これまで2回、戦争について書いてきました。最後に、ぼく自身のことについて書こうと思います。

このブログを書くにあたって、少しの調べものをしました。自慢にもならないくらいの調べものを通して、初めて知ったこともあります。まだまだわからないこともあります。
でも、今日はそれらについて書いたり、いろんな議論の是非について書いたりするわけではなく、ぼくが思うことだけを書いて終わりにしたいと思います。


ぼくの両親は、ともに被爆2世です。
つまりぼくは、被爆3世です。
1945年8月9日に長崎市上空で爆発した原子爆弾の被爆者です。

祖父は、爆弾投下直後(当日だったか翌日だったかはわかりませんが)の長崎市内を、軍の命令で視察したそうです。
そのとき祖父が見た光景は、地獄です。
(祖父は奇跡的に健康被害もなく、元気に長生きしました)

この祖父の体験を、ぼくは子供の頃に母から聞きました。祖父から直接聞くことはありませんでした。
それ以上のことを知りたいと思ったことはなく、むしろ、子ども心に半端な気持ちじゃ向き合えない重いことなんだと感じ、自分には訊けないなと思った記憶があります。

今も続く被爆者のかたたちの苦しみに、ぼく個人はなにもできませんし、複雑化する国際情勢や世の中のことに進んで意見するつもりもありません。
しかし、直接の被害者ではないにしろ、親とその兄弟たちもみな被爆2世であるという非常に近い立場にあって、感情的に他人事にはできないことを認めざるを得ない以上、ぼく自身も何かしらの思うことがあるのも事実です。


ぼくに言えることは少ないですが、敢えて言うとすれば…

被爆体験を自ら進んで語る、勇気ある方たちの声を、どうか真剣に聴いてください。
それがどれだけ辛いことであるか、わかるでしょうか?

長崎市内の爆心地公園や平和記念公園には、碑文があります。決して忘れないために。
もちろん、忘れないことは重要です。こんなにも悲惨なことが起きたこと、何万何十万もの命が失われたことは簡単に忘れてはならないことです。
でも、ただその事実を悲惨だとかかわいそうだと言うだけで終わらせて充分ではないはず。
反省こそ重要でしょう?
「なぜ」ということ。
日本ももちろん、アメリカもそう、なぜ戦争に至ったのか。なぜこんなことになったのか。これらの人たちがなぜ死ななければならなかったのか。その反省に立たない限りは、同じ間違いが未来に待っています。


人類は愚かなことをしました
さらにはそれを繰り返すほど
愚かなのでしょうか

一瞬で蒸発した人たち
苦しみながら死んだ人たち
苦しみながら生きる人たち

ひとりひとりに生きる権利があって
大切な人がいて

それを奪う権利が誰にあったのでしょうか

誰もが望まないことであったのなら
なぜ
その最悪の結果を
敢えて選択したのでしょうか

その痛みを
わたしたちは
わかったような顔だけして

簡単に忘れるのでしょうか


この柱は、もし言葉を持っていたら
わたしたちに何を語るでしょうか

画像:爆心地近くにあった浦上天主堂は一瞬で全壊。柱の一部が現在、爆心地公園内に展示されています。