寺田ヒロオの世界1
寺田ヒロオ先生とさいとう・たかを先生
さいとう先生が、藤子A先生関連の著作でのインタビューで、「寺田さんとは一面識もないのに、見ず知らずの私に、突然手紙が来て、こんな低俗な漫画書くな、と延々と説教された。けったいな人だ、結局、一度もお会いしなかった。」と、述べられています。
寺田先生は、なぜ、一面識もなかったさいとう先生にこんな失礼な手紙を送ったのか?
これは、さいとう先生の発言からして、昭和36年頃、寺田先生は「スポーツマン金太郎」で人気絶頂だった頃、さいとう先生は、さいとうプロを設立した頃の出来事と推測します。
さいとう先生は、ごく一般的な常識を持った人、寺田先生にあった事もないんだから、けったいな人だと呆れ、怒るのも無理のないことです。
一方、寺田先生は、自分の理想を持たれた人、特に、雑誌「漫画少年」は、自分の理想とする雑誌、まして、同誌に連載した「漫画つうしんぼ」を非常に大切にされていました。変わっているかもしれませんが、純粋な人です。
さいとう先生によると、この「漫画つうしんぼ」に投稿され、ところが、掲載されたけど、悪い見本の例として掲載された。
一方、寺田先生から見れば、「漫画つうしんぼ」に投稿してきた人は、漫画を愛する、仲間、もしくは弟子みたいな人。さいとう先生に送った手紙は、仲間もしくは弟子に対しての、純粋な善意あるアドバイスの気持ち以外の何物でもないものだったのかもしれません。
一般的には、さいとう先生の常識、寺田先生の非常識と言えるのでしょうが、その当時はともかく、後年、寺田先生が、この連載で指導する立場にあった事を知れば、又、これから私の書く理由により、さいとう先生には、インタビューに対し、この発言はして欲しくなかったなというのが、私の正直な気持ちです。
いずれにしても、さいとう先生がこの手紙に対して、心の底から立腹され、それ以降、その怒りは継続したものと考えられます。
言ってみれば、水と油の関係です。
それから20年後(昭和56年)、さいとう先生は、国民的人気の劇画家となりました。一方、寺田先生は、単発的に作品を発表できる程度の漫画家となっていましたが、この年、寺田先生は、ライフワークとも言える「漫画少年史」を刊行します。
この「漫画少年史」に、寺田先生は、当時「漫画少年」に関わった投稿家を始めとする関係者へ出稿を求め、この原稿集に多くのページが割かれています。しかし、この本に、さいとう先生は投稿されておりません。寺田先生が投稿を求めなかったのか、さいとう先生が投稿を拒否したのかは不明です。
この年、この著作の出版を記念し、「漫画少年」を語る会が開催され、漫画界と少し距離を置いていた寺田先生も出席されました。

ところが、その日のパーティーの後に開催された、ごく親しい約20名が集まった2次会にさいとう先生も出席されているのです(寺田先生の「私のまんが道」による)。さいとう先生は、トキワ荘出身の仲間の先生の誘いに乗って気楽に出席されたのでしょうが、寺田先生は、その時出席された方々に、感謝の気持ちを述べられています。


これって、見ず知らずじゃ、ないですよね。
それだからこそ、さいとう先生には、気持ちを押さえて、この発言は、して欲しくなかったのです。寺田先生が亡くなってずいぶんになる、もう言ってもいいかな、という気持ちだと思うのですが、成功して、発言の機会がある人、発言しようにも発言の機会を持てない人。
寺田先生の気持ちをおもんばかって、この文章を、書いてみました。