先日、84歳のある女性から伺ったお話です。



最初は昔話をしておられました。
夏、家の前に流れていた、それはそれはきれいな小川で遊んだこと。おかっぱあたまにパンツ1枚で近所のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちと遊んだこと。夕方になると、お母さんに体を拭いてもらい、洋服を着せてもらった思い出。
やがてその小川も埋め立てられてしまい、近所もぜんぶアスファルトになってしまった、と。

「今年でもう84になります」と言われたので「あぁ、それじゃ戦争も経験されたんですね」と訊くと、ご自身とご主人の戦争体験を目に涙を浮かべながら話してくださいました。

終戦の年、日本の各主要都市にアメリカ軍による大空襲が行われていますが、そのひとつに福岡大空襲があります。
1945年6月19日。
その空襲の一部始終を、当時 女学生(15~16才)だったこの女性は郊外の自宅から見ていました。日本軍の高射砲による迎撃が届かない高度から、アメリカ軍の爆撃機が爆弾・焼夷弾を次々と落としていき、街一帯が炎で赤々と燃え上がり、焼け出された人たちが避難してきたそうです。
鮮明に記憶に焼き付いているのでしょう、そのときの様子を詳細に話してくださいました。
その頃は、普段から昼間は学生の役目として駆り出されて市内に労働に出ておられたそうで、憲兵さん(監督・監視係の兵士)の厳しい指導のもとで働いた体験も話されていました。




この方のご主人は(おそらく同じ年頃でいらっしゃったでしょうから、現在の中学卒業くらいの年齢で)、親の印鑑を盗んで海軍のパイロット養成学校(予科練)に願書を出して入学、それを知った親御さんは泣いて泣いて…訓練を終えて配属されたのは、当時は日本領だった台湾の航空基地。
すでに戦局は最終局面で、訓練を終えた若い戦闘機乗りたちに命じられる作戦は、250kgの爆弾を胴体下に装備した戦闘機もろとも敵の艦船に突っ込む、体当たり攻撃でした。
作戦の成功・失敗にかかわらず、生きて還らぬことが前提の出撃です。
出撃の順番待ちをする間、毎日たくさんの仲間が出撃するのを、還ることのない飛行機が見えなくなるまで帽子を振って見送ったそうです。
出撃の順番が回ってくることなく終戦を迎えられました。数十年経った後でも、ご自分の体験を奥さんに話されるときはいつも目にいっぱい涙をためてお話されていたそうです。





よく冷えたサイダーを出してくださいました。「こんなもん無い時代やったですよ」…食べる物もろくに無い生活をされていたのは言うまでもないでしょう。

ぼくは中学生の男の子と一緒にこの話を聞いていましたが、その子に「あなたとあまり変わらないくらいの年頃ですよ、皆が戦争に行ったのは」と。
出征していった軍服姿の(あどけなさが残る) 若者は、それはそれは立派でもあり、かわいくもあったそうで、中学生くらいの年頃の少年を見ると、その姿に重なるようです。

いろんなことをあきらめて、何の得にもならんことのために命を捨てた若者たちが、日本にはいたんです。それらの尊い犠牲の上に今があるということ、その上にわたしたちが生きているということを、絶対に忘れんでほしい

このメッセージに本当に強く想いを込めておられました。

確かにこれは、文面にしてしまうと月並みなまとめです。
あるいは、そういうふうには考えない受け止めかたや思想もあるでしょう。確かに戦争は何も生み出さない…これだけは、負(マイナス)の出来事以外の何でもない。そこからポジティブな哲学を引っ張り出そうなんて無理がある。みんな無駄に死んだだけ…そう考えるのだってありです。

でも、ぼくが直接その女性の口から聞いたこのメッセージは、月並みな響きではなかったし、間違っても「戦争美化」の思想でもなかった。

戦争に行った人、そして還ってこなかった人、その家族、戦争で引き裂かれた家族…その時代を生きた人たちにとっての「犠牲」と、ぼくらが解ったようなふりして言う「犠牲」とは、違うような気がする。根本がズレてるわけではなくても、違う気がする。


人類は
判断力の欠如によって戦争を起こし
忍耐力の欠如によって戦争を起こし
記憶力の欠如によって戦争を起こし