清子は1923(大正12)年823日、清太郎とハナの次女として京都府右京区嵯峨伊勢ノ上町で生まれた。清子が生まれた当時はまだ右京区ではなく葛野群嵯峨野町であった。関東大震災の少し前である。

父清太郎の戸籍謄本をみると清太郎は1894(明治27)年3月18日に房次郎とマサの長男として生まれている。1917(大正6)、23歳の時に小ヨシと結婚するも、1920(大正9)年に小ヨシが死亡。1921(大正10)年、27歳の時に清子の母となるハナ(20歳)と再婚。翌年1922(大正11)年に長女の操江、1923(大正12)年に次女の清子が生まれた。その二年後の1925(大正14)年に三女の三都子、さらに二年後の1927(昭和2)年1月に四女の恵美子が生まれた。この年の6月に父親の房次郎が死亡し清太郎は33才で家督相続をしている。同年の9月に清太郎の妹みつが25歳で死亡。翌年1928(昭和3)年に待望の長男となる清治が生まれるもわずか3ヶ月で死亡。1930(昭和5)に次男の昭治郎、1931(昭和6)年に三男の治三郎が生まれる。治三郎が生まれる9ヶ月前の1月に清太郎の弟芳太郎が25歳で死亡。1934(昭和9)四男の和四郎、1937(昭和12)、清太郎43歳の時に五女の下枝が生まれる。

父親の清太郎 は1943(昭和18)年、48歳でこの世を去るが、次女の清子は19歳、一番下の妹はまだ5歳であった。

清太郎の父房太郎が何年に生まれたのかは分からないが、亡くなった時清太郎が33歳であり、20歳ごろに産んだと考えると1974(明治7)年ごろに生まれ、55歳で死亡したことになる。

清太郎の前妻小ヨシは結婚三年後、妹のミツ・弟のマサはともに25歳という若さで亡くなっている。また、長男の清治は生後3ヶ月で亡くなっている。

大正から昭和初期の主な死因は「亡国病」とも呼ばれた結核、肺炎・気管支炎、流行性感冒、消化器系の伝染病である。また、女性の妊娠・出産に伴う感染症乳幼児の死亡率も非常に高かった。まさに「感染症との闘い」の時代であり、まだ医学的な治療法が未確立であったものが多かったため、若くして亡くなる人が多かった時代である。

清子の家族もこういった感染症で亡くなったのではないだろうか。

父清太郎の戸籍謄本から今の時代とは違って、清子が生きた時代は「生と死」は身近なものであったことが分かる。