先日チングから、「そういえば“悼む人”は読んだ?」と聞かれ一瞬ポカ~ン。
はうっ、
読もうと思ったことも言ったこともすっかり忘れてた。
チングは半年位前に図書館で予約をしたものがやっと順番が回ってきたらしく、予約したことすら忘れていたらしい。
そんな話を聞いて取り合えず予約だけでもしておこうかと我が町の図書館に寄ったら、一冊ありましたヨ。
んむー。
主人公の家族も記者の人もすごく良かったんだけどなあ。
どうも嫁の肩に死んだ旦那が乗っかりだしたあたりから違和感。
肩に乗るのは構わないんだけど、旦那の「願い」が私には理解出来なかった。
ただね、必要かどうかはともかく、『悼む人』がしようとしている故人の悼み方については
『ラブリーボーン』のスージーが最後に願ったことを考えれば肯定出来るような気がしたんですよ。
そんな風に感じたのもこの映画を見た後遺症なんだろうなあ。
スージーの身に起きたこともショックだったんだけど、
それ以上に最後に彼女が願ったことが私にはショックだった。
きっと、悪い奴は捕まってめでたしめでたし。という勧善懲悪的なエンディングを願い、また信じていたんだろうな。
まったくおめでたい。
見事に裏切られ打ちのめされましたよ。
でも、時間が経って思うのはこれが正解だったんだろう、ということ。
現場にテープが張りめぐらされて、後ろ手に手錠をされた男が警官に連れて行かれる姿でも見れば少しは気持ちも治まっただろうけど、こんなに心には残らなかった筈だもの。
(やりきれないけど、後にあたたかい何かが残った)
勿論原作があってのことで、
スージーの言う、“美しい骨”が育っていく過程を描いてくれたのが
ピーター・ジャクソンで良かったとしみじみと思うんだなあ。