怒られる人、いい点とって褒められる人、扱いが変わる。
足が速いと友達が増え、あんまり運動ができないと運動会で煙たがられる。
1学年300人とかに増えてテストの順位が出て明確に順番を付けられるようになるのが中学生、
模試や受験などで全国単位で順番を付けられ進路に影響するのだということを実感するのが高校生。
東大A判定が出れば努力したかどうかというプロセス関係なくすごいねって言われて、先生への発言権を得られて学校生活も自由にできて、
恋愛に没頭していて家で勉強しなくてもなにも言われない。
すごく大きな目標や夢があるわけじゃないからもうそれだけあれば十分で困ることも不安もない。
劣っていると誰かに判断されたらそれだけで不快な言われるし、言われなくても思われたり。
いじめられたり、勉強しなさいって言われたり、生きにくそうだ。
そういうのを見て、わたしは、
なんでやらないんだろう。
できないならできるようになればいいのに。
そうしたら何も言われず快適に暮らせるようになるのに。
わたしはあんなふうになりたくない。
と、いう感情をもっていたんじゃないかと思う。
人に優劣をつけて評価するのだ。
そして、わたしはこのように感じてしまう自分の人間性が「劣っている」とも思っていたんじゃないかと思う。
でも、わたしはわたしが好きで、人間性に偏りがあっても好き。
好きなので根本的には変わらなくていいけど、劣っているとは思う。
周囲から見てよくないのはわかるし、アウトプットしていく上では
そこをカバーしたいという気持ちが人に対する接し方をフラットにさせていたんじゃないだろうか。
感覚を理性で制御してそれが自分の感情だと認識する癖もこれをずっと繰り返してきた結果なんじゃないかな。
あと、いつか劣ると判断される側に自分が入ってしまったと感じてしまったときの為のリスクヘッジ。
こうして、一般的な評価の『劣』側に入りたくない。『優』の中でも上のほうにいたほうが生きやすい。と、いう気持ちから周囲の評価を意識するようになったのではないかと思う。
もうひとつ思い当たる。
ママだ。
周囲の目を気にする心配症。
ちょっと気弱な感じの優しい人だと思う。
人に不快感は抱かせたくない、それなら自分が我慢するタイプの人。
人に迷惑をかける人にはならないようにとよく言っていた。
本来の私は子どもの頃女の子らしくピンクが好きで
少女らしい格好も好きでキャラクターものも好きだった。
でも、以前ブログで書いた洋服や机のエピソードのようにママから
長期的に考えてとか、周囲から見て恥ずかしくないようにと、
シックなものを選んだり実用性が高いものを選ぶという選択をすることを教えられ、
いつしか自分でもそういう選択をするようになった。
かたや、自分の軸を大事にするというパパからもらった価値観。
別に、自分をもちなさいとか子どもに教えを説くタイプの人ではない。
やりきりなさいとか言わない。
むしろ冷めていていわゆる父親っぽさはない。
なかなか人や物事を褒めたり、いいと言わない人だったから、
そのパパがいいというものは本当にいいんだと思った。
パパと同じ目線をもちたいと思って、パパの好きなものを知ろうとした。
だから今も女の子らしくないポイントに反応してしまう。
きちんとした言葉でいうと、
誰かがいいって言ったからとかブランドだからではなく、
本質的にそれそのものがいいかは自分の基準でその価値を判断する。
そのことの大事さ、かっこよさを私はパパを見て感じていたんだと思う。
両方とも客観性が求められることだと思うんだけど、
その結果、人から見た視点に重点を置くことと、
自分の基準を大事にすること。
ふたつのことを私は受信していたんだなと思う。
オン・オフの落差が激しさも、
オンの強気さ、合理性は、パパ。しゃべり方が似てるらしい。
オフのおっちょこちょいな感じは、ママ。
だな。