ただただ「美しい」と思いました。盲目の美女春琴(しゅんきん)のことではなく、その春琴に生涯仕え自身の最期まで慕い続けた佐助のことでもなく、この二人の関係を漫画という媒体を最大限に使って表現したこと、それが僕にはとても美しく見えました。
3巻ではある出来事をきっかけに、二人とも、物質的には破滅ともいえるような状況になっていくわけですが、とくに佐助においては、春琴のそばにいた間はもちろん、春琴がいなくなってからの21年間も春琴の美を高め続けたこと(←何言ってるかわからんでしょwww でも、間違っていないのです。)が、僕には「人生のありかたの一つの極致」を見れた気がして、かつそれが漫画における描写と相まってとても美しく思えたのですよ。
3巻は泣きながら読んでました。悲しいとかでは全くなく、作品の美しさに感動したからです。泣くほどのことはさすがに僕くらいなものだと思うのですけど。
作中では二人のあるやりとりを見た人物がそれを「愛の睦事」と表現しているシーンが出てきます。気難しく佐助を物のように扱う春琴と春琴を慕い続ける佐助、という二人の関係は倒錯的な愛と見ることもできますが、この作品は愛や性愛の物語ではないと僕は解釈しています。この作品は、春琴、佐助の二人の生き様や関係を通して、「人生のありかたの一つの極致」を描いたものだと思っています。
ちょうど僕は、何をしてもつまらなくて、空虚だなー死にたいなーみたいなことを感じていたので、そんな心の空洞にこの作品が入り込み、春琴と佐助から僕なりに読み取った「人生のありかたの極致」がぴったりと収まったのでしょうね。
なお、この記事は書評ではありません。ただの感想文です。今日はこのへんにしときますが、たぶん近いうちにもうちょっと掘り下げて続きを書きます。
こちらで試し読みできますので、是非皆さんに読んでいただきたい。そして感じたことを聞いてみたい。そんな風に思っています。
蛇足ですが、今の僕は、「東大卒プロゲーマー」とよく紹介されるときど氏の著書「世界一のプロゲーマーがやっている努力2.0」を読んでいます。
その本の中で、「理解していること=言語化できること」という趣旨の一節が出てきて、それは僕も日ごろから感じていることだったので、ホーキーベカコンの魅力を理解するため、言語化をしたくて本記事を書きました。
なお、ときど氏は対戦型アクションゲーム、いわゆる格闘ゲームのプロゲーマーです。格闘ゲーム、僕は今は全くやっていませんが、昔はやってました。
格闘ゲームって、キャラの操作が上手な人が勝つゲームじゃないんですよね。自キャラのできること、相手キャラのできること、自分の能力、相手の能力、癖、感情、読みあい、博打etc.あらゆる情報を処理して対応していかなくてはならない。つまり、対人コミュニケーションをゲームという型にはめ込んで類型化したもの、そういう意味では対人コミュニケーションを平準化・単純化したものともいえるので、どのプレイヤーも平等なところ(誰が使っても同じキャラクターは同じ技しか出せませんから)とか、仕事、趣味、恋愛、勝負etc.いろいろなことに応用できるところが好きなんです。
いや~。書き始めるのは面倒だけど、書いてると楽しくなってくるね