●目黒川の桜
東京地方は昨日、桜が満開となった。仕事の帰りがけ、桜の季節がやってきた【その2】で紹介した、目黒川のソメイヨシノの夜桜見物と洒落てみることにした。(写真:自分の撮影したものではありません)
17時前に着いた最寄り駅の東急田園都市線・池尻大橋だったが、もちろん普段の土曜日の人出とは言えない。明らかに花見を目的とした人たちで一杯だ。
桜の木の枝が両岸から川面に伸びて川の上に桜がトンネルを作る姿を見ながら、昔行きつけだった川沿いの居酒屋へと向かう。
昨年の10月以来だから、5ヶ月ぶりだ。ちなみに、そのときはそこのママさんが、還暦になったので、お祝いに寄った。
そこで同年輩のアベック客(夫婦?)と話が弾み、19時半まで過ごしたが、最近は酒もあまり飲まなくなったので酔いがまわり、夜桜見物はそこそこにして帰路についた。
目黒川沿いはアベック姿が目立ち、あたかも「アベックの聖地」のような様相だ。花見よりアベック見のような感じなのですごすごと帰った。
それにしても、15年前にこの近くで働いていたころと異なり、目黒川の桜人気は桁外れだ。今日の朝のテレビ番組「サンデーLIVE!!」でも桜名所として全国放映していた。
●桜人気
少し前だが、朝日新聞土曜版beランキング(2015/10/17)に「あなたの好きな木」という記事が載っていた。(図)
1位は(もちろん)サクラ。「日本の春になくてはならない木」(大阪、56歳男性)という理由はほぼ一致していたが、単に花の美しさにひかれたのではなく、その姿に人生を重ね合わせるような印象的なコメントが目立った。「年を重ねるにつれ、あと何回、満開のサクラに会えるだろうかと思う」(徳島、74歳男性)「阪神大震災の避難時に、壊れた住宅の庭に立っていた一本のサクラに、感激したことがあります」(兵庫、66歳男性)という。
●昔は桜より梅が人気
古来より日本人に大切にされてきた桜だったが、時代の流行に押され、奈良時代には「梅」(写真)が主流となった時もあった。
奈良時代の花鑑賞といえば、中国文化、交易の影響で「梅」を指していた。香立つその花は珍重され、貴族たちの間では造園する際、梅を入れることが定番だった。
その人気ぶりをうかがえるのが、『万葉集』に詠まれた梅の数だ。桜を詠んだ歌は43首に対し、梅を詠んだ歌は110首。梅は桜の倍以上詠まれている。
【万葉集で詠まれた「桜」】
●あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも 山部赤人『万葉集』
●あしひきの山桜花一目だに君とし見てば我れ恋ひめやも 大伴家持『万葉集』
●桜花今盛りなり難波の海押し照る宮に聞こしめすなへ 大伴家持『万葉集』
●あしひきの山桜花一目だに君とし見てば我れ恋ひめやも 大伴家持『万葉集』
●桜花今盛りなり難波の海押し照る宮に聞こしめすなへ 大伴家持『万葉集』
当時の貴族の優雅な風習といえば、中国からやってきた梅を見なが歌を詠む会を開き、これが現在の花見の原型になったといわれている。
ところが、平安時代になると梅と桜の人気が逆転する。
桜ブーム到来は、和歌にも表れている。平安初期に作成された『古今和歌集』には、梅を詠んだ歌は18首程度に対し、桜を詠んだ歌は70首となっている。
【古今和歌集、新古今和歌集で詠まれた「桜」】
●世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平『古今集』
●ひとめ見し君もや来ると桜花けふは待ちみて散らば散らなむ 紀貫之『古今集』
●久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則『古今集』
●いま桜咲きぬと見えてうすぐもり春に霞める世のけしきかな 式子内親王『新古今集』
●よし野山さくらが枝に雪降りて花おそげなる年にもあるかな 西行法師『新古今集』
●ひとめ見し君もや来ると桜花けふは待ちみて散らば散らなむ 紀貫之『古今集』
●久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則『古今集』
●いま桜咲きぬと見えてうすぐもり春に霞める世のけしきかな 式子内親王『新古今集』
●よし野山さくらが枝に雪降りて花おそげなる年にもあるかな 西行法師『新古今集』
●花見の風習の始まり
記録に残る日本初の花見は、嵯峨天皇(786-842年、画像)が主催した。『日本後記』によると、812年、神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したと記されている。このときにはすでに、花見の対象は梅ではなく桜になっていたと考えられる。831年からは、花見が天皇主催の定例行事となり、その様子は『源氏物語』にも窺い知ることが出来る。
歴史上、宴会型の盛大な花見が初めて行われたのは安土桃山時代である。
特に、豊臣秀吉が行った「吉野の花見」や「醍醐の花見」は有名。
「醍醐の花見」(写真)は、1598年、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴。豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1,300人を召し従えた盛大な催しで、九州平定直後に催された北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として知られる。
徳川家康、前田利家、伊達政宗といった、当時の有力な武将も多く呼ばれ、記録によると、この花見は5日間続き、本陣がおかれた吉水神社では連日のように茶会、歌の会、能の会が開かれたという。
江戸時代になると、一般庶民も花見を楽しむようになった。
3代将軍徳川家光は、徳川家の菩薩寺となる寛永寺に、多くの吉野の桜を植えたことで有名。
庶民が花見をする場所を作ったのは、8代将軍の徳川吉宗だった。1720年に浅草(墨田川堤)や飛鳥山に大規模な桜の植樹を行い、庶民が桜を楽しむ場を提供した。
そして、農村部に積極的な桜の植樹を促進し、東京の桜の見どころの基礎を築いたとされている。農村に桜の名所が作られると、花見客による農民の収入が増えることを見越した策だった。
■桜(花)を使った言葉
日本では、古来「花」の一語が、特に俳句や和歌の世界においては「桜」を意味する例が見られる。
・桜雲…桜の花が一面に咲きつづいて、遠方からは白雲のように見えること。花の雲。
・花明り…桜の花が満開で、そのあたりの闇がほのかに明るく感ぜられること。
・桜人…桜をめでる人。花人。
・花疲れ…花見をして疲れること。
・花吹雪…花びらが、あたかも雪がふぶいているかのごとく舞い散るさまのこと。
その後、被害者や共犯者など関係者が全員揃った場所(多くの場合、夜の黒幕の屋敷)に乗り込み、突き止めた悪事の数々を言い立てる。しかし悪人たちは金さんをただの遊び人と見下し、悪事を全て認めたうえで、被害者と共に抹殺しようとする。ここで金さんは「この金さんの桜吹雪、見事散らせるもんなら散らしてみろぃ!」などと啖呵を切って片肌を脱ぎ、桜の彫り物を見せつける。
続く。