今回は「煩悩」について解説します。


煩悩はなぜ108個なのか、一体、何があるのか、について話します。


まずは、この図をご覧ください





赤字が108個の煩悩です。
ざっと並べてありますが、煩悩は色んな種類があります。



108の煩悩は、まず「九十八随眠」と「十纏」に分かれます。98個の随眠と10個の纏なわけです。ちなみに随眠は「ずいめん」です、「ずいみん」ではありません。



「十纏」は「根本煩悩」ともよばれる「随眠」に付随して起こる二次的な「枝末煩悩」の内最も重い10個の煩悩です。「十纏」は「無慚(むざん)=自分に恥じらいの無い事」、「無愧(むき)=他人に恥じらいの無い事」、「嫉(しつ)=ねたみ」、「慳(けん)=ものおしみ」、「悔(け)=後悔する心」、「眠(みん)=睡眠」、「掉挙(じょうこ)=躁状態」、「惘沈(こんじん)=鬱状態」、「忿(ふん)=思い通りにならない事への怒り」、「覆(ふく)=自分の罪を隠す事」の10個の煩悩です。




「九十八随眠」は大きく「見所断(真理すなわち仏法を理解して断ち切れる煩悩)」と「修所断(修行で断ち切れる煩悩)」に分けられます。そして、「見所断」は4つに分けられ、「見苦所断(けんくしょだん)」「見集所断(けんじゅしょだん)」「見滅所断(けんめつしょだん)」「見道所断(けんどうしょだん)」となります。この4つはそれぞれ「苦諦(くたい)=この世は苦である」「集諦(じったい)=苦の原因は煩悩である」「滅諦(めったい)=苦を滅すれば理想の境地に行ける」「道諦(どうたい)=八正道が苦を滅する道である」という4つの心理(苦滅集道)に基づいています。更に、この4つのそれぞれは「欲界(欲望の支配する世界)」「色界(清らかな物からなる世界)」「無色界(物質の無い精神的な世界)」の3つに分かれます。




ちなみに「八正道」とは、釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる「正見(しょうけん)=四諦を正しく理解する事」「正思惟(しょうしゆい)=ただしく考え判断すること」「正語(しょうご)=嘘、無駄話、仲違いさせる言葉、粗暴な言葉を離れること」「正業(しょうごう)=殺生、盗み、社会道徳に反する性的関係を離れること」「正命(しょうみょう)=道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って、人として恥ずかしくない生活を規律正しく営むこと」「正精進(しょうしょうじん)=すでに起こった不善を断ずる、未来に起こる不善を生こらないようにする、過去に生じた善の増長、いまだ生じていない善を生じさせる、という四つの実践(四正勤)について努力すること」「正念(しょうねん)=四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいること」「正定(しょうじょう)=正しい集中力を完成させること」の、8種の徳のことです。



話を戻しましょう。



見苦所断、見集所断、見滅所断、見道所断、修所断の5つに分ける考え方を「五部(ごぶ)」とよび、「欲界」「色界」「無色界」の3つに分ける考え方を「三界(さんかい)」と呼びます。



これで「九十八随眠」は五部×三界で15個に細分化されました。この15ブロックにそれぞれ「随眠」とよばれる煩悩が振り当てられています。15ブロックの「随眠」の総数が98個なので「九十八随眠」なのですが、各ブロックに均等に「随眠」があるわけではありません。振り当てはバラバラです。



「随眠」とは根本煩悩のことで、これも10種類に分けられます。大きく分けると以下の通りで、「貪(とん)=むさぼり」「瞋(しん)=いかり」「癡(ち)=おろかさ」「慢(まん)=おもいあがり」「見(けん)=誤った見方」「疑(ぎ)=うたがい」の6つを総称して「六随眠」と呼びます。この中で「見」はさらに5つに分かれる(五見)ので、全部で10種類となり、この10種類を総称して「十随眠」と呼びます。



すなわち、この15ブロックに「十随眠」から何個かが割り振られることになります。その振り方は、それぞれの煩悩の性格と、ブロックの性格によって決まります。



まず、「見所断」には「十随眠」のすべてが含まれますが、「修所断」に含まれるのは「貪・瞋・癡・慢」の四つだけです。というのは、「五見」と「疑」は知情意のうち理知的な側面にのみ関わるため、真理を理解することによって断ち切られるからです。それに対して、残りの四つは情と意に関わるため、真理を理解するだけでなく、修行(瞑想)の実践が必要となります。



また、「欲界」には「十随眠」すべてがありますが、「色界」「無色界」には「瞋」がないとされます。「欲界」「色界」「無色界」はこの順に悟りの境地に近づいて行くので、「思い通りにならないからといって腹を立てるようなこと(=瞋)」は、修行の初期段階で、つまり「欲界」の段階でなくすべきものだということのようです。



「五見」は、「有身見(うしんけん)=実体的自我があるとする我見(がけん)と一切のものが我に属するとする我所見(がしょけん)を合わせたもの」「辺執見(へんしつけん)=自我は断絶するあるいは死後も常住であると一方の極端に偏る考え方」、「邪見(じゃけん)=因果の道理を否定する考え方」「見取見(けんじゅけん)=自らの見解だけを最高とし他の見解を誤りとする考え方」「戒禁取見(かいごんじゅけん)=誤った戒律や誓いを守ることで解脱が得られるとする考え方」の五つの誤った考え方です。



「五見」のうち、「有身見」と「辺執見」は、自分という存在が縁起によって生じた無常・無我なるものである、つまり「苦諦=この世は苦であるという真理」についての誤った見解なので、「見苦所断」にのみ含まれます。



また、「戒禁取見」は誤った見解に基づく戒律や禁制が悟りに至る道だと執着する見解で、八正道すなわち「道諦=苦を滅するには八正道がその道であるという真理」の否定ですから、「見道所断」に含まれます。また、その誤った見解や戒律・禁制は縁起によって成立した無常・無我なるものであり、その無常・無我なるものを絶対的なものとして執着しますから、「見苦所断」にも含まれます。



「邪見」は縁起・因果応報の否定で、「四諦=苦諦、滅諦、集諦、道諦」すべてを否定しますから、「見苦所断・見集所断・見滅所断・見道所断」すべてに含まれます。また、「見取見」は「四諦」ではない誤った見解をもっとも優れていると見なすわけで、やはり「見苦所断・見集所断・見滅所断・見道所断」すべてに含まれます。



このようにして、各ブロックに「随眠」を割り振っていきます。それが、この図になるわけです。各ブロックに所属する「随眠」は横に一列に並んでいます。



赤字が「煩悩」そのものです。「九十八随眠」と「十纏」を足すと「108」となります。除夜の鐘は、梵鐘を108回打ち鳴らすことで、この煩悩を滅するという意味を持っているのですね。



除夜の鐘が108回である所以は、煩悩の数という説以外にも複数あります。108回以上打ち鳴らすところもありますから定説ではありませんが、煩悩は確実に108個あります。






これを読んで頂いたみなさんには、クリスマスが如何に煩悩塗れかよく解って頂いたかと思います∩(>◡<*)∩


クリスマス?知らない子ですね…



【参考サイト】
莫令傷心神 http://rokkonshojo.blog98.fc2.com/blog-entry-49.html