私は「大村藩士系録」(幕末頃藩命により編集された、各藩士家別家系図)を解読し藩士約500家の起原と派生を研究しております。 各家、幕末時点でのご先祖様の名前が解れば、その家の起原と派生をご紹介できます。
今回は、今話題の片山さつき財務大臣の旧姓が「朝長」で、ご先祖様が大村藩家老家筋とのコメントがありましたので、大村藩朝長氏の起原と派生について情報をお届け致します。
...................................................................................................
大村藩朝長氏の起源とその後の派生
2021年4月記述 喜々津祐介
1.概要
朝長姓は全国4,311位、およそ2700人との情報がありますがその半数以上は長崎県在住となっています。大村藩朝長氏始祖は、平安時代の994年大村氏始祖直澄公が伊予国(現愛媛県)より肥前国彼杵郡大村に下向した時、伊予国から随行した7家臣(朝長、富永、河野、馬場、堀、久門、小船串)の1人です。戦国時代に朝長氏は大村氏の危機を再三にわたり救い、江戸時代に朝長氏宗家は「浅田」と改姓しますが、宗家は代々家老、城代職を務めた大村藩筆頭の家系です。
一族も幕末時点で64家に派生し、姓も「朝長」以外に、宗家の「浅田」、また一部の家系は「朝野」「一瀬」「三根」「野本」「福田」に改姓しています。
2.起源と派生
朝長氏の起源は平安時代正歴年代(990~995年)伊予国(現愛媛県)の藤原純友家臣と推測できます。藤原純友は939年に伊予国で藤原純友の乱を興し西国の独立を図ります。この乱は朝廷から派遣された橘氏(大村藩渋江/中村/中橋氏の祖先)により鎮圧されます。その後988年に藤原純友は朝廷より許され、996年、孫の藤原直澄に、肥前国藤津/高来/彼杵の3郡が与えられ藤原直澄は大村に下向し、大村氏を称します。この時直澄に随行した7家臣の1人が朝長氏です。但し応永年間(1394~1428年)の朝長右衛門太夫純次までの歴代約400年間の詳細な記録は不詳となっています。従い朝長純次が朝長氏中興の祖と記されています。
純次の時代は室町時代で南北朝が統一された直後ですが、九州では肥後の菊池氏を中心とした南朝勢力が未だ残っており戦乱は続いていました。その後1467年に応仁の乱が始まりそのまま戦国時代へ突入していきます。純次の子2代目純恭の娘は大村純伊公の母となり、純恭の子(純次の孫)三代目純俊(純伊公叔父)の頃から戦国の動乱が激しくなります。
1474年大村純伊公は島原有馬貴純の侵攻を受け、大村氏属下鈴田道意の裏切りで大村領を追われ(大村領は6年間有馬に占領されていた)、松浦の加々良島(現加唐島)に逃避潜伏します。この時純俊、そして同族の朝長周防、また福田純定/兼通、富永種清、山口経壽等が純伊公を支えました。1480年純伊公は武雄の渋江公勢、中村公秋の支援を得て、有馬氏占領の彼杵松岳城を奇襲勝利後松原へ侵攻し、鈴田道意も有馬を裏切り、大村純伊公復帰に協力し無事大村領の奪還を果しました。
純俊の子4代目純兵は1533年大内義隆の大村領侵攻を上彼杵8人乙名の協力を得てこれを撃退。7代目純盛と同族純基は1572年「三城7騎篭」7騎の内の二人で、純忠公絶体絶命の危機を救いました。その子8代目前安は1592年喜前公に従い16歳で朝鮮出兵に従軍して戦功を挙げました。その活躍を見た豊臣秀吉の家臣戸田氏は、前安を養子に欲しいと喜前公に頼みましたが、喜前公はこれを認めず、戸田氏の「田」の字を偏諱として賜ることでこの件を収めました。これにより朝長前安は朝長の「朝」と戸田の「田」をとって朝田と名乗る事になり、後に「浅田」と改めました。従い朝長氏宗家の一族は浅田氏となっています。江戸時代になり、前安は食録600石を賜り、宗家は代々家老/城代職を務めました。
大村藩朝長氏の起源は中興の祖純次一人から派生したものと思われ、幕末時点で全64家が存在しています。宗家家系が4家に派生し4家とも「浅田姓」です。また庶家系で1家浅田正重が食録200石を与えられ公より浅田姓を称するよう命じられています。
64家の内訳は浅田氏5家、朝野氏1家、一瀬氏1家、三根氏1家、野本氏1家、福田氏2家、朝長氏53家となっています。また、系図を推定でも繋げることができなかった家系は内数で10家ありました。