24/6/29 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

神と自分とのタテ糸

都知事選でのSNS情報環境は、推しのライバルへの罵詈雑言の嵐のように展開していく。まるで伝言ゲームのように、小さな噂がそれぞれの投稿者による刺激というスパイスによって積み上げられ、各候補がとんでもないバケモノにされていく。SNSが心ない悪意の吐け口に使われ、参加すれば毒牙に呑みこまれることになる。私たちはそのような肥溜めの世界(悪意の主観)ではなく、一般化の情報環境(客観)を通した、常識世界の起結(時代の流れ)に身を置いている。

 

いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心の欺きのない人は。私は黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜も私の上に重く、私の力は夏の日照りにあって衰え果てました。私は罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。私は言いました。「主に、私の背きを告白しようと。そとき、あなたは私の罪と過ちを赦してくださいました…詩編32:1~5

 

承転という内なる心の世界に、神は住まわれるのてあり、ダビデのように黙し続けて表の世界に絶望(暗闇、サウンドオブサイレンス)を通して、神との関係を模索していくことになる。それは個人的な信仰の世界であり、他者という心ない言葉に翻弄されない勇気を持たなければならない。私にとって神とは空間であり、聖書の白紙の紙の上ということになる。時代の文章は聖書の専門家たちに読まれ私の上を通過する感覚(学問である体系化された客観)であり、軍靴の行進(ニュースな日々)のように、時代は流れていく。時代の川とはヨコ糸の世界であり、起点から終点までの時代の盛衰という起伏を、主役なき大河ドラマとして物語っていく。

 

私はあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわ手綱で動きを抑えねばならない。そそのようなものをあなたに近づけるな。神に逆らう者は悩みが多く、主を信頼する者は慈しみに囲まれる。神に従がう人よ、主によって喜び躍れ、すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ…詩編32:8~11

 

主が私たちに与えてくれる言葉はタテ糸であり、気づきというインスピレーションということになる。気づきを感知する心であり、瞬間であり永遠という言葉ならざる言葉(ロゴス)ということになる。ダビデの沈黙が骨まで達しその傷みに主が癒しの言葉から再生への糸口を与えてくれる。白紙の大地にダビデがぬかずく姿が詩編の意図ということになる。

 

  • 社会の大衆化とは、中間的で自律的な共同体が弱体化し、解体して、裸で放り出された個人と、国家という茫漠として抽象的な社会との間に、ほとんどなくの遮蔽物もなくなった状態にほかならない。このような状態の原因はテクノロジーの空前の発展、高度の工業化であり、人類の歴史に前例のない空前の人類の大移動、大都市への急激な集中をらたらした茫漠(精神の砂漠)の地に、たった一人、根無し草のようなも裸の個人として放り出される。それに追い打ちをかけるようにマスコミュニケーションがブルドーザーのような平均値(画一的常識、時代の川)を推し進め、均一化(メディアメッセージ)から漏れてしまう人々を変人あつかいにして排除(私のブログ)していく…安西徹雄
  • 人間の世界へ侵入せしめない特性を有している。言葉は人間にとって一つの土塁なのである。多くの魔的なものが、人間の内部に侵入し、破壊しようと待ち構えている。しかし、人間はこの魔的なものによって侵害されることから護られているのである。いや、この魔的なものは言葉になかに入り込むことができないから、言葉(ロゴス)によってすでに、魔的なものから遠ざけられているのである…ピカート
  • そして人間の心の中に持っていると思わわれる嫉妬心や怨念などの汚い根性は闇である。闇というのは、真空と同じくそれ自体存在ではない。光が欠如しているか、もしくは不足している状態だ。従ってどんな悪人といわれる人でも、それは光に恵まれなかっただけのこと、その人々に愛と信仰を浴びせ、理を以って説けば、つまり、ロゴスを与えれば人間本来の姿、つまり善なる人間になっていくのだ。これが人間観である…会田雄次

24/6/25ブログ参照