【昔から事故だらけの原発 1976年~の事故】

放射能の影 いまも 死者や子供の病気増加
チェルノブイリ事故で疎開の人々を再訪

1986年のチェルノブイリ原発事故によって住み慣れた村を追われ、疎開した人たちが住むキエフ郊外の村を6年ぶりに再訪した。死者や子どもの病気が多く、10年たっても放射能の影から逃れられない。かだった故郷への思いは消えないが、新しい希望も芽生えつつあった。(ウクライナ・キエフ=竹内 敬二)

電話の故障で連絡がとれず、突然訪問した。庭仕事をしていたスベトラーナ(47)は、手を広げて驚きながら家に招き入れてくれた。キエフ南郊40キロ。国営農場の片隅に同じ形の家が約110戸並ぶ。原発の西40キロにあったボロービチ村から疎開してきた人たちの村だ。原発事故から半月後に強制疎開になり、8月にここに来た。
スベトラーナはここの村ソビエト(議会)の議長をしている。明るい行動的な女性だ。
「きのうも54歳の男性の葬式でした」。10年間の最大の変化は人口の激減だ。疎開時には約360人がいたが、今は235人になった。100人以上が亡くなった。村はずれに新しい墓標が並ぶ。20歳の男性の墓石には「あなたを決して忘れません」という恋人の詩が刻んであった。乳児を残して血液の病気で死んだ21歳の女性もいた。
スベトラーナの夫で医師のユーラ(36)は「血液と心臓の病気が多く、20歳から50歳代の死が目立つ」と話す。「被ばくした子どもの健康状態が悪く、甲状腺(せん)肥大や免疫の低下など、全員に問題がある」。新しい村での誕生は約20人だけだ。健康の心配からあまり子どもを産みたがらないという。
健康の悪化の背景には、生活レベルの低下もあるようだ。この10年でソ連邦が崩壊し、経済危機がきた。近所のオリガ(65)は、「あの事故さえなければボロービチに住んでいたのに」と繰り返す。イチゴやコケモモ、キノコの豊かな森への郷愁は強い。

(敬称略)(朝日新聞 1996/04/08)