【昔から事故だらけの原発 1976年~の事故】
被ばくの大内さん死亡 原子力施設事故では初
東海村臨界事故で大量の放射線を浴び、重症となっていた核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)東海事業所社員、大内久さん(35)=茨城県金砂郷町大里=が21日午後11時21分、多臓器不全のため東京都文京区の東大病院で死亡した。9月30日の事故発生から83日目。
被ばくによる急性放射線障害での日本人の死者は1954年、米国のビキニ水爆実験に遭遇、死の灰を浴びた第五福竜丸無線長、故久保山愛吉さん=当時(40)=以来。国内の原子力関連施設事故では初めてで、原子力開発が根本的な見直しを迫られるのは必至だ。
臨界事故の人的被害は死者1、重症被ばく者2、その他の公表被ばく者66人となった。茨城県警は業務上過失傷害から業務上過失致死傷に容疑を切り替えて捜査を進める方針。遺体は22日未明、主治医の立ち会いの下で検視後、司法解剖され、同日午前、無言の帰宅をする予定。
小渕恵三首相は「ごめい福をお祈りする。政府として、事故原因の徹底究明などに取り組んでおり、原子力安全対策と防災対策の抜本的な強化のため、さらに格段の努力を傾注する」との談話を発表。中曽根弘文科学技術庁長官が、東大病院を弔問した。
大内さんと篠原理人さん(40)、横川豊さん(55)の社員3人は9月30日午前10時35分ごろ、JCO東海事業所の転換試験棟で、ステンレス製バケツなどを使ってウラン溶液を沈殿槽に移す作業中に臨界を引き起こし、被ばくした。
3人は千葉市の放射線医学総合研究所(放医研)で治療を受けた後、大内さんと篠原さんが東大病院と東大医科学研究所病院にそれぞれ転院した。大内さんの被ばく量は広島、長崎の原爆爆心地並みの17シーベルト、篠原さんは8シーベルトと推定された。
大内さんはリンパ球や白血球の著しい減少が続き、造血機能を回復させるため10月6、7日、被ばく医療では世界初の末しょう血幹細胞の移植を受けた。しかし白血球は増えたものの全身状態は改善せず、11月27日には約1時間10分にわたって心停止した。
その後も予断を許さない状態が続き、今月19日ごろからは昇圧剤を増やし辛うじて血圧や脈拍を維持する危篤状態となっていた。
当初、意識障害など重い症状を示した篠原さんは比較的安定した状態が続き、放医研に入院していた横川さんは20日朝退院した。
(共同通信 1999/12/22)