【昔から事故だらけの原発 1976年~の事故】
初の臨界事故、制御不能 2人が原爆並み被ばく
茨城県東海村の核燃料加工会社ジェー・シー・オー東海事業所で30日午前、放射能が漏れて社員3人が重度の被ばくをした事故は、日本初の臨界事故で、国内原子力施設事故で初めて、30万人以上の住民が避難や屋内退避する事態に発展した。
敷地内などでは同日夜、放射線レベルが推定で通常の2万倍に達し、原子力安全委員会は同日夜になっても、施設内で核反応が止まらず、臨界が続いているとの見解を示した。橋本昌茨城県知事は、1日午前1時18分、陸上自衛隊に災害派遣を要請した。
社員の被ばく量は、少なくとも8シーベルトと原爆被爆に匹敵し、2人が重症。事業所内にいた同社社員11人と、近くの建築現場にいた作業員5人も被ばく、被ばく者は計19人になった。原因は作業上の判断ミスの可能性が大きく、事故対策も手付かずで、日本の原子力事故で最悪となった。
政府は、対策本部を設置、本部長の小渕恵三首相は「厳しい事態と判断される」と内閣を挙げて、万全の対策を取るよう指示。状況次第で退避要請の範囲を拡大する。
同社などによると、核分裂反応の時に出る中性子の値が、工場敷地内で30日夕から午後9時すぎになっても、通常の1万-2万倍の放射線量に当たる1時間当たり3ミリ-4ミリシーベルトを記録。事故直後、周辺の舟石川測定所などで空間線量率が通常の約7-10倍に上昇した。
茨城県は半径10キロ以内の9市町村住民31万3000人に屋内に退避することを呼び掛け、JR常磐線は水戸-日立間で運転を中止。住民約160人が避難した。文部省は半径10キロ圏の学校に、10月1日を休校とするよう要請した。原子力事故で周辺住民の避難などが行われたのは例がないという。
事故があった東海事業所転換試験棟では、ウラン酸化物を硝酸に溶かす作業中。沈殿槽と呼ばれる容器にウラン化合物を移す際、制限値の2.4キロを超える約16キロの放射性物質を入れ臨界に達したらしい。事故原因について同社は通常は配管を通じて移すところを、社員が手作業で行うなど、作業上の判断ミスの可能性が大きい。
茨城県警によると、重度の被ばくをしたのは同社社員の大内久さん(35)=常陸太田市山下町、篠原理人さん(39)=日立市田尻町2丁目、横川豊さん(54)=ひたちなか市足崎=の3人。最も重症の大内さんは、事故発生直後、施設内に倒れており、おう吐の症状があった。
3人は同日午後、ヘリコプターで千葉県の放射線医学総合研究所に運ばれたが、同研究所によると、大内さんと篠原さんは、少なくとも8シーベルトという大量の放射線を浴びている。大内さんは、重い下痢で、意識障害がある重症。篠原さんにも意識障害がある、という。
科技庁は10月1日未明、沈殿槽の周囲を覆っている容器中の水を抜き、連鎖反応の原因となる中性子を拡散しやすくする対策の検討を始めた。
被ばく者の1人は「約16キロのウランを溶解槽に移している時に青い光が出た」と話している。この施設では核燃料サイクル開発機構の高速増殖炉実験炉常陽のための燃料加工の一部を行っており、扱うウランの濃縮度は19%と、通常の原子炉燃料に比べて高かった。
同社から科技庁などへの連絡は事故発生から45分後で、連絡態勢にも問題を残した。
(共同通信 1999/09/30)