このタイトルの内容は、もう少しあとに、語ろうと思ってました。。。。

 

ただ、私のブログ 「ありがとうのブログ」 という名に決定した理由は、父母の看取りの

経験から、自然と湧いてきたブログ名です。

 

 

世の中、上を見ればキリがない。下を見てもキリがない。

 

各々の大変さというのは、比較できるものではないと思ってます。

 

ただ、経験したことを伝えることで、同じような境遇の方々の気持ちが救われるなら、

少しでも書くべきだと考えました。。。

 

 

レベルは、違いますが、桜井識子さんのブログに出会い、神仏に触れることで、

やすらぎを得る方もいらっしゃるでしよう。。。

 

ウォルト・ディズニーの精神の場を経験することで、生き方が変わる方々もいると

思います。

 

イイも悪いも、出会いによって、自分の人生への影響というのは、計り知れないものが

あるのではないかと感じます。。

 

そういう出会いということで言えば、私は、「介護」という出会いが、私の生き方の

考え方を変えたキッカケになったと思ってます。。

 

 

・・・10年ほど前になります。

 

仕事中の私に、父の携帯電話から、私の携帯電話へ電話がありました。。

 

日中に、連絡してくることは、ほとんどなかったので、どうしたのだろうと・・・。

 

出たところ、相手は父ではなかったのです。

 

救急隊員からでした・・・。

 

「息子さんでよろしいでしょうか?」と。

 

実家近くの坂道下で、自転車と一緒に倒れているところをその近くの接骨院の

職員さんに発見され、通報があったとのこと。。。

 

病院へ運ばれ、意識はありますが、身元保証人として来てほしいと・・・。

 

仕事を中断し、地元の病院へと向かいます。

 

途中、姉やカミさんへも連絡しながら、向かいます。。

 

集中治療室へ案内された時は、父は、意識があり、私を見るなり、

 

「仕事中だったろうに、すまないなぁ・・・。」と言ってくれました。

 

いつもの笑顔です。

 

父は、滅多に怒る人でなく、手を上げたこともありません。

 

辛くとも笑顔でいることの多い人でした。。

 

その後、脳外科の先生に呼ばれ、お話しを聞くことになります。

 

先生の第一声が、「今晩が、ヤマです。。」 という言葉でした。

 

脳内の出血が酷く、手術の可能性もあること、万が一、治まったとしても、

前頭葉へのダメージがあるので、人格が変わる、今までのことを忘れるなど、

今までの生活が出来るということは、難しくなる。。。

 

という説明でした。。

 

・・・その2~3年前に、母が、縁側からコケて、尾てい骨を強打し、椎間板ヘルニアと

診断され、手術しても完治するのは、50%の確立と言われ、手術は望まず、

しかし、足の痺れや痛みが酷くなる時もあり、今までのお買い物などの外歩きが、

出来なくなってしまったため、父が、シルバー人材センターの仕事も辞めて、

母の通院同行と、買い物など、家事をする暮らしとなっていました。。

 

私たちは、実家から、徒歩で10分ほどの場所に住んでいました。。

 

私もたまに、顔出しは、しますが、これも、年老いていく過程のひとつだとしか、

思っていませんでした。。。

 

部屋の照明が暗いからと、当時、まだ珍しかった、LEDの照明に変えたり、

『洗濯が趣味』だった、母のために、新しい洗濯機を購入したりと、母のことを

考えて、色々と取り組んでいた父でした。。

 

その疲れもあったのでしょうか・・・。

 

 

父は、一度も入院をしたことのない人でした。。

 

8人兄弟の長男で、10代前半で父親を亡くし、母親も、20代後半で亡くしてます。。

 

ですから、私は、父方の祖父、祖母のぬくもりは、知りません・・・・。

 

そんな父ですから、神様も丈夫なカラダにしてくれたのでしょう。。。

 

しかし、転機は必ず来るものです。

 

 

その日の病院からの帰り道・・・・もう、頭の中は、後悔でいっぱいでした。。

 

もっと、こうしておけばよかった・・・あの時、こうしてあげれば、よかった。。。と。

 

明日、父は、帰らぬ人になるかもしれないと、思ったら、それでも、笑顔で、

私に気遣う姿を見たら、初めて泣けてきました・・・。

 

実は、カミさんに連絡したものの、電話が通じず、私が、帰りに近くのスーパーマーケットに

立ち寄った時、偶然と、カミさんと会います。。

 

カミさんは、ニコニコ。。

 

翌日、二人で、旅行に行く予定にしていたからです。。

 

ですが、さすがに、私の顔色を見て、「どうしたの?」と・・・・。

 

実家の母は、姉が、見守ってくれてました。。

 

それから、カミさん、姉と母を連れて、また見舞いへと向かいます。

 

入院手続きなど、色々と済ませ、私の帰宅は、もうその日は、夜中に近かったです。。

 

その晩は、眠れませんでした。。

 

いつ、病院から連絡が来るか・・・・。来ないように願うばかり・・・。

 

 

口数の少ない、職人肌の父でしたから、ふだん、会話をあまりしません。。

ですが、・・・・1日でも元気でいてくれたら、もっと、話をしたい、もっと、触れ合いたい。。

 

 

翌日、面会時間に合わせ、父へ会いに行きます。。

 

私の父への、第一声は、「俺が誰だか、わかる?」 でした。。。

 

父は、「〇〇〇だろ。。わかるに決まっているだろ。。」とニッコリ。。

 

父は、怪我の状態については、一切、伝えられていません。。。

 

大けがをしたことだけは、知っています。

 

父は、自分のことよりも、「お母さんは、大丈夫か?」と。。

 

・・・そういう父です。。

 

 

それから、休みの日も仕事の日も、毎日、見舞いに行きました。。

 

鬚が伸びれば、父愛用の電気カミソリを持参して、2日に一度は、

私が、剃ってあげました。。

 

まだ、手にチカラが入らず、自分ではできません。。。

 

照れくさそうですが、どこか、うれしそうにしてた父の顔は、今でも覚えています。。。

 

「お~。サッパリしたよ。。ありがとう。。」と、言ってくれました。。

 

・・・その後、父が話してくれたのですが、どうも、そういう私の態度を見て、

「息子さんを紹介してください。」と食事業者の女性や、看護婦さんがいたよと。。

 

父は、自慢げに、「ダメよ。ちゃんと、可愛い嫁さんがいるからね~。」と

断っていたそうです。。(笑)

 

そんな会話が出来るようになったのは、入院生活、後半の頃でした・・・。

 


消耗品も、看護婦さんや担当の方と会話して、補充もすべて、私がやりました。。

 

 

命は助かりましたが、2~3日は、幻覚症状が出る可能性があると先生に言われ、

まさに、2日後に、病院から連絡があります。。

 

「お父様が、暴れていて、抑えることができない。。息子さん、すぐ来てください!」と。

 

夕方に見舞いに行った時は、何ともなかったのです。。

 

病室へ行くと、ベッドの上に立ち上がり、何か叫んでました。。

 

私が行くと、興奮が収まってきたので、事情を聴きます。。

 

「悪い奴らが、来ている!ほらそこ!オレが、みんなを助けないと!」と、

天井を指さすのです。。。

 

もちろん、何もありません・・・。

 

「〇〇連隊で、○○で戦ったことがあるから、オレがやっつける!」と。

 

・・・父は、昭和一けた後半の生まれですから、戦争には、行ってません(苦笑)

 

どこの怪我も困りますが、カラダをコントロールしている、頭の怪我は、

本当に気をつけたほうがいい。。と実感した時間でした。。

 

 

リハビリも済ませ、退院となったのですが、まだ、今までのように、自転車には

乗れません。。歩くのもやっと。。。買い物なんて無理です。。

 

そこで、退院の数日前、先生へ相談し、介護の申請を行うことを病院の担当者さんから、

色々と教えていただきました。。

 

 

それから、そこの施設の方とは、ご縁があり、父が亡くなり、母との同居で、

またその母が、認知症介護となる時まで、お世話になることになります。。

 

 

それまで、介護という言葉は、知っていても、身近にどういう施設があり、

担当エリアなども決まっているとか、色々な決め事があることなど、まったく

知りませんでした。。。

 

 

思い起こせば、父の転倒での入院、退院後のサポートとして、介護施設の方々と

お付き合いすることとなったのです。

 

父母の介護認定審査の結果待たず、直ぐにサポートできるよう、配慮してくださったり、

とにかく、生活を止めない、不自由させないという意識がとても強い担当の方でした。

 

初めて、接して、病院の先生や看護師の方々もありがたいですが、介護士の方々の

対応に、予想以上のありがたさを感じた時間でした。。

 

 

 

今回は、序章まで・・・・・。

 

また、その後の介護の大切さ、ありがたさは、別の日に綴りたいと思います✨

 

 

本日も最後までのお付き合い、ありがとうございました🌈