成人してからは、普段から強くない程度のバレない薄いメイクをしていたりする。

基本的には、自分に髭が生えていることに嫌悪感を抱いている。

自分の顔が、メイクをしてウィッグを被ると、生前の母の若い頃によく似ていることが、少しだけ嫌だったりもする。

25歳頃から、本当に少しずつではあるが、ガッツリとしたメイクもするようになった。

 

未だに、『男なんだから』という旨の言葉を言われるたびに、深く傷ついて悲しくなる。

生まれた体の性別が何だというのだ。

 

私は、私だ。

 

『男』という一括りにしないでほしい。

 

抑々、私は自分を男だと思っていない。

 

かと言って、女性に同性の感覚を持っていても、女だとも感じていない。

女性寄りだから、女性としての扱いをされると落ち着くし、行動委原理もやや女性の其れと同じなだけであって、男として扱われても、男性に急接近されたり、体を触れられたりすると不快感を覚えるのであって、所謂、『中性』の其れであることに変わりはない。

 

私は、そのことで威張る気も驕る気も更々ない。

求めるのは、自由に自分を表現できること。

自分のありのままの姿でいられること。

ただ、それだけである。

 

 

『気持ち悪い』という言葉を言われ慣れてはいるが、意外なことに子どもは疑問を持つ程度で、この価値観については何も知らないだけなのか、特に不快感を覚えないようだ。

大体20代までが、こういったマイノリティに対して不快感を覚える、若しくは人によって反応を変えるようだ。

決して状況で変えるわけでも無いらしい。

ということは、大人の方が、子どもに差別意識や差別用語・蔑称を教えたり、目の前で平気で発言したりしているということになる。

これは、小学校低学年頃に読んでいた、育児系の某月刊雑誌に載っていた漫画の一描写にあった、『子どもは大人の陰口や悪口を、『言ってはいけない』という教育との矛盾で冷静に見ていて、悪口を肯定的にとらえるようになる』という教訓を平気でやってのけているのだろうと、実は幼少期から冷静に思っていたが、実際にそういうことだろう。

要は、指さして『オカマ』などと他人を侮蔑しているのを悪いことだと言いながら、自分は陰で同じように違う人を平気で侮蔑しているのだ。

 

私は、この事実を未だ子どものような感性のまま見ているのだが、この所為で深く自分勝手に傷付いているのだと、それを理解できているかどうかを事実として判定しないまま、その誰かに相談して冷やかしの種を渡しているのだと、思うと悔しかった。

同時に、子どもには他人を侮辱することを出来ることなら、理解した上で侮辱という行為に嫌悪感を抱いて育ってほしいとも思った。

決して、純粋無垢のまま、悪意を知らないまま、育ってほしいとは思わない。

寧ろそれは、悪いことを知らないまま平気で善行と思い続けて悪事に手を染めることを肯定することになる。

自分で考える頭脳や知性を阻害することになる。

私は、結局退職するまで隠し通したが、今思えば、逆に周囲を敵に回して、カミングアウトして、多様性を目の前に知らしめるべきだったと後悔している。

 

今でも、青髭に悩まされながら、メイクをして外出しては、マスクの助けもあって見知らぬ人に明らかに女性と間違われて声を掛けられる日々を過ごしている。

 (目元は、出勤時以外はピンク系のアイシャドウを入れているので、自分でも自分の体の性別を見間違えることがあるぐらいに、ガッツリとした感じのメイクにしている)

元々は、乳児期に蒙古斑が無かったほどに真っ白な肌色をしていて、おまけに身内が将来を嘱望するほどの男の子っぽくない顔立ちだったので、周囲からは揶揄われまくり、一部の男の子からいじめられ続ける毎日だった。

お陰で、私の行動は極度のストレスから周囲からは不可解を極めた行動を繰り返すようになった。

成人してからも、アイドルや女優さんを見るたびに、女性像としての理想と憧れから没頭するようになるのを、『変態』とか、まるでそういう性癖であるかのように言われるので、自分のことは顔を明かさなくて済む、ネット上の世界でしか打ち明けられていない。

例え年下だろうが、憧れや尊敬を感じて、それを目指そうとしたり、純粋に『カワイイ』とか『ああなりたい』という感情を抱いたりするのは、男性を中心に過半数の大人にとっては間違っていることらしい。

 

幼児期から、年下の女の子であっても、可愛かったり容姿に羨んだりすれば、何かを真似したり、秘訣を聞き出そうとしていた。

現に、初恋の子に対しても、髪を括っているのが可愛いと思ったので、必死で髪を伸ばそうとして、前髪を括ってみたりしていた。

ただし、親はそれを遊び異常には認めなかったので、ヘアゴムを買ってはもらえなかった。

小学生の時も、漫画で男の子がカチューシャをしているのを見て、元々カチューシャをしたかったので、欲しがったけれど買ってはもらえず、笑って馬鹿にされた挙句、叱られるだけ叱られて終わった。

(クラスでは、クラスメイトにカチューシャをされて遊ばれていたので、その間に堪能して終わっていた)

 

ここまで聞けば、私が『女装男子』の様に思われるが、確かにレディースを好んで着ても、完全に女装をしたいわけではなくて、それなりに似合う着こなしをするように心がけている。

服やメイクはピンクを好むが、『似合うね』と言われる以上には、それなりの着こなしをしようと考えている。

代わりに、女性としてみた際に『ボーイッシュ』と思われる感じが良いとは考えている。

女性として間違われる分には良いが、完全な女性扱いを受けようとは思わない。

ただ、女性としての一面も持っていることと、同時に男性ではない、また違った性別観を持った人物であることは理解してもらいたいとは、常日頃から感じていて、どちらかといえば女性と価値観が合いやすいことは周囲に承知してもらいたい。

秘かに、同じような人達がテレビなどの表舞台で活躍しているのを見て、凄いと純粋に感じる上、羨望と好意に似た願望を抱くことが多々ある。

その人たちは、やはり苦労が多かっただろう分以上に、恵まれて幸せなのだと勝手に感じている。

 

『私が本当はどうなりたいのか』

 

その答えは、自分でも分かっていない。

理解されたい以上に、模索している最中だ。

何故なら、自分のスタート地点が、『今から』だからである。

周囲に理解を得られなかった、押し通すことができずに妥協と道化で塗り潰し通すことを選択した弱さによって招いた遅延である。

30歳を目の前にして、自分の中の『未成熟な幼児にも似た子ども』の部分が、ようやく躍動して、変に達観してしまった自分を自己修復しようとしているのだ。

職場では、『女子力高い系男子』で通ってはいるが、『男子』ではない本来の自分を、『男性』『Xジェンダー』という括りよりも本質である『本来の自分』を気負うことなく自然で演出して良い場所を、自分で今一度築く努力をしたいと思う。

私の体験談

 

それは幼少期から脈々と続いていて、未だに解決しない悩みである。

 

私は、生まれ付きの不定性で、女性寄りの性自認を持っている。

乳児期から女性の行動に興味があって、メイクをしたり、人形遊びをしたり、ぬいぐるみとずっと一緒にいて遊んだり、ままごとをしたり、とにかく女の子っぽい遊びが中心だった。

見るアニメも、『セーラームーン』や『キューティーハニー』、『あずきちゃん』や『秘密のあっこちゃん』が中心で、どちらかと言えば戦隊ものや男の子向けは『ウルトラマン』以外は興味が無かった。

周囲から『男の子だから』とか『女の子だから』と言われても、未だに十分には理解はできない

遊び相手も、男の子よりも女の子が中心。

男の子は殴ってくるし乱暴だから怖くて仕方がない。

その代わり、女の子とは、今思えば同性の感覚で、好きになり得る異性と言うより友達感覚。

男の子と一緒が嫌と言う訳じゃないけれど、お友達としては女の子との方が、気があって落ち着いて、リラックスして過ごせた。

それでも、生まれついた性別が『男』。

見た目は、幼少期は中性的に近い見た目でも、服装もグループ分けも、何もかもが男の子。

女の子から気味悪がられたり、『男の子だから、男の子と遊んだら?』と言われたりして、酷く傷ついたし、どんどん落ち込んでいく毎日だった。

 

小学生に上がれば、自分で言うのも変だけれど、見た目の良さもあってか女の子に取り囲まれることが多く、虐めに遭うことの多かった日常で救いだった。

しかし、その取り囲みも『男の子』として……。

自分は同性の友達という感覚で一緒に帰ったり、遊んだりしていても、『カップル』という括りと固定概念で見られて、結局相手から敬遠されたり、周囲から揶揄われたり、時には逆に好意を抱かれたりして、非常に困っていた。

虐めの原因は、『体が大きい割に落ち着いていて大人しいから』、『基本的に女の子と一緒にいて、男の子らしくないから』、『勉強しないし鈍いくせに、科学に異様に詳しくて変に頭が良いから』というものだったと、大人になってから周囲から聞く情報も合わせて根拠を持って認識している。

要は、男の子なのに変に落ち着いていて女の子といるような軟弱者だから、気持ち悪いし仕返しもしないから、徹底的に虐めてやろうという、小学生のみならず日本社会の悪い思想だ。

本当は、ガーリーじゃなくても、男の子っぽい服装よりは女の子でも通用するようなカワイイ着こなしか、いっその事パンツスタイルでカッコいいガールズウェアを着たりして、髪も少し長めにカッコカワイイセットをしたりして、自分を楽しみたかったけれど、我慢して、筋肉を鍛えたり、女性っぽくなっていく体を必死で隠したり、敢えて恥ずかしいのを我慢して上半身裸で歩いてみたり、髪を短くしたりして、自分が傷つかないために『男の子』を演じ続ける様にした。

 

中学に上がっても、結局言われる言葉は『オカマ』。

仕草や言葉の所為だった。

手を口に当てる癖と感嘆の際に発する声や相槌が、どちらかと言えばJKやギャルに近い。

自分を指す一人称も、殆どの場合が『ウチ』。

体を鍛えて、見た目を男にしてみても、内面は儘。

故に、部活で丸坊主にしてみて、誤魔化してみていた。

意中の女子も、聞かれるたびに複数人答えていた。

でも、本当に好きなのは一人だけで、後は友達と思っているひとばかり。

本当は男の子も好きになってみたくて、他の学校とかで一目惚れしそうな男子を見つけても、結局は日頃されている所業が頭を過って、一気に冷めてしまう。

結局、告白したのは幼少期から思い続けていた初恋の相手だった。

知性的で、優しくて、頭の良い彼女に、受験を理由に呆気なくフラれた。

だけど、それでいいと思った。

少しだけ、心の靄が薄くなった。

 

 

高校に上がっても、心は晴れなかった。

パンセクシャルを『バイセクシャル』としてカミングアウトしても、冷やかされて深く傷ついた。

高校からは、いつかは自分らしさを取り戻そうと思っていたのに、やはり不可能だった。

女子を中心に数人は、理解を一定度示そうとしてくれた。

でも、言動を見て周りが未だに『オカマ』という。

私にとっては、『自分のままで、何も演じることなく自然な自分でいたい』、ただそれだけだったのに……。

唯一、自分でいられたのは、当時付き合っていた子と二人で、女子会みたいなことを略毎日やっていた瞬間だけだった。

でも、そこでは男としていなくちゃいけない気がして、少し窮屈さを感じてもいた。

 

 

18歳で、難病に罹り、自分を見つめ直すことができた。

『成人したら、何処かで演じるのを止めよう』、そう思い直すことができた。

入院中に散髪も出来ず、髪がぼさぼさに伸びていた頃に、女子に合流して喋ったり、時には遊んだりして過ごした。

髪も、トリートメントしたりして切らなくても綺麗に見えるように手入れをするようになった。

同時に、ヘアピンをしたりして女の子っぽい、自分らしい髪形を楽しむことも覚えた。

写真を撮られて、揶揄われたこともあって、傷つきもしたが、それ以上に自分らしさを見た目から取り戻すことができることを実感すると、一気に幸福感に満たされた。

二十歳を過ぎた頃に、メイクを覚えて習慣付けもした。

偶に女の子と間違われることも増えてきた。

相手は謝ってくることが多いけれど、内心では嬉しかった。

いい加減、『男』として生きることに疲れて嫌気が差していたのだ。

可愛くなくても、女性としての側面を持つ自分を、ただ隠すことも批判されることもなく、本当に自由で普通に生きていたいだけなのだ。

 

だけれど、現実は甘くなかった。

始めた仕事が、児童福祉の仕事だったのだ。

好きで始めた仕事が、逆に自分を腹に苦しめた。

 

『男で生まれた以上は男でのみ在り続けろ。それ以外は許さない』

 

そういう世界だったのだ。

未だに、前職の同業者には、出会っても打ち明けられない。

少しでも女性の面が出れば、許容してくれる保護者が殆どではあるが、それでも職員は、『性差』と『男らしさ』を強制してくる。

場合によれば、酷く根拠もなく批判してくる。

男女ともに、年が近いのもあって子どもから友人感覚で接してきて、それに応えようとしても、男の子とのみの男の会話と遊びを強要される。

女の子に誘われて、幼い頃にやっていたように人形遊びをして相手をしていたら、職員が異常なまでに突き放そうとする。

私には性別の壁や柵が理解できないし、抑々の概念は無い。

寧ろ、性別で分けようとすることに対して愚かさすら感じている。

だけど、世の中は陰か陽かでしか判断できない。

陰陽一体とか、スペクトラムとかは受容できない。

この矛盾を、どうこうしようというつもりはない。

それでも、遊びだったり、交友関係だったり、服装やメイク、ファッション、趣味嗜好なんか、人其々であるのと同じように、性別にとらわれないでほしいと強く思う。

 

未だに街を歩いたり、店で他人とすれ違ったりする度に、私の見た目の不自然さからか、『気持ち悪い』、『キモイ』と言われることが多い。

ただし、私はファッションというより、生まれ付きの性自認から来る、ごく普通の格好や趣味嗜好なので、悪口を言われたところで変わる気もないし、変えられない。

唯々、傷ついて摩耗していくだけである。

今日、性観念についての理解や変容が、日本では若い世代を中心に大きく変化を続けている。

だからこそ、いつかは女装も男装も、ゴスロリも、コスプレも、当たり前の光景になる……そんな社会になって欲しいと強く思う。

『カワイイ』

『かわいい』

『可愛い』

『可哀い』

どれも人や物に対して使う

プラスの形容詞

万能で便利な誉め言葉

 

でも、発言する度に

無責任に感じる

 

誰かに言われたところで

誰も傷付かないけれど

後になって、じわじわと傷付いていく

一人一人の像と噛み合わなくなって

心をどんどんと浸食していく

その癖に、言われた人は

その形容詞にしがみついて

勝手に浮かされていく

 

 

『可愛い』

この言葉の語源は

『可哀相』

これを古語では

『かわゆし』

『めぐし』

どれも同情の言葉だ

今では可憐で愛おしいものを表すが

これを発言している人を見ると

本当に褒めているのかと

疑心暗鬼になる

 

そんな私も

『可愛い』を多用する

現代に生きる無責任な人だ

言っておけば

その対象に対して感じたマイナス面を

良いように変換した気になって

相手への罪悪感を薄める免罪符の様な気がしている

相手の進歩を緩める

競争社会にも便利な言葉なのかもしれなくもない

口にした自分だけを安心させる

なんて狡い言葉だろう

小狡くて

小賢しくて

小悪魔的な

甘くい毒のある言葉

 

 

『かわいい』

『カワイイ』

『可愛い』

『可哀い』

どれも人や物に対して使う

マイナスの言葉

相手を傷つけないように

自分だけが優位に立つ言葉

 

その分、口にする度に

責任を負わなければいけない

十字架のような言葉

 

言われたときに疑心暗鬼になりつつも

根拠のない多好感に包まれる

自分が言われた分

少し愛おしくなれる

肯定してもらえた気になって

ほんの少しだけだけど

生きる活力になる良い言葉

 

言われたいがために

理由もなく

無意識に誰もが求めてしまう

皆が生まれ持って素養を持つ

自己肯定感の塊のような

小綺麗で醜くて

それでも美しい活力のある言葉だ

腰の病は幾つもありますよね。

 

ぎっくり腰、椎間板ヘルニア、仙腸関節炎、分離症、腰椎すべり症、腰椎症、腰椎圧迫骨折、腰椎変性すべり症など、様々な腰痛を伴う、深刻な病が多く知られているだろう。

 

腰に違和感……なんてことも多い。

 

これって意外と、他人に相談しても共感してもらえない。

 

なんだかんだ言って、症状は人それぞれで、同じ腰痛であっても痛みや感じ方、症状の出方や切っ掛けも千差万別だ。

 

しかし、こんな腰の病み方は、俺ぐらいのものだろう。

 

 

或る日、俺は段ボールを運んでいた。

 

引っ越しの荷解きをしていたのだ。

もう何か月も経過していて、無精していた分、精を出して一生懸命にやらなければならないのだが、その事情と言うのも、荷ほどきせずに物を使っていたせいで、部屋中が散らかって、小綺麗に足の踏み場を失っていた。

 

「結構きついな…。」

 

少し重い段ボールに苦戦していたせいで、滔々腰に来てしまったようで、軽く腰に手を当てがったところ、違和感を覚えた。

 

「あれ?」

 

そのあまりに異様な感覚に、自分の腰と臀部を触りまくった。

 

「あれ……これ…俺の腰か?」

 

骨盤辺りを触ると、形状がいつもと違う気がした。

まるで、他人の腰のような触感で、感覚神経由来の感覚は紛うことなく自分なのだが、指先から伝わる其れは触り慣れたものではなかった。

 

「なんだよ……これ、ちょっと病院へ行って来よう。」

 

普段よりも重く、違和感のある腰を上げて、少し遠方の罹り付けの整形外科へ足を運んだ。

 

 

「先生……俺の腰は一体どうなってるんでしょうか?」

 

俺は、かかりつけ医の先生に、焦り気味に問いかけた。

 

「うーん……確かに形状も違いますし、何よりやや側弯症気味だった腰椎も取り替えたように解消されていますね……。」

「え……?」

「骨盤の方も、男性にしてはやや開き気味だったのも、現在では新品同様に綺麗な形になっています。」

 

そこまで言うと、先生は刹那考え込む表情になり、難しい顔で答えた。

 

「ん~~……これは、ひょっとしたら『引っ腰』ですね……。」

「あー……はい、この間引っ越しをして、今日荷解き作業をしている最中に違和感があったんですよ。」

 

原因を言われたのだが、最初の問診で答えたことだったので、改めて答えた。

しかし、先生は首を横に振った。

 

「そうじゃなくて、病名のことですよ。」

「はい?」

「あなたの病名は、『引っ腰』という珍しい症状です。」

「ああ……先生、冗談がお上手なことで。」

 

冗談だろうと思い、笑って返そうとしたが、当の先生の方は表情が真剣なままだった。

 

「いやいや……他の同じ症状の方に伝えても、同じ反応しかしないんですよ。」

「え……じゃあ、本当に俺は病気なんですか?」

「寧ろ、良いことかもしれはしないんですが、これは人によっては繰り返す場合があります。」

「具体的に、どういった症状なんですか?」

 

こちらは必死だったので、より焦った表情になってしまった。

先生の方は、和ませようと、あっけらかんとした顔で答えた。

 

「簡単に言えば、酷使されてガタが来た腰回りの骨格が、何らかの方法で何処かへ物理的に移動してしまって、代わりに新しい腰骨か他人の同じ症状の腰が入れ替わるという症状です。」

 

俺は、「それは駄洒落なのでは」と後になって思いはしたのだが、レントゲン写真を見ても、それが証明されるだけで、話を愕然と聞いていた。

 

「治るんですか?」

「治るも何も、この症状に罹った後、繰り返すのであれば処置が必要ですが、不便や違和感があるのは最初だけで、今回だと快方になっているので心配無用…寧ろ喜んでください。」

 

先生は笑うように笑顔で説明をしてくれて、俺自身も前向きに考えることに決めた。

 

「腰も若返って、痛みなどの不便から解放されている筈なので、これを機に腰の方……いえ、御身体全体を大事になされてください。」

「先生……ありがとうございました。」

 

診察室を出ると、俺は生まれ変わったような気分で夢見心地で待合室に座り、会計を済ませて帰宅した。

 

 

あれから暫くの間、俺は腰を中心に無理を成るべくしない様に、適度な負荷を掛けながら健康的な生活を送っていた。

体が心から生まれ変わっていくような感覚と共に、人生全体が上手くいくようになったことで、楽しい毎日を送っている。

 

しかし、それ以上に、以前の二十数年世話になった生まれてこの方、ずっと支えてくれていた腰骨に感謝だけでもしたくなった。

そこで、直接その腰骨にお礼が言いたくなり、素っ頓狂な話だが、探すことに決めた。

 

最初は、あらゆる人の腰を見て回ったが、流石に女性の腰まで見ていると、下半身の関係ない部分に視線を感じるので、不審者扱いされて職質を受けることになり、この方法は止めた。

次に、先生に訊くと、どうも他人の腰に移ることの方が稀だという。

曰く、山か谷を何処か超えたところに集まっているのではないかと言われているらしく、現在調査中とのことらしい。

そこで、独自に調査を進めると、どうやら俺の住んでいる周辺では四国八十八ヶ所の札所で最も近い山か、石鎚山を超えた辺りに集まって、固まって隠居していることが分かった。

しかし、ここからが大変だ。

何処まで行ったのかが分からないのだ。

探すには、同じく回るより他ない。

 

自分の軽はずみな行動力に、正直公開をしている。

一周にプラスαで寄り道をするのだ。

こんなに骨が折れることは無い。

 

腰の骨が折れる前に、俺より先に腰が悲鳴を上げている。

足腰よりも先に、心が折れてしまったが、元気で若い足腰は悲鳴を上げながらも前へと歩みを止めない。

『パンダ』。

 

それは白黒の物を表す代名詞でもある。

 

元来、日本でパンダと言えば、食肉目クマ科のジャイアントパンダか、レッサーパンダ科を含んだ総称である。

 

色だけで言えば、パトカーも『パンダカー』と、屡々呼ばれる。

これは、割と有名だと思う。

 

もしも、そんなパンダばかりが消えてしまったら?

 

私の不思議な話をしよう。

 

 

或る日の晩に、私は不思議な夢を見た。

 

「お前が望むのなら、この世にあるもののうち、一つがなくて代わりのものが働いている世界に招待しよう。」

 

そう、真っ白な長い髭を蓄えた、如何にもな神様風の老人に言われた。

 

いきなり言われても、困ったもんだと正直に思った。

私はただ無表情で、その神様を見つめた。

無言で無音の時間を約30分経過したところで、神様の方から何かが折れる大きな音が聞こえた。

 

「もうヤダ~!…マジ耐えらんないから、早く答えてよ!」

 

いきなりギャル風に話し始めたものだから、本当に気持ち悪いと思って、一瞬引いた。

 

「答えるったって、いきなり言われても難しいです。」

「じゃあ、後3分考えさせてあげる。」

「いやいや、30分考えて出ないものは出ないですよ!…今日のところは、お引き取り下さい。」

「何、それ~!……マジぴえん(´;ω;`)…寧ろ、ぴえん通り越してぱおん🐘」

「ギャル語の意味わかってます?」

 

明か老人の、しかも老父の必死のギャル語に、気味悪さを覚えて近寄りたくは無かった。

それでも、無視は可哀相なので、一応突っ込んであげた。

 

「ん?…この間、濃くて物の怪のような化粧をした若い子と、水平と同じ格好をした可愛らしい少女に、今流行っておると教わって使っていたのじゃが、間違っておるか?」

「いや、逆に正解過ぎて気持ち悪かったので……。」

「儂って、そんなにキモイ?」

「……『儂』っていう一人称と、軽いギャル語とJK語がミスマッチです。」

「キモイって、これ以上言うと、激おこスティックげきオコスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム(神)だぞ☆」

「おじいさんの見た目で☆付けないで!」

 

あまりのミスマッチで身の毛が弥立ち、思わず悲鳴を上げた。

 

「なら、そちらが強く思い浮かべれば、姿を変えてやろう。」

 

言われて、この状況を打破すべく、思いっきり今のJKの姿を浮かべた。

すると、目の前に仕草がギャル臭い、イマドキJKが立っていた……が、元の姿を知っているので、イメージがチラついて、少し胃もたれを起こした。

 

「……で、本題は?」

「そうだ……白黒のもの……特にパンダを消して欲しい。」

「良いだろう…ついてきなさい。」

 

すると、一瞬で目が覚めた。

しかし、世界が変わったようには見えない。

 

「なんだ、夢か。」

大学へ向かおうと、ルーズリーフを手に取ろうとした……が、無い。

何処にもないのだ。

 

「あれ?……ノートってか、本もない!」

 

慌てて、うっかりリモコンを踏んでしまい、テレビが着いた。

すると、番組はカラフルになっていて、アナウンサーはカラコンを入れたみたいな目をしている。

 

「続いてのニュースです。

昨夜未明、またも98歳男性が外を徘徊し、消失しました。

この男性は、白髪を染めていなかった模様で、白と黒が隣り合ったときに消失現象が起こることを、若い時から理解できていなかったという親族の証言もあり、市は改めて注意喚起をするとのことです。」

 

聞いて、唖然とした。

タンスを開けると、実際に、お気に入りの服や下着が、白黒のものや隣り合っていただけのものまで、綺麗に消えていたのだ。

 

「どうしよう……ズボンやスカートは、マジで全部消えてるんだけど…。」

 

モノトーンで揃えようとして、実際には、もっと軽い感じに想像していたのだが、本気で徹底的に白黒を焼失させてくるとは、夢にも思っていなかった。

仕方がないので、この日は超ぶかぶかなピンクのパーカーをワンピースに、水色のワイシャツを腰に巻いて出掛けた。

 

 

「……お~、亜弥姫!……一緒に上野動物園に行かない?」

 

4年来の親友の都子に動物園に誘われた。

このコースだと、いつも決まったコースを歩く。

 

「いいね~!……じゃあ、パンダの前で集合ね!」

「え、何言ってんの?」

 

都子は、驚いたような顔で私を見た。

 

「あんた、パンダは危険動物で、今や色んなものを巻き込んで消失してるのよ⁉」

「え⁉」

 

いつの間にやら、パンダは消えずに、あらゆるものを消失させる存在になっていた。

 

「え、何時から?」

「……あんた、昨夜の老人と同じだね?……パンダは、絶滅しかかっていたけれど、生まれるたびに進化を続けて、消失しないために、ある程度実態を維持できるようになった分、周囲を巻き込んで消失するようになった、ホッキョクグマよりも危険な存在になったのよ!」

「まさか、常識?」

「そう、常識!」

「でも、何故、白熊は消えないの?…所々、白黒なのに。」

「アイツらの毛は透明だからノーカウント。」

 

 

そう言うと、「もう、今日は良いや」と、呆れ顔でキャンセルされた。

 

 

改めて、心の余裕ができたところで、周囲を観察すれば道路のアスファルトまで色がカラフルになっている、

タイヤも黒ではなく、彩鮮やかになっていて、その分、風船のような質感となって、あちこちでパンクを繰り返していた。

 

「白黒がないと、こんなに不便だなんて……。」

 

案外簡単に生きられるかもと、安直に考えていた自分を後悔した。

この世の殆どのものが、白黒の物質によって支えられている。

ひょっとして、黒は収縮色だから、ブラックホールの様に周りを巻き込むようになったのだろうか。

白は逆に膨張色だから、効果も逆になって、まるでアンチマターのような存在になったのかもしれない。

記憶からも、大事な思い出が次から次へと消失していく、しかし、大切だったパンダを前にした家族のホームビデオが記憶を掠めた。

 

「あ……ビデオ!」

 

私は急いで実家へ帰った。

 

 

帰ってみると、更地だった。

旅芸人だった父の白粉が原因で、消失事故に遭ったらしい。

悲しくて、涙が出た。

ホームビデオは当然消えていて、何もかもを、まるで連鎖パズルの様な要領で全てを失ったのだ。

よく考えずに、適当に、安直に考えた結果が此れだ。

 

「おい、ジジーッ!……私に何か恨みでもあるのかーッ!」

 

怒りに任せて叫びまくったところで、世界が歪み、ベッドの上で目が覚めた。

このとき、夢だと安堵した。

家族のホームビデオも、何故か手元にある。

そう言えば、持って帰ってしまって、弟と一緒に見てたんだった。

中には、都子も入っているので、談笑して過ごしていたんだった。

ふと、布団を見ると、妹と都子の輪郭を残して、姿が消えていた。

 

「あれ、都子?亮喜?」

 

そして、私は不意に鏡台を見て気付いてしまった。

私が消えていたのだ。

 

「先の二人は、お前が消えることを望んで、替わりに兄に作り替えようとしておるぞ?」

 

神様風の老人の声が聴こえた。

そう言えば、瑞希と都子は、私を矢鱈と男扱いしてきていたことを思い出した。

私は、ホームビデオを掛けると、そこに私ではなく男の姿になった自分が写っていた。

後ろで、パンダが不敵に笑っているように見えて、パンダに殺意を覚えた。

幼い頃に思い浮かぶものと言えば?

 

そう言われて思いつくのは、大半は玩具ばかりかもしれない。

中には、お気に入りの毛布・タオルケット、ファーストシューズ、哺乳瓶、お弁当箱、大好きだったお菓子、絵本、戦隊ヒーローや少女アニメなど、色々あるかもしれない。

でも、幼少期に一日の大半を共にするのは、家族よりも玩具が多い気がする。

 

特に、『ぬいぐるみ』は男女問わずに、乳児の頃から始まり、中には大人まで一緒に生活するという例もある。

 

そんな私も、成人してからも、ぬいぐるみにお世話になっている。

鞄に付き、寝室でも何体か御出迎えしてくれる。

 

しかし、ぬいぐるみは意外と高価なものだ。

ちゃんとしたものだと千円は下らないことが多い。

その割に、ボロボロになるのも早い。

何せ、寝るときに抱いて寝るだとか、何かにつけてきつく抱きしめていることがあるからだ。

 

その『ぬいぐるみ』は、本当に愛でられるだけの、ただ抱きつぶされるためだけの、人によって作られるだけの物なのだろうか。

それだけでも十分なのかもしれないが、それだけと言われると寂しい気がしなくもない。

ぬいぐるみが大好きなところに、効率厨が入ってるから、余計に何かプラスαのメリットを求めてしまう悪い癖が働く。

 

なので、ぬいぐるみを必死で研究し尽くした。

自分でデザインや経済効果、心理学的視点や素材・原料などの化学的視点など、あらゆる観点で狂気の沙汰と言われるほど研究し尽くそうとした。

それでも答えは見出せなくて、滔々残すところ生物学的観点のみが残ってしまい、そこで改めて素材や原料を生物として県空士用と考えた。

 

綿はポリエチレンやナイロンじゃなくても、綿花があるし、他にもリネンやシュロでも応用が利くはずで、動物的なものだと羊毛や絹綿、羽毛が代表的だ。

表面に来る布も、同様で、動物素材では豚革や牛革もある。

取り敢えず、繊維であれば何でも大丈夫なのである。

そう考えて、素材を植物に限定して、更に考察を進めるうちに、荒唐無稽にも面白い事を思いついた。

 

『これって、植物の実にそっくりではないか?』

 

居ても立ってもいられなくなって、直ぐにフィールドワークに打ち込んだ。

 

世界各国、ありとあらゆる場所を駆け巡った。

アマゾンの密林、アフリカのサバンナや山脈地帯、南極、オーストラリア......etc.

しかし、幾ら調査しても発見は無く、考え直して歴史から見直すことにした。

 

調べると、ドイツのシュタイフ社のリチャード・シュタイフ氏が、モヘア地というアンゴラヤギの毛が原料の布を使い、手足が動くように手足と胴体を別々に作り、5つのジョイントで繋いだものを作ったのが発祥で、テディベアが始まりだった。

テディベア自体、直訳すれば『野生のクマ』なのだが、名前に相反して愛らしい見た目なのは今昔変わることは無い。

しかしながら、熊を見て可愛らしいと思った→だから人形を作ろう→上質な布で簡単に作る→パーツごとに作って可動部を作り出す、という具合は、あまりにも不思議に感じてならず、考え事をしながら近くのテディベアに目が行って、ある仮説に至った。

 

『ひょっとすれば、何らかの植物の果実からヒントを得たのでは?』

 

事実として、テディベアを各パーツで分解して見てみると、植物の実に似ている。

腕に至っては、ナスや豆類の其れに酷似している。

胴体なんかは、ヒョウタンやヘチマなどのウリ科の果実にも見える部分がある。

植物側を考察すれば、フォックスフェイスというナス科の植物のように、果実が動物の頭部の形に似ている植物も数多とある。

つまり、ドイツに行って、自然を探索していれば何かに行き当たるのではと考えるようになった。

 

 

ドイツの秘境を回り、フンスリュック・ホッホヴァルト国立公園の奥地を探索しているときだった。

このとき、一緒に回ってくれていたヨーロッパの生態に詳しい生物学者が驚いたような声を上げた。

「あっ、これは何だ⁉」

彼の指さす方向を見ると、私自身も目が点になって、何を見ているのか一瞬判断が付かなかった。

そこには、クリスマスツリーのように、ぬいぐるみが木から生っているように、枝にぶら下がっているのだ。

「ドイツって、こんな文化があるなんて知らなかった。」

「いいえ、こんなところまで普通はきませんよ!」

「じゃあ、これは?」

「近付いてみましょう。」

その木に接近していくほどに、奥の方にも同様な木が群生していた。

よく観察すると、ありとあらゆる動物の形のぬいぐるみがぶら下がっていて、テディベアのパーツのような実が生っているものまであった。

「本当に、何これ?」

「……取ってみますか?」

本来は駄目な筈なのに、彼は調査のためだからと言い訳をタラタラ述べながら、私を共犯者に巻き込んだ。

私自身も研究したいがために調査に来ているのもあって、拒否権はなかった。

手を伸ばして、実を手に取ってみると、若い実は固く、本当にはと同じ色をしているが、熟するごとにフワフワとした感触になり様々な色を付け、柄まで入っているものが少なくないことが分かった。

「本当に、ぬいぐるみみたい。」

「ええ…こんなの見たことも聞いたこともないですよ。」

「じゃあ、これは新種ですか?」

「……恐らく…というより確実に新種です。」

「大発見じゃないですか!」

期待を大幅に上回る発見に、興奮が止まなかった。

好奇心は更に加速していき、ぬいぐるみを徹底的に観察していった。

そこで、当初から考えていた、『プラスαの有用性』を探ることにした。

ここで、私は身を弄っている毎に甘い香りに気付いた。

「あれ?……なんか良い香り。」

「本当ですね……仄かに甘い匂いがしますね。」

「ひょっとして、食べれちゃったりします?」

「……植物ですからね……怖いですが、食味だけでも見てみましょう。」

彼は徐にナイフを取り出し、若い実と熟した実と両方を切った。

若い実は、すんなりと、アテモヤやチェリモヤのような柔らかさを伴って切れた。

一方で、熟した実の方は、本物のぬいぐるみ同様に綿のような繊維が露出して、臭いも若い実程には無かった。

「……美味しそうですね。」

「見た感じも、若い実はパラミツの様に見えなくもないですね。」

「……ですねー。」

「一齧りだけ……。」

「そうですね、ガムみたいに噛んで飲み込まない様にしましょう。」

言うや否や、一口大に切って若い実から齧ってみた。

すると、本当にアテモヤのような甘い味が味覚を刺激し、不覚にも無意識に飲み込んでしまった。

「あっ……どうしよう!」

「毒性は感じなかったので、恐らく大丈夫でしょうし、何かあれば、それは食べれないということで割り切りましょう。」

そこで、自棄になって、熟した実の方にも齧りついた。

するとどうでしょう。

綿菓子のような、夢心地の様に甘くて、口に入れた途端に溶けてしまう、不思議な繊維質の実質があるではないですか。

「え……下手をすれば、綿菓子よりも美味しい!」

「こいつは美味だ。」

彼の伝手で、ドイツの学会と当局に、ごねまくって許可を取り、早速海路で持ち帰った。

3週間後にようやく届き、箱を開けてみると、意外にも頑丈で、状態の変化は見られなかった。

其々成分分析にかけてみると、若い実の方が、栄養価が高く、食物繊維が丸いことが判明し、毒性も皆無だということが明らかになった。

熟すると、糖度が高くなり、希少糖や多糖類が他の養分と置換されるようで、残存する栄養分はカリウムなどのミネラルと一部のビタミンが極微量程度しかないということも分かった。

この植物を『ヌイグル』と名付け、論文を発表しようとも思ったのだが、同行してくれた彼とドイツ当局との話し合いの結果、論文の事実は認めた上で、一般には一切公表せずに極秘事項として、ある程度の栽培計画や保全計画が確立するまでの機密扱いになることになった。

 

あれから、ドイツの精鋭の学者との共同の下で、栽培と増殖の研究が日本の某所で秘かにされるようになった。

私は、そこのボスドクということで、様々な試みを行っている。

一番、美味しかったのは、パンダのヌイグルで、何故か竹の香りが仄かに残る、粽に似た旨味があった。

これに成功すれば、新たなる食材・食料として、上手くいけば貧困問題も解決できるかもしれないし、あらゆる食品や菓子類の新開発に繋がる。

正に、違うベクトルではあるが、玩具のぬいぐるみ同様に夢と幸せを人々に与える存在だと、私を含め、研究所全体が感じている。

偶に、研究所の人が子どもの様に抱き付いているのを見かけるが、不思議なことに鼻や口元を無意識に擦り付けて、時折食んでしゃぶっているのだ。

子どもも、特に乳幼児にはよく見られる傾向だ。

ひょっとすれば、本能的に『ぬいぐるみ』を『ヌイグル実』と認識していて、遺伝子に記憶が刻まれているのではないのかとも、私の中で仮説が立っている。

もっと、研究が進めば、ヌイグルが普及して、人々の幸福感が増えるかもしれない。

玩具に打って変わって、ヌイグル実の方が大頭すれば、今までゴミになっていた、ぬいぐるみが減り、ゴミ問題も少し解決に近付くのではないだろうか。

 

皆さんは、ぬいぐるみは好きでしょうか。

 

しかし、こんな食べれる不思議なヌイグル実、実在したとして愛せますか?

 

今、目の前にあるぬいぐるみが、もし甘い匂いがしたとしても、齧ろうとしないでください。

 

それは、『ヌイグル実』ではなくて、『ぬいぐるみ』です。

幼い頃に思い浮かぶものと言えば?

 

そう言われて思いつくのは、大半は玩具ばかりかもしれない。

中には、お気に入りの毛布・タオルケット、ファーストシューズ、哺乳瓶、お弁当箱、大好きだったお菓子、絵本、戦隊ヒーローや少女アニメなど、色々あるかもしれない。

でも、幼少期に一日の大半を共にするのは、家族よりも玩具が多い気がする。

 

特に、『ぬいぐるみ』は男女問わずに、乳児の頃から始まり、中には大人まで一緒に生活するという例もある。

 

そんな私も、成人してからも、ぬいぐるみにお世話になっている。

鞄に付き、寝室でも何体か御出迎えしてくれる。

 

しかし、ぬいぐるみは意外と高価なものだ。

ちゃんとしたものだと千円は下らないことが多い。

その割に、ボロボロになるのも早い。

何せ、寝るときに抱いて寝るだとか、何かにつけてきつく抱きしめていることがあるからだ。

 

その『ぬいぐるみ』は、本当に愛でられるだけの、ただ抱きつぶされるためだけの、人によって作られるだけの物なのだろうか。

それだけでも十分なのかもしれないが、それだけと言われると寂しい気がしなくもない。

ぬいぐるみが大好きなところに、効率厨が入ってるから、余計に何かプラスαのメリットを求めてしまう悪い癖が働く。

 

なので、ぬいぐるみを必死で研究し尽くした。

自分でデザインや経済効果、心理学的視点や素材・原料などの化学的視点など、あらゆる観点で狂気の沙汰と言われるほど研究し尽くそうとした。

それでも答えは見出せなくて、滔々残すところ生物学的観点のみが残ってしまい、そこで改めて素材や原料を生物として県空士用と考えた。

 

綿はポリエチレンやナイロンじゃなくても、綿花があるし、他にもリネンやシュロでも応用が利くはずで、動物的なものだと羊毛や絹綿、羽毛が代表的だ。

表面に来る布も、同様で、動物素材では豚革や牛革もある。

取り敢えず、繊維であれば何でも大丈夫なのである。

そう考えて、素材を植物に限定して、更に考察を進めるうちに、荒唐無稽にも面白い事を思いついた。

 

『これって、植物の実にそっくりではないか?』

 

居ても立ってもいられなくなって、直ぐにフィールドワークに打ち込んだ。

 

世界各国、ありとあらゆる場所を駆け巡った。

アマゾンの密林、アフリカのサバンナや山脈地帯、南極、オーストラリア......etc.

しかし、幾ら調査しても発見は無く、考え直して歴史から見直すことにした。

 

調べると、ドイツのシュタイフ社のリチャード・シュタイフ氏が、モヘア地というアンゴラヤギの毛が原料の布を使い、手足が動くように手足と胴体を別々に作り、5つのジョイントで繋いだものを作ったのが発祥で、テディベアが始まりだった。

テディベア自体、直訳すれば『野生のクマ』なのだが、名前に相反して愛らしい見た目なのは今昔変わることは無い。

しかしながら、熊を見て可愛らしいと思った→だから人形を作ろう→上質な布で簡単に作る→パーツごとに作って可動部を作り出す、という具合は、あまりにも不思議に感じてならず、考え事をしながら近くのテディベアに目が行って、ある仮説に至った。

 

『ひょっとすれば、何らかの植物の果実からヒントを得たのでは?』

 

事実として、テディベアを各パーツで分解して見てみると、植物の実に似ている。

腕に至っては、ナスや豆類の其れに酷似している。

胴体なんかは、ヒョウタンやヘチマなどのウリ科の果実にも見える部分がある。

植物側を考察すれば、フォックスフェイスというナス科の植物のように、果実が動物の頭部の形に似ている植物も数多とある。

つまり、ドイツに行って、自然を探索していれば何かに行き当たるのではと考えるようになった。

 

 

ドイツの秘境を回り、フンスリュック・ホッホヴァルト国立公園の奥地を探索しているときだった。

このとき、一緒に回ってくれていたヨーロッパの生態に詳しい生物学者が驚いたような声を上げた。

「あっ、これは何だ⁉」

彼の指さす方向を見ると、私自身も目が点になって、何を見ているのか一瞬判断が付かなかった。

そこには、クリスマスツリーのように、ぬいぐるみが木から生っているように、枝にぶら下がっているのだ。

「ドイツって、こんな文化があるなんて知らなかった。」

「いいえ、こんなところまで普通はきませんよ!」

「じゃあ、これは?」

「近付いてみましょう。」

その木に接近していくほどに、奥の方にも同様な木が群生していた。

よく観察すると、ありとあらゆる動物の形のぬいぐるみがぶら下がっていて、テディベアのパーツのような実が生っているものまであった。

「本当に、何これ?」

「……取ってみますか?」

本来は駄目な筈なのに、彼は調査のためだからと言い訳をタラタラ述べながら、私を共犯者に巻き込んだ。

私自身も研究したいがために調査に来ているのもあって、拒否権はなかった。

手を伸ばして、実を手に取ってみると、若い実は固く、本当にはと同じ色をしているが、熟するごとにフワフワとした感触になり様々な色を付け、柄まで入っているものが少なくないことが分かった。

「本当に、ぬいぐるみみたい。」

「ええ…こんなの見たことも聞いたこともないですよ。」

「じゃあ、これは新種ですか?」

「……恐らく…というより確実に新種です。」

「大発見じゃないですか!」

期待を大幅に上回る発見に、興奮が止まなかった。

好奇心は更に加速していき、ぬいぐるみを徹底的に観察していった。

そこで、当初から考えていた、『プラスαの有用性』を探ることにした。

ここで、私は身を弄っている毎に甘い香りに気付いた。

「あれ?……なんか良い香り。」

「本当ですね……仄かに甘い匂いがしますね。」

「ひょっとして、食べれちゃったりします?」

「……植物ですからね……怖いですが、食味だけでも見てみましょう。」

彼は徐にナイフを取り出し、若い実と熟した実と両方を切った。

若い実は、すんなりと、アテモヤやチェリモヤのような柔らかさを伴って切れた。

一方で、熟した実の方は、本物のぬいぐるみ同様に綿のような繊維が露出して、臭いも若い実程には無かった。

「……美味しそうですね。」

「見た感じも、若い実はパラミツの様に見えなくもないですね。」

「……ですねー。」

「一齧りだけ……。」

「そうですね、ガムみたいに噛んで飲み込まない様にしましょう。」

言うや否や、一口大に切って若い実から齧ってみた。

すると、本当にアテモヤのような甘い味が味覚を刺激し、不覚にも無意識に飲み込んでしまった。

「あっ……どうしよう!」

「毒性は感じなかったので、恐らく大丈夫でしょうし、何かあれば、それは食べれないということで割り切りましょう。」

そこで、自棄になって、熟した実の方にも齧りついた。

するとどうでしょう。

綿菓子のような、夢心地の様に甘くて、口に入れた途端に溶けてしまう、不思議な繊維質の実質があるではないですか。

「え……下手をすれば、綿菓子よりも美味しい!」

「こいつは美味だ。」

彼の伝手で、ドイツの学会と当局に、ごねまくって許可を取り、早速海路で持ち帰った。

3週間後にようやく届き、箱を開けてみると、意外にも頑丈で、状態の変化は見られなかった。

其々成分分析にかけてみると、若い実の方が、栄養価が高く、食物繊維が丸いことが判明し、毒性も皆無だということが明らかになった。

熟すると、糖度が高くなり、希少糖や多糖類が他の養分と置換されるようで、残存する栄養分はカリウムなどのミネラルと一部のビタミンが極微量程度しかないということも分かった。

この植物を『ヌイグル』と名付け、論文を発表しようとも思ったのだが、同行してくれた彼とドイツ当局との話し合いの結果、論文の事実は認めた上で、一般には一切公表せずに極秘事項として、ある程度の栽培計画や保全計画が確立するまでの機密扱いになることになった。

 

あれから、ドイツの精鋭の学者との共同の下で、栽培と増殖の研究が日本の某所で秘かにされるようになった。

私は、そこのボスドクということで、様々な試みを行っている。

一番、美味しかったのは、パンダのヌイグルで、何故か竹の香りが仄かに残る、粽に似た旨味があった。

これに成功すれば、新たなる食材・食料として、上手くいけば貧困問題も解決できるかもしれないし、あらゆる食品や菓子類の新開発に繋がる。

正に、違うベクトルではあるが、玩具のぬいぐるみ同様に夢と幸せを人々に与える存在だと、私を含め、研究所全体が感じている。

偶に、研究所の人が子どもの様に抱き付いているのを見かけるが、不思議なことに鼻や口元を無意識に擦り付けて、時折食んでしゃぶっているのだ。

子どもも、特に乳幼児にはよく見られる傾向だ。

ひょっとすれば、本能的に『ぬいぐるみ』を『ヌイグル実』と認識していて、遺伝子に記憶が刻まれているのではないのかとも、私の中で仮説が立っている。

もっと、研究が進めば、ヌイグルが普及して、人々の幸福感が増えるかもしれない。

玩具に打って変わって、ヌイグル実の方が大頭すれば、今までゴミになっていた、ぬいぐるみが減り、ゴミ問題も少し解決に近付くのではないだろうか。

 

皆さんは、ぬいぐるみは好きでしょうか。

 

しかし、こんな食べれる不思議なヌイグル実、実在したとして愛せますか?

 

今、目の前にあるぬいぐるみが、もし甘い匂いがしたとしても、齧ろうとしないでください。

 

それは、『ヌイグル実』ではなくて、『ぬいぐるみ』です。

手紙

 

それは、言葉を受ける相手次第で残すことも、消すこともできる、古くから世界共通で続いているコミュニケーションツールである。

時に逡巡し、言葉が思いつかずイラついて破棄したり、想いを寄せすぎて涙や鼻水などの体液で汚してしまったり、在らぬ無茶な仕掛けをしようとして失敗したり、一生懸命綴った言葉を自分の勇気の無さから奪われてしまったり、相手に送るにも遅れず仕舞いで終わったり、渡そうとして先に声になって伝わってしまったり、受け手に言葉を奪われて、そのまま返されてしまったり…etc.

 

様々な思い出を作るのも手紙の役割ではあるのかもしれない。

 

それが、簡単に思わぬ形で、でも、割と有り触れていて意外性がない方法に変わってしまったら?

 

それは、きっと面白いものを起こすのかもしれない。

これは、私が体験した物語だ。

 

 

私には、片思いしている友達がいる。

相手は女の子で、いつも相手の実家近くのファストフード店やショッピングモールのプリクラで、燥いでは女子会で喋り倒す仲だ。

 

私にとっては居心地の良い、特別な時間だ。

よく他の友達に、「アンタたち、何してんの?」と聞かれるほど、空気が浮いているのだというが、私たち本人には関係ない。

高校生活は、とても楽しくて、夢心地だった。

それでも、やはり時間には限りがある。

卒業と同時に、少しずつ互いに疎遠になりつつあった。

 

卒業してからも、仲は続いた。

時折時間を見つけては、映画を見に行ったり、ペアチケットでライブに参加したり、レストランで食事をしたり、色々と特別な何かをすることで会えていない時間を埋めていた。

ところが、ある日、事件が起こった。

私は、レストランでの食事会の後、最寄りのコンビニにて急に告白された。

……そして、誤って告白を断ってしまったのだ。

こうして、私たちの絆は幕を閉じた。

 

 

それからというもの、私は恋愛に対して消極的になった。

カッコいい、イケメンな男の子と出会っても、超絶可愛い女の子に出会って甘えられても、何も感じなくなって、胸がときめくのも一瞬の幻となっていった。

ある意味では楽なのかもしれないが、本人としては無自覚ながら由々しき事態である。

その失ってはいけない感情を繋ぎとめるためなのか、それとも思い出そうと無意識にしているのか、医師に関係なく誰でも目で追うようになった。

 

辛くて仕方がない。

 

ところが、私に転機が訪れた。

或る日の晩に、仕事帰りでコンビニにチョコレートを買いに行った。

すると、女の子に板チョコを渡された。

私は戸惑いつつも、チョコを受け取り、会計を済ませて家で開けてみた。

すると、そこには手紙があった。

手品でも何でもない、小学生が単純にチョコレートを未会計で渡してきただけ。

この事に戸惑いつつも、文面を読んでみた。

 

『食べて、元気になって、素敵な人に出会ってください。』

 

続けて、

 

『もし、いたら、色んな人に、このチョコレートと同じチョコレートを渡していくと良いことがあるかも♡』

 

とあった。

 

この短い文章は、紙ではなく、直接チョコレートに白い文字で描かれていた。

私は、気恥ずかしさと、苛立ちからチョコレートを自棄食いしてしまった。

 

翌日になって、不思議なことが起こった。

なんと、激しい腹痛に見舞われて、陶器の女神さまのところに屈んで長居する羽目になった。

少しだけ落ち着いて、ゴミ箱を漁って昨晩のチョコの賞味期限を確認したが、問題は無かった。

誰か分からない人に食べ物を渡されても、絶対に口にしてはいけないなと、改めて実感した。

「……ったく、何てものを遣してくれたんだ!」

そう、目の前にいない少女に愚痴を零してみたが、急に脳裏に読み落としてしまった文言を思い出した。

 

『美味しく味わって』

 

そうか、腹が立って自棄食いしたのがいけなかったんだ。

軽く反省してから、強い疑問を抱いた。

 

何故、文言を破ったら、食べた後にお腹を壊すのか。

 

ひょっとして、新手の都市伝説みたいなもので、最近は手紙を最後まで深く読まない人が多いから、そういったものへの警鐘と教訓を示しているのだろうか。

ならば、しっかりと読む習慣を付けてしまおうと考えた。

「じゃあ……素敵なひとと出会うことからでも始めようか。」

このときの行動は、送り主からすれば甚だしい勘違いだったのだが、これは後に暫く年数が経って知ることとなる。

 

 

腹痛で朝一から欠勤の連絡をしてあったので、同僚や先輩に出会わないように細心の注意を払いながら、思い切って外出した。

街中に久しぶりに出ると、人ごみと目に付く喫茶店が心地良い。

自分は社会の中に確かにいて、その全ては出会いからのみ出来ているのだと感じる。

暫く歩いて、途中で本屋に入って立ち読みしていると、とうとう出会ってしまった。

一番合いたくない同僚の、鴻上薫だ。

 

「お…ヒジリさんじゃん!」

「あ……どうも。」

「今日、サボりですか?」

興味津々な目で、私ににじり寄った。

ニヤついた表情に浮かぶ、漫画のような三日月目が、私を不快にさせる。

「本当に腹痛で、結局食中毒だったから治まって、今病院帰りなの。」

「そうっすか……ねえ、僕も今から直帰なんで、ヒジリさんの家に行っても良いっすか?」

妙にチャラい声色で、家に押しかけようとしてきた。

病人に、何てことを考えるのだろうと、鴻上のことを無神経な人間だという印象を抱いた。

「止めてください!」

「良いじゃないっすか……これでも心配していたんだって。」

急に、言葉の終わりにかけて、曲のサビに入る直前のように声音が小さく照れ臭さを滲ませていた。

私は、不覚にも、ドキッとしてしまった。

「それでも、来ちゃダメです。」

「……なら、無理やり押し掛けるっすよ!」

「はあ!?」

「アンタに拒否権は無い!」

断ると、突然顔を紅潮させて横暴な発言をしてきた。

幼稚だなと思った反面、可愛いとも感じた。

やや丸顔で、幼くも見えるアイドル顔で、髪をダークブラウンに染めてセミショートにして可愛さを全開にしている外見で、至近距離まで詰め寄ってきた相手に、嫌な筈なのに惹き込まれてしまったのだ。

「……わかった…だけど、入ったとしても何もしないで。」

「約束します。」

「…よろしい!」

先程まで、全力で拒否していたのに、入室を簡単に許してしまった。

 

「普段の女子力の割に、部屋は少し狭いっすね!」

「五月蠅い!……もう、座ってて。」

「はいはい……。」

本当に鴻上は部屋の中までついてきた。

そして、早速約束を破ってキッチンに向かって行った。

「バカ!……何もしないって約束でしょうが!」

「……おかゆを簡単に作って、消化に良い野菜いためでも作って置きますよ。」

鴻上は、外と打って変わって口調が丁寧になっていった。

そして、手に持っていた大きめのバッグから、幾つか食材を取り出して、徐に調理器具を確かめたかと思うと、宣言通りに調理を始めた。

換気扇を忘れて調理を始めた所為で、部屋中に美味しそうな臭いが充満してしまった。

一気に腹痛と空腹感が入れ替わって、お腹の虫が盛大に鳴いた。

「ハハハ……食欲はちゃんと健在ですね!」

「笑うな!」

「すみません…可愛くて、つい笑ってしまいました。」

火を弱めながら、私に目を合わせようと涙を浮かべて顔を凝視してきた。

私は、態と子どものように頬を膨らませて不機嫌を演じてみた。

鴻上は、少し焦ったような表情で、取り繕おうと話題を脳内で画策し始めた。

これが可笑しくて、可愛くて、堪らなくなってしまった。

鴻上は、簡単に調理を済ませて、私の真正面に座り込んだ。

「ヒジリさんに、今日会えて良かったです。」

そう言うと、満面の笑顔で見つめてきた。

私には眩しすぎて、無意識に目を逸らした。

 

 

仕事のことを幾つか話してくれて、そのついでに愚痴をたっぷり零していく。

抑々は、仕事の伝達のために課長に遣されたらしいが、鴻上なりに心配して幾つか仕込んでいたらしい。

「で、さあ……課長も課長でさ……。」

「それで……もう、終電の時間じゃない?」

病人を寝かさずにおいて、深夜まで家に居座っていく図々しさには、脱帽してしまう。

もういっそ清々しいので、許してしまっている。

「今日は泊まります。」

「はあ!?」

「……今日二回目の『はあ』。」

眠そうな顔を作って、クスクスと笑ってきた。

「びっくりするのは当然でしょう?」

「じゃあ、びっくりついでに…実を言えば、僕の部屋は今日契約切れで、明々後日からヒジリさんの隣の部屋に引っ越しになります。」

「え、つまり……?」

眠そうな顔から出てきた爆弾発言に、私の眠気は銀河系外まで吹き飛んでしまった。

全力で拒否の意思を表情で訴えてはみたものの、飛び切り可愛い笑顔で、言葉泣き同意を求められている。

「今日から3日間だけ、泊まらせていただけないでしょうか?」

私は溜息をつくしかなかった。

 

 

朝起きると、テーブルの上に一枚の板チョコが置いてあった。

驚いたことに、少女からもらったのと同じメーカーのチョコだった。

『 ヒジリさんへ

 

 泊めて頂いて、ありがとうございます。

 お礼と言っては何ですが、今流行りの御呪いに乗せて、この板チョコを送ります。

 美味しいですよね?

 先に仕事に行ってますが、体調のことを優先して、ご自身の健康と相談して勤怠を決めてください。

 3日間限定ではありますが、ヒジリさんとの楽しい生活に期待が募ります。

 どうかよろしくお願いいたします。

            鴻上 薫』

 

チョコレートの表面に、白い文字で手紙が書いてあった。

あんなに毎日嫌がっていたのに、私は熱が上がってしまって、心地良いながらも意識が朦朧としていた。

私は、仕事の具合を考えて、午後から出勤することに決めた。

 

 

昼休みの真っただ中に出勤すると、鴻上が寄ってきて燥いだ。

「ヒジリさん、体調が治ったんっすね!」

「心配かけて御免なさい。」

「治ってくれただけで、嬉しいっすよ!」

昨日のフツーな口調は何処へやら。

どうやら、役を演じているだけのようだ。

逆に、自宅での姿が素なのかと思うと、大分嬉しさが込み上げてきた。

「本当にありがとう!」

「今日は、お昼はまだっすか?」

嬉しそうに、可愛らしい表情を作って訊いてきた。

昼食は、カフェで軽食を少しだけ齧ってきたのだが、ややお腹が減る。

「少しだけ。」

「じゃあ、お弁当作ってるんで、一緒にどうぞっす。」

すると、ピンクの花柄の可愛らしい包みを渡された。

中には、体に良さそうで美味しそうなものが詰め込まれていた。

盛り付けも美味しそうにな色合いに、きちんと配列されていて見ていて楽しかった。

「カワイイ。」

「へへへ……。」

鴻上は、嬉しそうに頭を掻きながら私を屋上へ促した。

軽く手を引かれて連れていかれる様は、まるで漫画の中の恋人のようだった。

 

 

あれから、3日目に屋上で告白され、隣同士で過ごした後、2年目に婚約して、今は婚姻関係にある。

時折喧嘩をしながらでも、外とは別で打って変わって、丁寧で物腰の柔らかい嫁に成長した、カオルには今でも恋をしている。

目の前にいる彼女は、私の視線に気が付いて、少し訝し気な様子を見せる。

「急に、どうしたの?」

「いや……昔のことを思い出して……。」

「ふーん……。」

今でも、幼く見える可愛らしい顔を、クシャクシャにして笑いかけてくる彼女は、まだ20代のアイドルぐらいには通用しそうな見た目だ。

未だに顔が赤らむのが、自分でも分かる。

「これ……あげるよ。」

「ん?……あ、これって?」

見慣れた包み紙にくるまれた長方形の苦みのある甘い香りを手渡した。

「感謝を込めて……。」

「何?……お、懐かしい御呪いの手紙だ。」

「この間、部屋を掃除していたら思い出した。」

「そういえば、あの時の手紙は?」

「食べると効果があるんでしょ?……結局食べてないんだよ。」

「え?」

「大切に取ってある。」

初心な少年少女に、よくある話だ。

バレンタインで貰ったのは良いが、あからさまな本命チョコには手を出せず、特に想い人からのものだと食べるのが勿体なくて、賞味期限が来ても黴が生えるまで観賞用に保管してしまう、という現象だ。

「でも、何で、あの時に『チョコ葉書』をしたの?」

「うーん、僕はチョコ葉書を、小学生の時に貰って返事をしたことがあるんだ。」

「あれ?…ゴミ箱を見たんじゃないんだ?」

「えー、汚いじゃない。」

「そうか。」

「貰ってたの?」

「もらってた……コンビニで小学生から渡された気がする。」

「へー…知り合い?」

「見覚えはあるんだけどね?……少し髪の長い、ボロボロになったピンクのランドセルを背負った左手薬指を火傷してカットバンで誤魔化してた、可愛らしい子……昔、好きだった子に似ていたな。」

「え?……そういえば、アナタって、旧姓があるんだっけ?」

「そうだよ……母子家庭で離婚後直ぐに転校してきたんだ。」

「もしかして、『正円』って変わった名字じゃなかった?」

「そうだよ?何で知ってるんだ?」

「……そうか、それを食べたら、お腹は当然壊すよ!」

「は?…え?」

急に、一人だけ納得いったような顔をして、けらけらと笑う彼女を見て、少し困惑したが幼少期の記憶が蘇った気がした。

そうか。

そう言うことだったんだ。

「それは、昔の僕だ……あの時好きだった『正円 聖』っていう男の子から、チョコ葉書をもらって、でも、私が転校することが決まったから『ごめんなさい』の返事を送ったんだよ…成長して違う人になって、また会えたら良いなって言う願いを込めて。」

「そうだったのか……あれ以来、女の子っぽくなって、他の子に好きになられないようにしていたんだった……もう、忘れていたよ。」

「じゃあ、君からのチョコはバレンタインを含めて、ずっと賞味期限を切らすまで食べていないことになるね。」

「今度は、食中毒で本当に死ぬよ?」

彼女に冗談交じりにデコピンと共に注意されて、年甲斐もなくじゃれ合った。

 

手紙って、素敵ですよね?

 

チョコを送るのも、また素敵ですよね?

文字を書いたり、デコレーションしたりして、相手に気持ちを伝えることもできます。

 

両方を組み合わせれば?

それは、ほろ苦いチョコレートを、甘酸っぱいものにするか、とても苦いものにするか、将又塩辛いものにするか……。

まあ、2月24日に限定されそうですが、別に違う日でも良いじゃないかって思います。

 

なら、完全に一体化すれば、ひょっとしたら驚きとともに、もっと気持ちが伝わるかもしれません。

ただし、『やぎさんゆうびん』みたいになるから、返事の保証は出来ません。

でも、返事が送られてきたなら……。

それは、相手がちゃんと読んでくれて、気持ちが伝わった、誠意の証なのかもしれません。

切り花という、ペーパークラフトは御存じだろうか。

 

色紙を何等分か三角形に折り、切り離さない様に紙をハサミなどで切り抜いたり、端を切って整えたりして、花や結晶のようにする切り絵の一種である。

人によっては、レースペーパーともいう。

簡単で、凝って行けば、たった10分強で人を感動させられる、手軽且つ奥が深い芸術である。

 

カワイイものから、美しいもの、妖艶なもの、侘び寂を感じるもの、面白おかしなもの、不思議なもの、彩り豊かな感情を絶った一輪で与えてくれる。

こんな芸術を、俺は趣味でやっている。

俺には、一人弟子がいる。

 

今日は弟子の家に訪れている。

所謂、家庭教師の代わりで、弟子の受験勉強を見ている。

「拓郎でーす!」

「はーい、開いてるので、どうぞ~。」

「お邪魔します。」

「今日も、よろしくお願いします。」

弟子の家に入ると、何時も息がつまりそうなほどの、甘い花の香りが充満している。

弟子は、花山英子という一人暮らしの女の子である。

「調子はどうだ?」

「そのことで、お話があります。」

英子は、改まった表情で正座をして、上目遣いで見上げてきた。

年頃の若い子とは思えない妖艶さが、こちらの視覚を通して押し寄せてくる。

「どうした?」

「実は、受験勉強を止めようかと思います。」

この大事な時期に冗談だろうと思い、少し困ったように笑って聞き返してた。

しかし、円らで垂れ目がちな瞳を真っ直ぐに向けて、やや下唇を噛んでいる真剣な表情に、本気が伝わってきた。

こちらも、それには真面目に答えなければなるまいと、真剣な表情を作り向き直った。

「理由を訊きたい。」

「やりたいことを見つけたの。」

「それだけか?」

「それだけ。」

「……そうか。」

色々思案しながら、意見を尊重するべきだと考えた。

きっと無計画ではあるまいと、今後について聞こうと思った。

「やりたい事って何だい?」

「このまま、切り花の技術を極めたいと思うの。」

「本気か?」

「本気です。」

愕然とした。

切り花は、確かに素晴らしい芸術かもしれないが、アーティストは殆ど存在しないし、狭く、生活ができるようなものではない。

俺も腕を見込まれてはいて、仕事先や近隣の施設などから依頼を受けることはあるが、収益には一切ならない。

確かに材料費は、百均の折り紙でも十分だし、やや上等な和紙の折り紙でも500円程度の者で十分だったりする。

そこに芸術が加わって、それなりの額になれば、やりようによっては他の芸術よりも簡単に収益を上げられるかもしれない。

ただし、そんなに甘くないのが芸術の世界である。

どんなに本気を出して、時間と愛情を掛けて、丹精込めて作り上げたとしても、大きな収益が挙げられなかったり、何の注目も上げられなければ、所詮は趣味の無職である。

「お前……頭でも冷やしてこい。」

「どうしてですか?」

「あのな……俺の切り花も、所詮は趣味であって仕事じゃない。」

「それでも、やっていける自信があります。」

「生活は無理だぞ……考え直せ。」

「私は収益にできるように努力を続けるつもりです。」

「じゃあ、どう働くんだ?」

「私、働きませんよ?」

堂々巡りの末に、ニート宣言にも思える返答が返ってきた。

いよいよ終わったと思った。

俺が、自分の技術力に天狗になって、切り花を英子に教えてきた自分を呪った。

絶望に天を仰いだ瞬間に、天井と壁不思議な違和感を覚えた。

 

「おい、この天井と壁にある花は何だ?」

「そうです…これが私の作品です。」

一瞬何を言っているのか分からなくなった。

とうとう、頓智がやってきたかと思ったが、頓智じゃなかった。

花弁の所々に切り抜いたような綺麗な穴が開いているのだ。

「ああ…生花に虫食いかカッターかで穴をあけたんだな?」

「いえ、全部紙で私が作ったものですよ?」

聞いて固まった。

何という技術力だろうと思った。

免許皆伝である。

「見事にリアルに作り上げたものだ。」

「この花は全部、生きている花です。」

驚愕した。

確かに、命が宿っているように見える。

これは比喩表現ではなく、本能的な感覚での話だ。

「嘘だろ?」

「本当です。」

信じられずに、壁にある一輪に触れてみた。

紛うことなく本当に生きた、命と水と細胞が感じられる立派な生命としての花があった。

「どういうことだ?」

「切り花を花瓶に翳すと、本物の花になるんです。」

「そんな馬鹿な……。」

そう、苦笑いを浮かべては見たが、英子の顔は本気だった。

受け入れる姿勢を見せるように、彼女に表情を作り直して向き合った。

「説明してくれるかい?」

「切り花の作風を変えてみようと思って、偶然見つけたんです。」

彼女は口を開くと、俺の疑心ことは一切関係なしに話し始めた。

「紙は湿気に曝されると撚れますが、これは切り花にも同じで、紙は元々、植物からできているので、些細でも水を媒介に生き返るのではないでしょうか?」

「つまり?」

「形を変えようとも、再び植物としての生を全うしようとしているのではないかと思うんです。」

この説明だけを聞けば、全くの荒唐無稽な話だろう。

しかし、現物が目の前にある以上、妙に説得力があり納得せざるを得なかった。

確かに、植物の細胞は簡単には死なず、培地などの好条件化であれば、細胞一個からでも生き返り、増殖し、復活する。

紙で、同じ現象が起ころうとも、何ら不思議ではないと思い始めていた。

暫し、部屋中を埋め尽くさんばかりにある切り花に触れながら、その甘美さに酔い痴れた。

 

「ところで、進路はどうするんだ?」

この不思議な現象を堪能したところで、本題に戻った。

「話ながらでも、考えが纏まって意見が変わったんじゃないか?」

「いいえ、私は今受かっている美大に行こうと思います。」

「あれ?…あの美大には受かって無かったんじゃないのか?」

「え?」

不思議な回答が返ってきて、俺は驚いた。

英子の方も同じようだ。

「私は、確かに美大の話はしたのですが、合否は母に口止めされていました。」

「何だ、それ?」

奇妙な怪現象が起こっており、背筋が冷えた。

すると、襖から物音がして、二人はビクついて飛び上がった。

「誰だ!?」

俺が叫ぶと、襖を英子が勢いよく開けた。

すると、そこには英子と瓜二つの若い女性が座り込んでいた。

「英子の双子?」

「私には、双子も兄弟もいません。」

では、誰だろうか。

そう、思案に入り込む前に、もう一人の英子が口を開いた。

「私は紛れもない、英子ちゃんの分身です。」

「え?」

英子が、悲鳴に近い反応を返すと、涙ながらに真相を語った。

「私は、英子の母に、英子の切った詰めや髪の毛、ムダ毛、垢で作られた人形で、入浴中に鼻血が出た日の残り湯に漬けられてできた、垢人形由来のホムンクルスです。」

英子は、恥ずかしさと恐怖で、俺にしがみつくようにして震えた。

「母親に吹き込まれて行動していたのか?」

俺が勢いよく問い詰めると、英子もどきが泣き顔で頷いた。

「でも、嘘でも美大に落ちたというのは辛かった……学校に行けないのも、勉強できないのも、拓郎さんと少しの間しか話すことができないのも、とても辛かった。」

言い終えると、嗚咽を漏らして泣いた。

「何故、そこまで辛がるんだ?」

「やっぱり、嘘でも…行きたい大学の進学を否定するのは、物凄く嫌な気分だもん。」

「それは何故?」

英子が、自分の分身に優しく問いかけた刹那、俺は粗方理解ができた。

「……英子と思考が同じだ。」

「……あ、私の詰めを使ってるんだ。」

「そう……爪の垢も、煎じて飲むどころか、体の一部で取り込まれてるからな。」

(バンッ‼‼)

このタイミングで、急にドアが開いた。

そこには、怒気と殺意に似た感情が込められた瞳で、こちらを睨みつける母親がいた。

二人は、一様に同じ表情で、同じ反応を見せた。

俺は、母親の手元を見て、スマホを構えた。

帰宅した僕は、直ぐに正志の部屋に向かった。

 

目の前には、手つかずで廊下に置かれた晩御飯が虚しく鎮座している。

大好きで仕方がないプルコギだって言うのに。

 

「正志…アンタらしいけど、これは母さんが悲しむよ。」

「ケイちゃんに、何が分かるんだよ。」

言われて、何も言えなくなりかけた。

その代わり、黙ってしまえば停滞どころか状況が悪化しかねないことだけは分かり切っていた。

「傷付いていることだけは分かってる。」

「それだけじゃないか。」

「そうだよ……だけど、聞きたいし、言ってほしい……せめて八つ当たりぐらいしてほしい。」

「僕が、人を攻撃できないことぐらい知ってるだろう?」

僕の発言は、そんなに無責任だっただろうか。

正志に怒鳴られて、一気に虚しくなった。

八つ当たりでもしてほしいと言ったのは、僕の方だ。

だけど、あんまり過ぎやしないだろうかとも思い、腹が立った。

「ああ、分かってるよ!…でも、僕に対しては強気じゃないか!」

「煩い!黙ってろ!」

「いつもウジウジしてるのを見てるとイライラするんだよ!目障りなんだよ!」

互いに短気なところがあって、短時間で喧嘩になる。

それでも、踏み越えてはいけない一線を越えてしまった。

「……ごめん…言い過ぎた。」

「ケイちゃん……君も僕が嫌いなんだね?」

「い……違っ……。」

「ああ……消えてやるから、今すぐにドアの前から失せてくれ。」

「正……。」

「俺も…ケイちゃんの顔御見たくない。」

そう言うと、ドアを強く叩きつけてきた。

その腕っぷしで、壊れないか心配になるが、それ以上にやってしまったという喪失感で一杯だった。

「ケイ君、大丈夫?」

「僕は大丈夫だよ。」

母が、心配そうに階下から声を掛けてきた。

僕は何もなかったかのように返事をした。

「……そうか。」

察したように返事をして立ち去った。

そのまま僕は自室に飛び込んだ。

「本当にごめん…正志。」

僕は、声を押し殺して、枕を抱きながら泣きじゃくった。

後ろで、ドアの開く音と正志の声が聴こえた気がした。

泣くのに精いっぱいで、何を言っているのかは殆ど聞こえなかった。

 

 

翌朝、正志の部屋にも、リビングにも、学校にも、正志の姿は無かった。

 

朝礼で、全校の前で件の数学教師が、正志に名指しで謝罪を述べ辞任を宣言した。

後ろで、不穏な笑い声が聞こえ、不意に周囲が異様な空気に包まれた。