二年生の終わり頃、昼食の時、給食でミルクがコップにいっぱい貰えるようになった。私はすごく嬉しかった。


夏は、山でドングリの実を拾い、お茶の実と一緒に売り、二年目には集まったお金で運道具とグランドピアノを買うことが出来た。喜びで村中お祭りのようだった。




時々、先生は紙芝居を見せてくれた。キャラメルが五十銭、キャンデーが二円だった。


三年生になった。担任の先生は今宮の保子先生だった。すごくやさしい先生で、私はとっても好きだった。


先生は私たちに小説をよく読んで聞かせてくれた。中でも、あの時の小説「ああ、無情」主人公のジャンバルジャン、コゼットの事等・・・・紙芝居もよく見せてくれた。学校が楽しかった。




春の遠足は行かなかった。夏、夏休みが近くなる頃、必ず毎年、私は漆の木でかぶれた。顔、手、足、体中に出来た。本当にいやだった。秋、運動会の前日は学校から家に帰ると近所の友達、二、三人で近くの山へ行き栗の実を拾った。そして、夜、落花生の実と一緒に煮て運動会に持っていった。秋の遠足も、母が病気で行けなかった。




苦しい生活の中でも、お正月は餅、ドンド焼きの団子、お彼岸には牡丹餅、山へ行くときはおむすびも、母の作るのはすごく大きかった。大き目の夏みかんくらいあった。だから一個食べると腹一杯になった。

田舎の香水、農家では畑の肥料に昔から人糞を使っていたので、作物の発育の季節には、どこの畑といわず、日本中が臭かった。


そして、四年生。また担任は、保子先生だった。本当にうれしかった。


私たち二人の子供を育てるのは、本当に大変だったと思う。

そして、その年、父と母は再婚した。





残留孤児、テレビで報道するのを見るたび、あの時、置き去りにされた子がこの中に、もしかと思い胸を熱くし、また私と妹もあの時その中にいたらと、今日このテレビを通して母を探しに来ていたかと思うと、思わず涙する私です。




いつも、感謝の気持ちでいっぱいなのに、会えば素直に口に出来ない。


ありがとう、本当にありがとう。








以上が、伯父の残した敗戦から戦後を綴った手記です。


祖父は、124師団273聯隊所属の陸軍一等兵でした。靖国神社に合祀されています。


祖母が亡くなって、五年が経ちました。





私はこの手記を最近知りました。


戦後の混沌の中、大変な時代を生き抜いてきた祖父祖母を、今も誇りに思います。






その頃、妹はよちよち歩いたのか?


ある夜、親兄弟に気を使っていた母は戸締りをしに、ちょっと目を離した時、妹は残り火のある、いろりに落ちた。


背中一面のやけどで重体となった。

その時から母は、二重の苦労を背負う毎日となった。


妹は何度も何度も痙攣、ひきつけを起こし、その度に夜の夜中でも遠くの病院に泣いて走った。


その母を見ても、親兄弟はやさしい言葉さえかけてくれなかった。


そんな時にも出て行けと言った。ある時は一日中、何度も母が涙して頼んでも駄目だった。


その時、助け舟を出してくれたのが母の弟、私は、その後、その叔父さんが一番好きになった。


そして、やっと出て行かずに済んだ。




一番奥の天井の低い暗い狭い板の間だった。一畳位のふとん一組使うのがやっとだった。


母は妹を抱くように、私はその母の足のほうからふとんに入り、その日から、そこで三人で寝るようになった。


寒い冬の夜、母は小さい火鉢に火を入れて、ふとんの中に入れ暖めてくれた。ふとんの中が明るかった。


中を見ると母は足を折り広げ、火鉢の上のふとんを持ち上げるように寝ていた。




妹の背中に当てた布は乾くとくっついて、はがす時、母はつらそうだった。


薬をつけて終わるまで、妹は痛さに狂ったように泣いた。そんな時も、毎日朝早くから母は妹を背負って働いた。


妹のやけどは一年過ぎても、治るどころかいつまでも一面じくじくしていた。


人からあれが効く、これがと聞けば必死でそれを探し求め、飛び歩いた。




終戦直後の日本の一番貧しい時代、薬もなく、皆、ヤブ医者ばっかりだった。馬の油も塗った。


そして、それから一年位後、ようやく妹は完治した。





大根めしも、さつまいものつる、いろいろな物を工夫して食べ、その日の食を心配するのが精一杯だった。


また、遠くの山(十里木あたりまで)妹も一緒に薪とりに行った。そして翌日、母はそれを町に売りに行った。




私の小学校入学。小夜子の事も思い出すが、いつからいたのか分からない。


鈴木八郎さんの再婚、可哀相だった元子ちゃん、よく二人で畑の土手にのんびるや、ふこうを取りに行った。小夜子ともよく遊んだ。


母は一生懸命働いた。無理がたたったのか、この頃から時々腹が痛いと言って苦しがり、寝ては背中をさすらせた。


学校にはわら草履を、また下駄を履いて行った。教科書も帳面もなかった。渡辺さんの叔父さんに貰った石板と石筆を持って。




冬と春の学校は教材を買う資金集めの為、一日おきに一年生から六年生、生徒全員が学校周辺の茶畑にお茶の実拾いをした。


日曜日の宿題はお茶の実一升だったりした。夏、秋はドングリ拾いもした。


弁当を持ってこない子がたくさんいた。私もそうだった。昼は家に飛んできて、さつま、じゃがいもを食べた。




春と秋の季節、母の体の具合は特に悪かった。学校から帰ると寝ている日が多かった。上手に背中をさすれなかった。そして苦しがり、何度も医者を呼びに行った。


下村のサキタ先生、原田のイチカワ先生・・・・原田病院にも、戦争未亡人、時には誤解され変なうわさを立てられ、母はいつも負けていなかった。




ある時、何年生の頃だったか、学校の運動場の南側の土留工事の頃だったと思う。友達と遊んでいた私たちの方に、何かに腹を立てた土方の人が石を投げた。それが私の頭にあたり怪我をした。


夜遅く母は帰ると怒って、翌日その人の前に私を引っ張っていくと、すごい勢いで怒鳴ったのを覚えている。


そんな母を何度も見た。


また、人の世話も好きだった。喧嘩の仲裁で、駐在所の奥さんに喜ばれた母も知っている。校長先生にゴルフを教えている最中、振り上げたクラブを校長先生の頭に当て、怪我させた駐在所のお巡りさん・・・

汽車の中は本当に長かった。


途中私は走る汽車の中から、ずっと大事に大事に持ってきた水筒を外へ落としてしまった。


東海道線鈴川駅(今の吉原駅)に着いた。


歩いてしばらくすると、すぐ目の前に大きな山が見えた。母が富士山だ、日本一の山だといった。うれしそうだった。母の顔は生き生きしていた。


道は凸凹していて、道の真ん中に水たまりがあったり、鈴川から私の手を引き妹を背負って、何時間歩いたのか。


もう少しだ、もうそこだとだまされだまされ、神戸(ごうど)に着いたときはもう、くたくただった。





村の人が母を見ると大勢集まった。

「よく帰ってきた、よく帰ってきた」と大きな声で喜んでくれた叔父さんが一人いた。懐かしそうに、時々笑いも聞いた。


・・・その時、どこかの便所に落ちたのも覚えている。頭から水をかけられ洗われた。


そして母の実家に落ち着いたとき、子供心にあまり歓迎されていない事を知った。


隅の方に寝かして貰ったものの、翌日から親兄弟から意地悪された。


邪魔だ、あっちで・・こっちで寝ろと。いやなら出て行けと何度も言われた。


途方に暮れる母の顔をその度に見た。





父の戦死を聞かされたのはこの頃だと思う。


二人の子供を新潟(父の実家)へ置いて来いと私の前で母に何度も言った。一度、新潟へ言ったのも覚えている。帰りの駅ではお巡りさんにリュックサックの中身を調べられた。





朝まだ外が暗いうちから、母は男の人のように働いた。妹を背負い、大きな風呂敷包みを抱え、遠くの方まで点在する農家の一軒一軒に売り歩いた。


その頃の農村の家では、まだ電燈がなかった。誰かの世話で、缶詰の空缶を利用して作ったランプを売り切らないと帰れないのか、いつも夜遅かった。


いくらの儲け、口銭でもなかったのでは。農家の人から物々交換を求められてか、帰りは朝よりも大きな荷物を背負い、疲れて帰った。


食事はさつま、じゃがいも。水は井戸水だったり、井戸水が出ないときはどこの家も雨水を貯めて置いて飲み水にした。

裸になっては、のみ、しらみ取りをよくした。いろいろな伝染病が流行し予防注射やDDTの散布を体中、頭から何度もした。一列に並んで自分の番を待つのが恐かった。


皆、父、母と一緒なのに私はいつも一人だった。

貨物列車からいつの間にか、気が付くと船、貨物船に乗っていた。


時々、よく眠っているのか、思い出しても途中途中が切れて繋がらない。

船底にぎゅうぎゅうに詰められ、誰も横になることを許さない位だった。





乳を飲みながら、出ないのか妹は時々泣いた。


だんだん子供の人数が減っていた。大きな釜(五右衛門風呂)からバケツにシャベルで、すくっては何か移している、運んでいる。


私の方にも来た。


小さい器を持たせ、少しずつ皆に分けてくれた、コーリャンだった。


赤い色がついていた。ボロボロしていた。箸で?スプーンで?どうして食べたか分からない。何時も空腹だったのに、おいしい食べ物ではなかった。





船中でも、人が死んだ。


海の中に投げ入れるのも見た。妹が又、泣いている。


日本の港に着いたとき、引揚げ船の上陸だ。


私は母に手を引かれ、皆に押されるように降りた。出迎えの人、抱き合って泣く人、いろいろな人でごったがえした。

母のところへは・・・ 私のところへは出迎えの人は誰も寄って来なかった。


モンペ姿の叔母さんが大勢で私たちに、おにぎりを分けてくれた。


私も一つ貰った。小魚を混ぜた醤油めしの私の手には大きな大きなおにぎりだった。すごくおいしかった。生まれてはじめて食べるおいしさだった。





港から自分の親、兄弟の元へ向かって汽車に又乗った。


貨物列車ではない一応、客車だったが、窓には全然外が見えない位に板を釘で打ち付けてあった。中は身動きはおろか、これ以上一人も無理という位乗っていた。


母は不安げな顔をしていた。妹が時々火のついた様に泣いた。


私が小便の時、母の頼みで移動もできない混雑の中、叔父さんたちの頭の上を、叔父さんたちに手渡しされ、どこか知らない叔父さんに抱かれ連結器の所で小便をさせてもらった。


その時、上を見たら乗り切れない人が汽車の屋根に乗っていて、その叔父さんたちの手や足がいっぱい見えた。





何時間も何時間も乗った。急に騒がしくなった。


板と板の細い隙間から外を見てびっくりし、泣く人も大勢いた。





広島・・・見渡す限り焼け野原だった。何時までもどよめいていた。



母は、戦時中の昭和20年1月に、満洲の奉天で生まれた。

 

母が生まれてまもなく、祖父は「根こそぎ動員」で関東軍に召集された。

 

終戦直前、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、突然満洲に侵攻してきた。

 

そして、祖父は満洲の牡丹江で戦死した。

 


 

 

祖母は二人の子供をつれて命からがら、満洲より引揚げてきた。

 

二人の子供とは、私の母と伯父である。

 


 

 

以下の手記は、伯父が幼い母に残した当時の記憶を綴ったものである。

 




 

 


 

 


 

 

私(一則)は寝ていただろうか?
 

 

暗闇の中、大勢の人が騒いでいる。半分寝ながらも、段々目が闇に慣れてきた。

 

周りの状態がはっきり見えてきた。貨物列車が駅もない家もない野原の真ん中に停まっている。

 

そして、私は妹(かく子)を抱く母に身を寄せて、貨車の中に乗っていた。
 

 

水の配給だ。皆、手に手に何か容器を持って群がっていた。

生まれて間もない妹を抱く母は、二、三の注意を言い聞かせ私に水筒を手渡した。

ののしり、わめき、多分水の量が足りなかったのだろう。我先を争って、皆必死だ。

 

列車から少し離れた黒山の中に押し潰されそうになりながら入っていった。みんな大人ばかりだった。

 

知らない叔父さんが水筒をいっぱいにしてくれた。

そして、やっと黒山の外へ出て帰ろうとした時、母の場所を見失ってしまった。

 

 

闇に目をこらしても・・・

そして、恐くなり・・・

「一則!」と呼ぶ母の声を耳にした時、私はとうとう、大声を上げて泣いた。

胸に名札がついていたのも覚えている。



 

そして汽車は暗闇に向かって再び動き出した。

その時、私と同じ四、五才の子供がいっぱい置き去りにされた。

 

走る列車のすぐ脇に、また向こうの方に、点々と助けを求め、必死で火のつく様な大声で泣き立ちつくすばかりの子供等を残し、その間をゆっくりゆっくり走り抜けた。
 

 

引揚げ者の全部がお年寄りと女と子供ばかりだった。

 

現地中国人の日本人に対する憎しみの中から起きるいろいろな危険の中を隠れ逃れての引揚げである。

 

現地人に見つかれば殺される、夜走るのもそれだと後に聞いた。

皆自分の身を守るのが精一杯で、子供を置き去りにするのも、当然の出来事のようだった。

いつ、何処から、何時に、何時間、どうして此処に、どこへ行くのか、全然わからない。

 

母のきれいな長くやさしい髪の毛が、男みたいにいつ切られ、どうして坊主なのかわからない。