「貝殻の残響」

海沿いの町はいつも塩の匂いがした。風が古びた木造の家々を揺らし、波音がどこか遠くで呟いている。佐倉美緒は桟橋の端に立ち、色あせたグレーのトレンチコートを風に靡かせていた。左手の貝殻の指輪を指先で擦りながら、空を見上げる。灰色の雲が低く垂れ込め、雨の気配が濃い。彼女の黒髪は肩に乱れて落ち、まるでこの町の寂れ具合を映しているようだった。

「偶然なんてないよ」と美緒は呟いた。誰もいない桟橋で、ただ自分に言い聞かせるように。

10年前、この町で幼馴染の彩花が消えた。あの日もこんな天気だった。美緒と彩花は桟橋で貝殻を拾いながら笑っていたのに、ふと目を離した瞬間、彩花の姿はなくなっていた。波にさらわれたのか、誰かに連れ去られたのか。美緒には分からない。ただ、彼女の手元には彩花がくれた貝殻の指輪だけが残った。

最近、町で失踪事件が続いている。高校生の少女が、若い漁師が、そして昨日は小さな男の子まで。町民は口を揃えて「海の呪いだ」と囁くが、美緒は信じない。偶然なんてない。彼女は10年間、彩花の失踪を追い続け、今では探偵まがいの仕事を請け負うようになった。今回の事件も、きっと繋がっている。そう確信していた。

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美緒が町の小さな喫茶店に入ると、カウンターに座る男が目に入った。地元の刑事、田中だ。50代半ばで、白髪交じりの髪と疲れた目が特徴的だった。彼は美緒を見ると、ため息をついて言った。

「またお前か。いい加減、過去に縛られるのはやめな」

「過去に縛られてるのはあんたも同じでしょ」と美緒は皮肉っぽく返した。「彩花の事件、あんたが担当だったよね。何も解決できなかったくせに」

田中の顔が一瞬こわばったが、すぐに目を逸らした。「今回の失踪は別だ。海に近い場所で起きてるだけさ」

「偶然なんてないよ」と美緒は呟き、貝殻の指輪を擦った。田中が知らないはずはない。あの事件以来、彼も町を出られずにいるのだ。

喫茶店のテレビがニュースを流していた。男の子の母親が泣き崩れ、「海に連れていかれた」と訴えている。美緒は立ち上がり、トレンチコートを翻して店を出た。田中が何か叫んだが、彼女は振り返らなかった。

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その夜、美緒は海辺の倉庫街に足を踏み入れた。失踪した男の子の靴が近くで見つかったと聞きつけたからだ。懐中電灯の光を頼りに歩く。波音が近く、風が冷たい。すると、倉庫の陰からかすかな音が聞こえた。金属が擦れるような、奇妙な響き。美緒の耳がそれを捉えた。彼女は幼い頃から「海の音」を聞くのが得意だった。波や風の中にかすかに混じる異音を、いつも彩花と一緒に探したものだ。

音を辿ると、錆びた倉庫の裏にたどり着いた。そこには古い漁船が放置され、船底に小さな扉があった。美緒は息を呑み、扉を開けた。中は暗く、湿った空気が鼻をつく。階段を下りると、地下室のような空間が広がっていた。そして、そこにいたのは――男の子だった。縛られ、口を塞がれている。美緒が駆け寄ろうとした瞬間、後ろから影が動いた。

「動くな」と低い声。振り向くと、ナイフを持った男が立っていた。40代くらい、瘦せた体に漁師らしい服。目が異様にぎらついている。

「お前、何者だ?」男が唸る。

「偶然じゃないよね」と美緒は呟き、冷静を装った。「失踪した人たち、ここにいるんでしょ」

男が笑った。「海の呪いってのは便利だ。誰も疑わない。俺が金のために連れ去って、船で売ってるなんてな」

美緒の心臓が跳ねた。彩花もこうだったのか? 男がナイフを振り上げる瞬間、彼女は懐中電灯を投げつけた。男がよろめく隙に、男の子を抱えて階段を駆け上がる。背後で男が叫び、追いかけてくる。倉庫を出た瞬間、雨が降り始めていた。美緒は男の子を地面に下ろし、「走って!」と叫んだ。

男が倉庫から飛び出し、美緒に襲いかかった。ナイフが肩をかすめ、血が滲む。彼女は痛みに耐え、男の足を蹴って倒した。雨が強くなり、視界がぼやける。男が立ち上がろうとしたとき、遠くからサイレンの音が近づいてきた。田中だ。美緒が喫茶店で田中に倉庫街の話を漏らしていたのを、彼は覚えていたらしい。

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翌朝、雨が止んだ海辺で、美緒は一人立っていた。男は逮捕され、地下室から他の失踪者たちも救出された。だが、彩花の痕跡はなかった。美緒は貝殻の指輪を見つめ、唇を噛んだ。田中が近づいてきて、肩に手を置いた。

「お前が正しかったよ。あの事件も、もしかしたら……」

「偶然なんてないよ」と美緒は呟き、指輪を外した。そして、それを海へと投げた。小さな貝殻が波に飲み込まれ、消える。彼女は涙をこらえて笑った。「さよなら、彩花」

波音が響き、町はまた静けさに戻った。美緒はトレンチコートを翻し、歩き出した。どこへ行くのか、自分でも分からない。ただ、もう過去に縛られるのは終わりだと思った。