前回は、介護との出会いのきっかけをお話ししました。。。

 

 

その後、両親の等級に合わせて、日常での補助(お買い物や掃除)、また、父の

機能回復を考慮した、運動を中心とした、デイサービスの提案など、積極的に

対応してくださったこと、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

 

ですが、そういう「サービス」に慣れていない両親は、せっかく掃除のサービスで

来てくれたヘルパーさんに仕事させず、「お話し相手」となることが多く(笑)、

趣旨が異なるため、徐々に対応内容を変更していきました。。

 

そのうち、父も歩いての買い物ということが、出来るようになり、それが習慣となります。

 

しかし、自転車、そして、父も好きだった自動車の運転を私が厳しく禁止としました。

 

 

自動車は、キーも取り上げ、タイミングみて、売却。。

 

私の前では、納得したことを言っていた父は、影では、私のことを罵倒していたそうです。。

 

 

本人は、「大丈夫」という判断の狂いがある年齢です。

やはり、身近にいる者が、宣告するのも辛いですが、他人様へのご迷惑を

考えると、決断してあげないといけない時があると思います。

 

その代わり、毎日、日中に、買い物時間の父の携帯電話へ私は連絡をし、

頑張るようエールを送っていました。。

 

しかし、二度ほど、転倒をし、前歯を折るということがあり、通院で脳の検査するも、

特に問題ないとの事。。。

 

結果として、一年後に、天国へと旅立つことになります。

実家で、意識を失い、救急搬送。。。

病院で、息を引き取りました・・・・。

原因は、簡単に説明すると、心臓発作。

 

あとから思うと、転倒そのものの原因は、心臓に原因があったかもしれません。。。

 

平日で、病院へ駆けつけた時は、間に合わなかったです。

しかし、手は、まだ、温かかった・・・・。

 

 

それから、一年の準備期間を経て、私たち夫婦と母の同居生活が始まります。。

その一年の準備期間は、姉が仕事を辞めて、母と一緒に過ごす時間を増やしてくれました。

 

準備万端。

和室を母の部屋に模様替えし、新たな生活のスタートです。。

 

しかし、その二年後に、母は、認知症となってしまいます。

 

診察の結果、既に、中度を超えた状態であるということ。。。

 

それからは、少しずつ、炊事など、自分のことが出来なくなっていきます。。

 

 

そして、父の時にもお世話になった、介護施設へ相談することとなりました。

 

朝、昼、夜の見守りと、場合によっては軽補助、それと食事のお世話です。

 

私からは、A4 3枚にわたる、20項目ほどにまとめた、日々の介護が円滑に

なるような内容を作成し、お渡ししました。。

 

毎日、同じヘルパーさんが訪問されるわけではないので、日々の申し送りだけでなく、

母の性格についても、共有してもらえるように作成しました。

 

これは、社内持ち帰りだけでなく、日々、記録をファイルするフォルダーに

一緒にしてくれました。。

 

合わせて、毎朝、6時に、ヘルパーさんのリーダーに、前日の母の様子を私から、

メール報告をしていました。。

 

そんな、メールにもいつもすぐに返信を頂き、仕事に対する姿勢に感謝する日々でした。

 

そんな母も2年後には、天国に・・・・・。

 

その亡くなる日のお昼の介助の記録・・・・・

 

ㇾチェックだけでなく、文章でも、細かく、報告してくださるヘルパーさんです。

頭が、下がります・・・・。

冒頭に、「みんな、仲良くしてほしいと!!」・・・・

 

それとは、別に、朝の介助では、報告書とは別に、ファイル表紙に付箋が・・・。

カミさんのことを褒めていたようです。。。。

 

意識不明で翌日まで、頑張った、母ですが、その朝急変、病院へ急行しましたが、

間に合いませんでした。。

 

平日でしたので、父の時と同様、別れの言葉を交わすことは叶いませんでした。。

 

しかし、ヘルパーさんのちょっとした心遣いで残してくれた、これらの「言葉」が、

母からの遺言だと思っています。

 

・・・認知症が進み、カミさんのことは、時には、見たことのない他人を見る目で、

睨む時もありました。「あの人は、いつ帰るの?!」と。。

 

そんな、『塩対応』がもあっても、頑張って、毎日、食事の献立を考えてた、カミさん。。

 

この付箋を見た時は、もう、彼女も号泣でした・・・・・。

 

 

介護は、大変なお仕事です。

ですが、身内でないので、割り切ってやれます。。仕事ですから。。と、そのプロは、

おっしゃいます。。

よっぽど、身内の方々のほうが、大変ですよ。。ご自愛くださいねと、声掛けしてくれます。

 

「実務」だけでなく、ちょっとした、気遣いもされる姿勢には、遺族となった時、

本当にありがたいと、感謝の気持ちでいっぱいでした。。

 

 

葬儀まで、時間があったので、ケアマネージャーさんへお世話になった

ご挨拶で事務所へ訪問した時、私の顔を見るなり、ケアマネジャーさんも号泣。。

 

また、葬儀後、四十九日前に、お線香をあげに、ヘルパーさん代表で、この「遺言」を

残してくれたヘルパーさんが来てくれました。。

 

母の遺影を見た瞬間に、号泣・・・・。

 

 

「仕事」と割り切らないと、「別れ」を多く経験する職業です。

 

カラダが持ちません。。。精神力、強くないと出来ないお仕事だと思います。。

それでも、人間ですから、「気持ち」が入ってしまう、出会いもあるのだなと思います。。

 

母は、そんな方々のひとりだったのでしょう・・・。

 

リビングで、いつも母が眺めていた愛用雑誌の上に、日々の私たちからの声掛けに、

私と、母へ、このような、メモ書きを残してくれたりもしてくれました。。。

 

母は、もう、漢字が読めなくなっていたので、全部、ひらがなです(笑)

・・・こういう対応もしっかり、してくれました。

 

認知症の母を毎日、笑顔にしてくれたのは、ヘルパーさんです。

 

ただ、こちらのその感謝の気持ちをしっかり伝えること、また、何が必要かを

互いに意見交換して、より良い介護を目指すという意識をこちらも持つこと。。

 

奉仕する側と受ける側。。。

 

互いが、寄り添う想いを持つことが大切だと、教えられました。。

 

「長い説明文」を押し付けるわ、早朝、毎日、メールしてくるわ、本当に小うるさい、

依頼主だったと思います。。。。

ただ、私は、「ありがとうございます。」という言葉だけは、決して忘れませんでした。

 

その言葉の大切さ、改めて感じた、この時の日々でした。。。。

 

 

気持ち落ち着いて、最後に、私が、「今度は、いつか、私がお世話になりますね!」と

お伝えした時、言葉でなく、ニッコリと笑顔で、会釈・・・・。

 

お互いの立場だけでなく、人との出会いのありがたさを感じた瞬間でした。。

 

 

 

次回は、認知症の親と接する時の「魔法の言葉」について、お話ししたいと思います😊

 

いつも最後までのお付き合い、ありがとうございます🌈