4歳〜6歳ごろの話。

 

 

僕は、4歳になってから保育園に通うようになった。

 

 

少しずつ自分にできることが増えた。

僕はとにかく「マネ」をするのが好きだった。

 

 

 

 

ばあちゃんが掃除をしているときは、

ばあちゃんのかける掃除機の後ろをついて真似したり。

 

 

じいちゃんが家の畑で仕事をしているときは、

じいちゃんがやってることを横で真似したり。

 

 

おじとおばの家に預けられているときも、

おばが晩御飯の支度をしているから、

一緒に料理をしたり。

 

 

 

 

 

今でも当初からの性格は変わらず、

とにかく好奇心旺盛だった。

 

わからないことは何でも「どうして?」と

周りの人に尋ねていた。

たぶん、その質問の頻度は周りの人を

困らせていたであろうと思う。

 

 

好奇心が人一倍強かったからか、

4歳のころにはもう「ひらがな」を読んだり書いたりできた。

アルファベットを読むこともできた。

 

 

 

 

そんな僕はある日、仕事が休みで

じいちゃんとばあちゃんの家に来てくれた母と

一緒にうどんを食べた。

 

 

母と共に食事をすることはあまりなかったから、

少し緊張していた記憶を今でも覚えている。

 

 

 

 

 

そして、一緒に食事をし、僕はまた母のマネをして、

食べたうどんのお皿を自分で台所にさげようとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

褒められたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

けれど、失敗してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たまたまつまずいてしまい、持っていたうどんの

お椀をひっくり返してしまい、つゆをカーペットに

こぼしてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悪気はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母もきっとそのことは当時わかっていた。

けれど、当時24歳だった母は、仕事のことや

自分のうまくいかない毎日に苛立っていたせいなのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すごく怒った。

とにかく怒られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怖かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すごく怖かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうして僕の中で母という存在は、

徐々に「恐ろしい」存在になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幼いながらにして、僕は少しずつ精神が

おかしくなっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

今思うと、何かとストレスだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなストレスは、保育園であらわれるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お昼にでてくる保育園の給食。

ごはんがノドをとおらなくなっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じいちゃんやばあちゃんと

一緒にごはんをたべていても、

なんら起きない症状。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だけれど、保育園での給食は、

ノドがとおらなくなった。

 

 

 

 

 

 

どんなに小さく飲み込んで食べても、

気がついたら吐いてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんでそうなってしまうのか。

当時の僕にはわからなかった。

 

 

拒食症に近いような症状だったのかもしれない。

けれど、とにかく毎日、食べても吐いてということを

繰り返すようになってしまった。

 

 

 

 

先生は「給食を残してはいけない」という。

だけれど、食べたら戻してしまう。

 

 

 

 

次第に僕の中で保育園での給食は

地獄にすら思える時間へとなっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして保育園の先生が僕の母へSOSを出してくれた。

 

 

 

 

 

 

 

「お子さんの様子が変なんです。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

異常を理解してくれた母。

それ以来、母はじいちゃんとばあちゃんの家で

僕と一緒に過ごしてくれるようになった。

 

 

 

 

 

母は水商売の仕事をやめて、

パートの仕事をがんばった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎晩のように僕に絵本を読んでくれた。
トムとジェリーを見て、一緒に笑った。
休みの日には僕と朝から夕方まで、
お弁当持って、海に行ってくれた。

 

 

母と過ごした記憶で一番楽しかったことは、

近くにできたコンビニへ一緒に行く買い物。

 

 

 

一緒にビデオをみたりするときに食べる

おやつを買いによく出かけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつもそのとき、母は小銭入れだけもっていった。

特によくお金の価値はわからなかったけれど、

母に対して僕はよく、

 

 

 

ママ!ビンボーでも楽しいよ!

ビンボーなんて心配ないさ!

 

 

 

レジの店員さんはそんな僕をみて

笑顔でいつも接してくれた。

 

 

 

 

母は少し恥ずかしそうにしていたけど、

「そうだね!毎日たのしいね!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

そうした毎日を母と過ごす中で、

母の存在は自然と恐い存在から大好きな存在へと

かわっていった。

 

 

 

当時の母の姿は、僕と一緒にいれなかった時間を

必死に取り戻すようにして毎日を過ごしてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母へ。

 

 

 

もしもあの時、あなたが僕と一緒にいなかったら、僕はもっと何かおかしな病気にかかっていたかもしれない。

 

 

 

もしもあの時、あなたが僕と一緒にいなかったら、僕はあなたと過ごした記憶を持てずにいたかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

あのとき、あなたが僕といてくれた。

それは今でも僕の中に残る大切なおもいで。

 

 

 

 

 

 

 

僕が悪さをして、

小さい頃はよく顔を叩かれた。

 

 

当時は怖かった。

でも、今となっては感謝している。

 

 

 

 

 

 

今となってこそ、

シングルマザーというレッテルは

よくあるようになっていたけれど、

今から20年も前は世間の目も厳しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

【父親がいないから、あの子は悪い子なんだ。】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなことをまわりから言われないように、

とにかく一生懸命だったんだよね。

 

とにかく僕を立派に

育ててくれようとしていたんだよね。

 

 

 

 

 

僕にはそれがよくわかる。

強く叱ってくれてありがとう。

厳しく育ててくれて、ありがとう。

 

 

あのときのあなたがいなかったら、

今の僕はいないのだから。

 

 

ありがとう。

物心がついたであろう日を僕は忘れない。

3歳のとあるあったかい日。

 

僕は母と一緒の布団でお昼寝していた。

その瞬間はとても不思議な感覚だったことを覚えている。

 

 

光のようなものが、パンっと自分の中に降ってきた。

「ふと我に返るような瞬間」という表現が正しい気がする。

 

 

それからの日を途切れ途切れながらに今でも覚えている。

 

 

気が付いたときには、僕に父親はいなかった。

けれども、「父のような人」はいた。

 

今だからわかるけれど、当時の母の彼氏だったのだろう。

愛称も今でも覚えている。

 

「おとうさんのような人」が家にいないと、

僕は決まって母に尋ねていた。

 

 

 

「ねぇねぇ、どうしてお父さんはいないの?」

 

 

母はいつもその質問には「ごめんね」としか返さない。

 

 

けれど、おさない自分には「ごめんね」という

母の言葉の意味がよくわからなかった。

自分には母しかいないというのが当たり前だったから、

特に気にもしなかった。

 

 

おそらくその質問は母を当時苦しめてしまったかもしれない。

おさなくも無邪気な子ども心は鋭いナイフのような切れ味だろう。

 

 

 

 

 

 

母は毎日のように働いていた。

クラブで毎日働いていた。

 

 

 

母はその店でNo.1の人気クラブ嬢だった。

そのこともあって、昼間も夜も毎日忙しかった。

 

 

 

だから僕は小さいころ、祖父母に預けられて育った。

じいちゃんとばあちゃんの家には、

毎日のようにいろんな地域の人が来ていた。

 

 

地域の人は僕のことを、まるでわが子のように

かわいがってくれた。

 

 

 

「お菓子持ってきたから、食べてね」

「お小遣いあげるよ」

「今度一緒に温泉にいこう」

 

 

 

じいちゃんとばあちゃん以外にも

オジやオバもいた。

地域の人もたくさん僕のことを

面倒見てくれた。

 

だから、特に寂しさを感じる瞬間というのは

あまりなかったような気がする。

 

 

けれど、無意識的にそれは幼いながらに

強がっていた姿だったのかもしれない。

 

 

 

じいちゃんとばあちゃんと僕。

 

 

3人で出かけたときに

町の中で見かける、お父さんとお母さんの間にはいって

手をつないだ同い年くらいの子ども。

 

 

こんな光景を見ると、僕は決まって

じいちゃんとばあちゃんに言う「口グセ」があった。

 

 

それが当時のじいちゃんとばあちゃんの

心を傷つけていたのかもしれない。

 

 

 

ほら、じいちゃん、ばあちゃん、

見てよあの子。

お父さんとお母さんに甘えてる!

バッカみたいだね!!

 

 

 

 

 

・・・

 

 

 

 

 

もしもこの一言が

今でもあなたやじいちゃん、ばあちゃんに

胸にシコリが残るような記憶として

今も忘れられないのだとしたら・・・

 

 

24歳の僕が伝えたい一言がある。

 

 

傷つけて、ごめんなさい。

けれど、僕は幸せだよ。

 

だって、今こうして大きな青年に

育ててもらったんだから。

 

 

 

ありがとう。

 

 

 

1992年、ある日僕は生まれた。

3500グラム以上もある大きな男の子だったらしい。

 

 

母にとって最初の息子。

 

それが僕。

 

当時、僕の母は20歳という年齢だった。

たぶん、すごく大変だったんだろうなって思う。

 

 

妊娠した時は19歳だった母。

 

 

 

どんな覚悟だったんだろう

どんな気持ちだったんだろう

 

 

 

 

いろいろとわからないことは多い。

けれど、その時にあなたが「出産する」という

決意をしてくれなかったら、

今の僕はいなかった。

 

 

空が青いこと

海が青いこと

 

 

春の桜のはかなさ

夏の緑の美しさ

秋の味覚の楽しさ

冬の雪原のまぶしさ

 

 

もしも19歳のあなたが、

僕を生むという決断をしてくれなかったら

僕が当たり前のように過ごしている

この当たり前ではない毎日を

感じることはできなかった。

 

 

もしも20歳のあなたが僕を無事に産んでくれるまで、

お腹の中にいる僕を大事にしてくれなかったら

僕はきっとこの世にいなかった。

 

 

24年前のあの日、僕を生んでくれてありがとう。

 

 

あなたの想いと決意のおかげで

今の僕がいる。

 

 

ありがとう。