あの午後の静けさは、今でも指先に残っている。

数年前、仕事の合間を縫って訪れたボストンの美術館。
外の空気はまだ少し冷たく、都市の輪郭はどこか硬質だった。
けれど、展示室に一歩入った瞬間、世界の温度が柔らかく変わるのを感じた。

モネの「睡蓮」は、絵というよりも、呼吸のようだった。

水面は決して完全には静まらない。
光が揺れ、色が溶け、境界が曖昧になる。
輪郭を持たない美しさが、そこにはあった。

宝石の世界に身を置いていると、
どうしても「形」「カット」「明確さ」を求めてしまう。
価値は、しばしば定義できるものに宿ると信じているから。

けれど、そのときふと思った。
——曖昧であることも、またひとつの完成ではないか、と。

睡蓮の花は、決して主張しすぎない。
水と光の中に溶け込みながら、確かにそこに在る。
その佇まいは、どこか理想の女性像にも似ていた。
強さを見せつけるのではなく、静かに支配するような存在感。

別の一枚、日本趣味の装いを描いた作品の前では、少し立ち止まった。
華やかさの裏にある、どこか作られた異国情緒。
それは装飾としての美しさであり、同時に「見られること」を前提とした美でもある。

私は日々、宝石を扱う。
人に選ばれ、身につけられ、価値を与えられるもの。
その意味では、この絵の女性と、宝石は少し似ている。

けれど睡蓮は違う。
誰のためでもなく、ただ水の上に在る。

——その差が、妙に心に残った。

帰り際、展示室を振り返ったとき、
あの水面はもう絵ではなく、ひとつの時間の層のように見えた。

触れれば消えてしまいそうな、
けれど確かに存在しているもの。

あのとき感じた静けさは、
忙しさの中で時折ふと浮かび上がる。

たぶん私は今でも、あの水面の続きを探している。