前回の記事で、学祭の話をした。


その時に出逢った、2人の内、1人の話をしたいと思う。






お昼も過ぎたころ、一人の男性が私たちのブースに近寄ってきた。


ひょろりとした学者タイプの見た目。


大きなメガネを掛けていた。


年齢は30代後半から40代前半といったところだろうか。


その人は私にこう話しかけた。


「これは人工生命とかの研究ですか?」


話しぶりから、理系チックな雰囲気を受けた。


この人は理科系専門の研究者なのかもしれないな、そう感じた。


「いえ、どちらかというと、遺伝子工学の研究です」


私たちの研究は遺伝子工学を用いた研究である。


遺伝子を切ったり貼ったりする「遺伝子組換え」技術を用いたものだ。


一応、「合成生物学」という名前を表題として掲げている。


合成生物学についてはWikipediaをご覧いただきたい。→合成生物学


ついでに私たちが参加している国際大会iGEMの内容もWikipediaを一読してもらいたい。→iGEM






質問をしてきた男性はこう続けた。


「ナノマシンとかですか?」


私は「生物ロボットという名前を用いる分野もあるようです」と応えた。


私たちが行っている研究は、遺伝子組換え技術によって菌体に新しい能力を付与するものである。


よく解らない説明だが、簡単に言えば、大腸菌に本来無い遺伝子を入れて、新しいことが出来る大腸菌を作り出すのだ。


これだけ聞くとマッドな感じだが、用途は広く、工業や医療に応用されている。


この技術は生命科学研究の基礎となるものである。


そして、こうして作った新しい遺伝子を「遺伝子回路」と呼び、菌体を「ロボット」と呼ぶ人たちもいる。


iGEMという大会名も「The International Genetically Engineered Machine competition」の略である。


あくまで「Machine」の大会なのである。(この単語のニュアンスを日本語で表現するのは難しい…)


だから「ナノマシン」といえば、そう呼べないこともないのである。


しかし、ナノマシンは分子レベルで構造をくみ上げていくものであり,厳密には大きく違う。







その人はこういう。


「そうなのですか。ナノマシンの技術自体は20年前から、少し無理じゃないかという感じが業界内にありまして」


よくよく聞いてみると、以下のようである。


この男性の話は「実際に人体に入れて使える『ナノマシン』の開発について」であった。


つまり、ナノマシンを体内に入れて、ガンなどの病気を治せないか、ということである。






癌細胞は体内にできる正常ではない異常な細胞である。


無秩序に増殖し、様々な影響を体に与える。


癌を治すには、癌ごとゴッソリ切除する方法もあるが、転移したり、大きすぎたりすれば切れない。


その際に化学療法や放射線療法が用いられるのだが、ピンポイントで癌だけやっつけるのは難しい。


治療によって正常細胞までやられてしまうと副作用が出てしまう。


癌細胞だけをやっつけて、正常細胞は傷つけないとなると、ナノマシンとかいう話が出てくるのだ。


体内に入って、血液に乗って、癌の場所まで行って、癌細胞にだけ、薬などを「ちゅ~」っと注入すれば、正常細胞は守られる。


しかし、男性の言うことには「そういうのをナノマシン開発という名目でするのは難しい」ということなのだ。


そこで、興味を抱いたのが「合成生物学」という遺伝子工学の分野ということになる。


ナノマシンのような役割をする新しい生物を作ってしまえば、生物ロボットのようなものができるということだ。


そこには沢山の解決するべき内容があるが、生物は手間のかかるプロセスを自動的にこなしてくれるメリットがある。


ある蛋白質を作ろうとすれば、アミノ酸を一個ずつ繋げれば良いと考える。


しかし、その蛋白質の遺伝子を大腸菌に入れてしまえば、大腸菌は蛋白質をたくさん作ってくれる。


コスト面でも非常に安上がりである。


そして、生物は勝手に動いてくれる。


小さな機械としての「ナノマシン」ならば、センサーやらモーターやらを装備しないといけない。


しかし、生物は既に備わっている機能でもあるのだ。


だから、生物由来のデバイスを作ろうとするのは理にかなっているといえる。






メガネを掛けた男性はこう言った。


「私の父も、祖父も、癌だったのです。だから、私も癌になるかもしれない」


この人の本質はまさしく、この言葉の中にあった。


「私が父と同じ時に癌になるならば、あと30年。それまでに『ナノマシン』による治療は出来ているでしょうか」


ああ、この人は死にたくないのだな、と思った。


私は、笑って、そうなるといいですね、としか言えなかった。