政治主導と延暦寺焼き討ち | xyavのくしゃくしゃブログ

政治主導と延暦寺焼き討ち

本地垂迹とは 神仏混淆思想の一種で、日本の八百万の神は 仏が化身として現れた権現だとされた。


室町時代に権力を握ったのは武士だが 武士だけの力で国を治める事は出来ず、仏教僧の力を借りた。


僧侶は 武力と共に読み書き算盤に優れ、実務を支配する能力があった。


一方、武士に武力はあれど 読み書き算盤は苦手だった。


平安時代に、国家事業として中国へ派遣された日本で最も優秀な人たちが興したモノが これらの仏教寺院の始まりである。


日本の政府は、中国や朝鮮のように 科挙による官僚登用の仕組みがなく、宗教を頼らざるを得なかった。


のちに 徳川家康もこの能力を頼み、門信徒制を定め 日本中の寺院によって国民を管理した。


武士同士が争い 戦国の世に確固の地位を得たのは、土着の神道と結びついた仏教勢力で これを打ち破ったのが信長である。


寺院の武力は 武士と並び立つほどになっており、丸腰のお坊さんというイメージではない。


政局に明け暮れる政治家たちを尻目に 実際の利権を握っていたのは、武力をもち 実務もできる僧侶だった。


しかも 神と仏を合体させて、民衆支配 世論操作の頂点にいたと言って良い。


この盤石の勢力を 苦労に苦労を重ねて崩したのが、信長による延暦寺焼き打ちである。


そのために信長は、自らが 悪者にならざるを得なかったであろう。


やがて秀吉も寺院の武装解除を進めたが 全ては信長による焼き打ちがあったからこそ可能となった。


日本の論理は 神仏を習合させると言う和合の精神しかなかったが、欧米では 一神教による排除しかない。


そこで日本では 廃仏毀釈により外来の仏教を排し、特権を持つ仏教勢力を弱めた。


これが激しく行われたのは 仏教による民衆管理が汚職の温床となり、国民の支持を失っていたからで、政治主導による 利権の打破が必要だったと言える。


それでも宗教は相当に守られ 強い力を保持しているが、私達の見ているのは これでも弱められた姿である。


信長は その力に立ち向かったのであった。