2011年3月11日。一人のソフトテニスの教え子が亡くなった。
享年16歳(当時)
東日本大震災から、さかのぼること二年前の4月下旬。
自分は仕事の帰りに、気仙沼中学校女子ソフトテニス部の生徒を教えに通っていた。
当時は唐桑中学校の女子ソフトテニス部のコーチをやっていたわけだが、気仙沼ソフトテニス協会で行なっている
中学生対象の講習会で、気仙沼中学校の部長と仲良くなり、是非見に来て欲しいと声をかけられたのがきっかけだった。
唐桑中学校のコーチをしているてまえ複雑な気持ちだったが、見に来て欲しいとせがまれると断るに断れない性格
だ。
部員はコートに入れば、上手い下手関係無しにソフトテニスを楽しむ!そんな子供達だった。
一人を覗いて。
その子は、ラケットも持たずポールのそばの地べたにあぐらをかいて座っていた。
髪は少し茶髪。眉は細くお手入れ。
ヤンキーってやつ。
立って歩けば、ジャージのズボンは腰履き。裾はボロボロ。
そして、タメ口。
顧問の先生がこう言った。
「あの子は、学校の授業はほとんど出ないんです・・・。他の先生からも評判悪くて。・・・でも、私にはいろいろ相談してくるし、こうやって部活にだけは顔出すんですよ、ラケット持たないのに(笑)。見た目は、あの通りですけど、いい子なんです。本当は寂しがりやなんです。
それでも、他の子と同じく接してくださいね。」
「もちろんですよ。部員はみんな教え子ですから」
自分はその子を見ながら言った。
しかし、これと言って話す事もなく、また、話かけられることもなく・・・。
気づけば、気仙沼地区中総体。子供達も気合いが入る。もちろん、自分も教えてきただけにプレッシャーがかかる。
その子は結局、マネージャーという形で大会に参加。
相変わらずのジャージの腰履き。
「1、2年生の応援の声出し頼むぜマネージャー!」
自分は初めてまともに目を見てその子に話しかけた。
「オッケー!任して‼・・・オラ!1、2年、お前ら声出さなかったら・・・・」
・・・タメ口だし、口悪いし・・・。
大会中は、格好のわりにはしっかりマネージャーの役目を果たしてくれた。
大会は残念ながら、県大会出場まであと一歩及ばず、という形で幕を閉じた。
三年生はボロボロ涙を流し、自分も悔し涙を流した。
最後のお疲れの言葉も何を喋ったか覚えていない。
大会が終わって、一週間くらいたった頃だったと思う。一人の生徒のお母さんから大会の打ち上げの招待を受けた。
気仙沼市内のファミレスの一部を貸し切りですることになった。
仕事帰りにファミレスに直行。
中に入り、辺りを見回していると子供達とお母さん達が手招きしてくれた。
とりあえず中学生だけに、ギャーギャー騒ぐ。辺りのお客さん達もチラチラこちらを見る。
子供達はお構いなしで騒ぐ・・。
俺はというと、とりあえず目が合うたびに申し訳ない気持ちで頭を下げた。
しかし、どこか、こんな感じも悪くないなと思っていた。
「ねー、携帯のアドレス教えてー」
その子が俺の前にきた。
「・・えー?」
と、いいながら、まんざらでもなかった。
「教えて下さいだろ?」
と、いいながらも、メモ用紙にアドレスを書いて渡した。
「ありがとう」
それに続けとばかりに他の子も聞いてきた。
お母さん方からは
「モテモテですね(笑)」
の声。
自分は照れ笑い。
打ち上げは最後まで騒ぎっぱなしだった。
「ねー、携帯のアドレス教えてー」
その子との最後の会話だった。
その後、学校へ顔出しても、その子を見かけることは無かった。
メールがたまにきたかと思えば、アドレス変更しました!という内容。
最初は「オッケー」とか「了解」とか返信していた。
が、アドレス変更のメールが月に二回、三回にもなってくると、さすがにシカト。
「今度会ったら説教だな・・!」
今度会ったら・・・。
2011年3月11日
2時46分
東日本大震災
自分の仲間も、教え子も無事だと思っていた。
一ヶ月以上たったある朝、地元の新聞にその子の名前が載った。
目を疑った。
同性同名で、年齢も間違いだろ・・・そう思いながら手をふるわせ、違う教え子にメールで確認をとった。
「本人です。・・・友達が遺体を確認したので間違いありません」
返信の本文に愕然とした。
ボロボロ涙が止まらなかった。
もう、会って説教もできない。
どうしてもっと、かまってやれなかったんだろう・・。
どうしてもっと・・・
いろいろな後悔の波が押し寄せてきた。
会いたくても会えない。
彼女は、もういない
おわり
