【昔から事故だらけの原発 1976年~の事故】

ウラルの核惨事 32年経た汚染地区に入る
今も強い放射能 影響研究のため、立ち入り禁止

「ウラルの核惨事」。西側に亡命したソ連の科学者が70年代に指摘した放射能大量放出事故は少しずつ明らかになってきていたが、ソ連当局が公式にこの事実を認めたのは今年6月になって。32年ぶりにグラスノスチで表舞台に登場した放射能汚染地帯。放射能影響を研究するためそのままの状態に保たれた「立ち入り乗止地区」がこのほど、外国人としては初めて日本人記者団に公開された。(渥美好司記者)

9月20日、南ウラル最大の工業部市チェリャビンスクから記者団を乗せたバスが出発した。都心のアパート群はすぐに姿を消し、北にまっすぐ延びる幹線道の両側は、シラカバ林とすでに収穫が終わり黒土があらわになった畑が続く。
2時間後、枝道に入ると待機していたパトカーが先導。古びた農家の小さな集落を過ぎ、10分ほどで汚染地区の境界にある鉄筋4階建ての研究棟に着いた。
研究棟で靴をはきかえ、手術室の医師のような白衣と帽子を身に着ける。「放射能汚染の心配はありませんが、管理区域に入る時の規則なので」と、研究員。が、不安感は消えず、日本から持参したたばこの箱ほどのポケット線量計をそっと胸に潜ませた。
六輪駆動の地質調査車で汚染地区の入り口ヘ。検問所があり遮断機が道をふさいでいる。警備員のチェックを受けた。詰め所の壁には「国の禁猟区」「徒歩、車とも進入奈止」の掲示。「放射能」の文字はない。
車1台がやっとのでこぼこ道をくねくねと進む。広大なステップ(草原)にシラカバ林が点在するウラル地方の典型的な光景が広がる。どこまでも平たんな土地。快晴。気温15度。澄み切った空気。ノロジカが草原を駆け抜ける姿も目にした。肉眼で見ている限り、汚染のかげりはない。


「禁猟区」の中心付近で車を降りた。爆発現場から15キロ離れている。廃棄物中に含まれていた放射性物質ストロンチウムがたっぷりと降り注いだ場所だ。ライ麦、ジャガイモなどを植えている実験農場。ガンマ線量計を持った研究員が地表に検知管を近付けて数字を読み上げる。1時間当たり50マイクロレントゲン。自然状態の5倍。「この程度なら人体に何の影響もありません」とロマノフ実験研究室長が付け加えた。


周辺には昔、シラカバと同じくらいマツ林があった。しかし、マツは放射能に敏感なため枯死し、ほとんど見当たらない。草原の真ん中に2本のポプラの木が取り残されたように生えている奇妙な光景に出合った。
32年前、そこに70戸ほどの村があった。強い放射能のため、事故後10日の間に村人は土地を離れざるを得なかった。家はブルドーザーで壊されたが、村のシンボルだったポプラの木だけがその場所を示す「標識」として残された。


放射能のせいで村を捨てた住民は1万人を超す。禁猟区以外は表土を取り除くなどの除染作業が終わり、ほぼ自然状態に回復、元の土地で農業を再開した住民もいる。
禁猟区内に直径1キロほどのウルス湖がある。水深2メートルの水底にはストロンチウムが蓄積しており、魚類は放射線を浴び続けている。そんな環境下で、代謝機構が遺伝的に変化した新種のコイが生まれたとの説明。見掛けは何の変化もないが、従来種の致死量の1.5倍の放射線を浴びても死なない「放射能耐性コイ」である。
禁猟区の研究スタッフは生物、医学、地学、放射線などの専門家約400人。一般作業員も含めると1万人近くが大気、土中の放射能の測定、被ばく生物の変化、放射能除去法の研究に取り組んでいる。
研究棟では、牛、豚、羊などを飼い、放射性物質を混ぜたえさを与えて遺伝的影響などを調べている。新種のコイのように強い耐性をもった動物はまだ生まれていないという。


これまでの調査によると、事故後数年間は、植物の葉の巨大化やネズミなど小動物の染色体異常が頻繁に現れた。汚染のとくにひどいホットスポットでは、小動物、昆虫の死体が目についた。年を追うごとに生態系は元の姿を取り戻し、今では奇形はほとんど見当たらない。


被ばくした住民の診断、治療、追跡調査を担当しているのはチェリャピンスク市内にある生物化学研究所。最も被ばく量の多かった住民600人(平均52レム=0.52シーベルト)の調査では、事故直後に白血球数が通常の6割程度まで激減した人が目立った。1年半後には全員もとの数に戻ったという。
「奇形出産やがんの多発はない。放射線が原因とみられる症例は1つもない」と女性の診断部長ガセンコ博士は断言した。


禁猟区内に滞在したのは3時間半。胸からポケット線量計を取り出しデジタル表示を見た。2ミリレム。東京で同じ時間内に受ける自然放射線被ばく量の数十倍だ。年間被ばく限度の100ミリレムよりずっと低いが、汚染地を歩いた痕跡はくっきりと残っていた。


<ウラルの核惨事> 1957年9月29日、南ウラルのキシュチュム軍事核施設で起きた。現在も2基の原子炉が稼働中だが、来年中には廃炉にする計画。事故は、原爆の材料となるプルトニウム生産用原子炉5基から出た放射性廃棄物の貯蔵タンクで起きた。冷却装置が故障し、高放射能液が乾燥、過熱して化学爆発した。タンクから約200万キュリーの放射性物質が放出された。チェルノブイリ事故の25分の1に相当する。幅8-9キロ、長さ105キロにわたる地域が1平方キロ当たり2キュリー以上の放射能で汚染された。このうち20%弱の167平方キロが、生態研究用の「禁猟区」として確保された。


(朝日新聞 1989/10/03)