このページでは 12歳から 僕が背負い続けてきた、

目に見えない痛みの障害… 線維筋痛症と 眼瞼下垂症、

ふたつの難病を抱えて 闘い続けてきた経歴を 

短く まとめていったものを 載せてみます。

 

痛みの事は、ブログ記事の 

「 線維筋痛症について 」 と 「 痛みについて。 」 

という タイトルの記事に 詳しく

書き綴ってみましたので 読んで頂けると 嬉しいです。

 

 

「 12歳の頃 」

 

小学6年生の 夏休み頃から 「 眼瞼下垂症 」を 発病し、

時間が経つと共に ゆっくりと 

両目のまぶたが下がって、塞がっていく。

 

小学校の卒業式を迎える頃には、ほとんど つぶれて、

細い線の様な 一重の目の形に なってしまった。

 

「 ゲゲゲの鬼太郎 」みたいに 前髪を伸ばして、

一日中、うつむいたまま 必死に 両目を隠していた。

 

中学校に入学して すぐに、容姿の事で いじめにあい、

不登校になって、顔を手術して 変えるしか方法はないと 

覚悟を決めて 病院を探し始める。

 

「 13~14歳の頃 」

 

 

「子供の顔に メスを入れるくらいなら、

精神病院に 強制入院させた方が ましだ、」と 

父さんに 無理やり、 札幌中の精神科を 

引きずり回されて、何も効果のない 精神薬を 

次々に飲まされ続けて たった一度しかない、

中学校生活を 理不尽に奪われていった。

 

3月に 眼科の個人クリニックで 一回目の手術を受ける。

執刀医は 札幌医科大学附属病院の、

60代の元医師だった。手術時間は 

30分ほどだったが、終わって 鏡を見ると

目の形は まったくと言っていいほど 何も変わっていなかった。

 

麻酔が切れると、わずかに 

まぶたのメスで切った部分に 小さな違和感を覚える…。

 

 

「 15歳の頃 」

 

4ヶ月後の7月に 同じ 眼科の個人クリニックで、

2回目の手術を受ける。 手術の内容は 

まったく同じだったが、最初の頃に感じていた、

手術後の違和感が じわじわと痛みに 変わってきていた。

 

まぶたの痛みは 日増しに激しくなっていくが、

時間の経過とともに そのうち 治るだろう…と 

不安を抱えながらも 耐えていた。

 

12月20日頃に 市立札幌病院の眼科で、3回目の手術を受ける。

「 眼瞼下垂症 」 と 診断書も書いて頂いて、

正式に病名を付けられて これまでの苦労が認められる。

 

手術後、目の形が 少しだけ大きくなったので

「これで 我慢していくしかない…」 と 

自分に言い聞かせていた。

 

 

「 16歳の頃 」

 

東京で 一人暮らしの生活を送る中、まぶたの神経を 

常に 鋭利な刃物で 切り刻まれている様な 

鋭い痛みが はっきりと実感できていた。

 

この痛みは 自分の気のせいではない…と 気付いていたが

どうしていいのか 分からなかった。

 

梅雨の時期になると 部屋の中にいても 

凄まじい激痛が襲い掛かって来て、温めたタオルを 顔に被せて、

しばらくの間、ベッドから 起き上がれなかった。

 

お風呂に浸かったり、温かいお湯で 顔を洗うと、

一時だけ 痛みが和らいで 楽になった。

 

 

冷たい冷水で 顔を洗ったり、冷房の効いた 

スーパーなどにいると まぶたの皮膚の中を 

突き刺される様な 鋭い痛みが悪化していった。

 

乾燥した場所にいても、まぶたの皮膚が 

ぎゅっと引き締まり、開けたり 閉じたりする度に 

上手く 顔の筋肉を動かせなくなる様な 

違和感と 重苦しさを 徐々に感じ始めていた。

 

「 17歳の頃 」

 

岡山の高校に 通い始めると、最初の頃は 

痛みに耐えながら 学生生活を過ごしていたが、

次第に 授業も 集中できなくなり、夜も眠れず、

寝不足になり 日常生活に 影響を及ぼしていった。

 

 

真夏の季節に 体育の授業があると、激しい運動をした後に、

まぶたの皮膚や血管の 痙攣が起きて、

めまいや吐き気が 止まらず、保健室に運ばれて

午後からの授業は 休むようになっていった。

 

「 18歳の頃 」

 

北海道に帰郷し、落ち着いた生活を送れると

考えていたが、片道2時間の通学路と、

体育会系の高校生活に 馴染めないストレスから

たった一秒も取れない、疼痛と 疲労感によって

壊れていった体調も もう限界だった。

 

岡山の高校に戻るが、不良達と相部屋に

なってしまった事から 寝不足の生活が 

更に追い詰められていき、

一日の睡眠時間は 平均3時間ほどになっていた。

 

 

授業も休みがちになり、成績が だんだんと

下がっていき、精神的にも 弱り果ててしまい、

保健室で 寝たきりの時間が増えていく。

 

夏休み、冬休みは ペインクリニックや 

鍼灸整骨院で リハビリや治療を受けていき、

一日も 遊ぶことが出来なかった。

 

「 19歳の頃 」

 

高校3年生になったが 毎日、2、3時間は 

授業を休んで 保健室で ベッドに横になっていた。

寝不足とストレスも重なり、常に 意識が朦朧としていて、

ふらふらの状態で 卒業式まで 耐え続けていた。

 

 

体育祭や修学旅行などの行事にも 参加できず、

思い出を作る機会も ベッドに寝たきりで、奪われていった。

 

「 20歳の頃 」

 

北海道に帰郷し、本格的に 治療を始める。

整体院や 様々な検査を受けてみるが、何も効果がなかった。

 

5月頃から 北広島市内の鍼灸整骨院に

通い始める。週3日、半年間も通院し、

あらゆる治療法の可能性を 試していく。

 

顔の筋肉に 数か所、針を刺して、血流の流れを

良くしてみたり 超音波治療器や 超短波治療器を使って

微弱な電流や 電熱を与えて 顔の皮膚をほぐしたり

血行障害を 改善しようと試みたが、何ひとつ 効果がなかった。

 

 

ペインクリニックで 神経ブロック注射を打つと、

更に神経に 刺激を与えてしまう様で、

激痛のあまり まぶたの神経や血管が痙攣して、

一日中、ベッドから 起き上がれなくなった。

 

3月、千歳市の北星病院の リウマチ科で 

「 線維筋痛症 」 と 診断されて 

鎮痛薬を処方されると 徐々に痛みが取れ始めた。

 

4月、市立札幌病院の眼科で 再び、5回目の手術を受ける

麻酔が切れた直後から、これまで 経験した事がない様な

意識を保てなくなるほどの激痛が 引き起こってしまう。

 

 

線維筋痛症の、神経を切られる様な 鋭い痛みではなく、

まぶたの皮膚を 引きちぎられる様な 強い力で、

無理やり 引っ張り上げられている…。

言葉の表現が難しいのですが そのような 皮膚の痛みだった。

 

鎮痛薬も まったく効かず、温めても 冷やしても、

何をしても 痛みが強すぎて 固定されてしまい、

手術後から 変わる事のない激痛が 

いつまで経っても 無間地獄の様に続いていた。

 

激痛のあまり、顔全体に 痛みや痺れが広がっていき

口元まで 表情が引きつっているので

人との会話も 困難な状態になってしまい、

部屋の中で 毎日、寝たきりの生活に なってしまった。

 

 

「 21歳の頃 」

 

まぶたを 上手く 閉じる事すら できなくなり

まばたきする度に 意識が飛びそうに なってしまうほどだった。

これまで 3時間ほどだった、平均睡眠時間が 

ついに 2時間弱まで 少なくなっていった。

 

たったの一秒も 痛みが取れないので、昼寝をする事もできない。 

突然 倒れて、気を失い また痛みで

すぐに飛び起きて、ふらふらと 意識を失う…。

そのような状況が 一日中、終わることなく続いていた。

 

いくつも 名医のいる病院を周っても、

「このような症状は 見たことがない、これまで 

どの病院でも 症例がないから、どうしようもないよ。」

と お決まりの様に 同じ返答が 返って来るだけだった。

 

 

父さんも亡くなったので、ひとりぼっちで、

痛みを こらえながら 介護してくれる人もいなく、

家事、掃除、買い物など 全ての事を 

自分一人で しなければならなかった。

 

「 22~23歳の頃 」

 

痛みを 少しでも抑えるために、狂った様に 

糖分の多い甘いものを食べ続けて、

50キロほどしかなかった 細身の身体が

見る影もないほど 脂肪がついて ブクブクと 太っていった。

 

真夜中に トイレに駆け込んで、食べては吐いて、

食べては吐いて、の繰り返しだった。

 

 

コーラやソーダ水など、極端に 糖分の多いものばかり 

飲んでいたので、歯が溶け始めて ボロボロになっていった。

 

病院を探して 歩き回る気力も残っていなくて、

痛みで 思考も働かず、月日の流れも 

よく分からずに 時間だけが 無情に過ぎていった。

 

冬の季節になると 朝早く 起きて、自宅前に積もった雪を

息切れしながら 必死に除雪していた。

 

パソコンで 疲れ目をこすりながら 治療できる名医を 

検索して 一人ずつ探していき、

東京で 日本でトップレベルの形成外科医を 見つける。

 

 

これまでの手術方法とは まったく違い、

まぶたを上げて、目の形を大きくするのではなく、

引っ張り上げて 糸で縫い付けてある 皮膚の癒着を剥がして、

まぶたを下に 下ろしていく、難易度の高い手術でした。

 

「 線維筋痛症の 神経の痛みを取っていく 手術方法。 」

「 症例の少ない、皮膚の痛みを取っていく 手術方法。 」

「 目の形を きれいに作る、美容外科的な 手術方法。 」

 

日本でも トップレベルの形成外科医にしかできない、

いくつもの 難解な作業が必要となり、品川の病院で

2時間を超える 大きな手術に なりました。

 

手術後、顔の腫れは ひどかったのですが、

一瞬だけ、痛みが和らいだような気がして、繰り返し、

同じ形成外科医に 難易度の高い手術を 受けていきました。

 

 

「 24~28歳の頃 」

 

約2年間もの歳月をかけて、東京で 6回も 

大きな手術を受けたので、札幌の病院で 受けた回数と

合わせると、合計で11回も メスで 顔を切り刻まれていた。

 

11回目の手術を終えると、回復するどころか、

5回目の手術の時よりも 遥かに 痛みは悪化してしまいました。

 

重度の 線維筋痛症の痛みは、

「 ガンの末期患者と 同じくらいの疼痛 」だと 

医学的に 言われていますが、僕は その

重度の症状に加えて、5回目の手術から、今までの 

3倍近くになる、前例のない皮膚の痛みが増えてしまいました。

 

その上、更に 東京で受けてきた 6回の大きな手術で

線維筋痛症の痛み、皮膚の痛みが 手術ごとに 

両方とも 2倍、3倍…と 膨れ上がっていきました。

 

 

激痛のあまり、2階のベランダから 発作的に 

毎日、何度も 飛び降りようとしていた。

椅子に座って、じっとしていられず、自宅の中を 

一日中、ぐるぐると周って、

何かに取りつかれたかの様に 徘徊し続けていた。

 

買い物に行って 戻って来るだけで 疲れ果てて、

ベッドに横になって しばらくの間は 起き上がれなかった。

 

最初の2年間ほどは テレビを見る事も 本を読むことも

できなくなり、ただ 暗闇の中で じっと 耐え続けるしかなかった。

 

たまに 訪問看護師が体調を 見に来るだけで 

それ以外の時間は 終わりのない痛みと孤独に 

ひとりぼっちで 耐え続けるしかなかった。

 

 

看病してくれる人も そばにいてくれる人も 誰もいなくて

電話で 会話をしたくても 知り合いもいなかっので、

どんなに寂しくても 痛みで苦しんでも ひとりぼっちだった…。

 

「 29~31歳の頃 」

 

思い切って 作業所で働いてみても 痛みで 

長続きせず、自分の無力さを 呪い続けるしかなかった。

 

20代も あっという間に過ぎ去ってしまい、

一人だけ 取り残されていく あせりを感じる中、

札幌の麻酔クリニックで 新しい治療法を試していく。

 

鎮痛薬と 漢方薬の組み合わせで 処方されて、

相乗効果を ひとつひとつ、時間をかけて 試していったが、

数十種類もの組み合わせを 飲み続けても 

まったく 変化が見られない。

 

 

脳神経外科で、頭蓋骨に 穴をあけて、

神経の痛覚そのものを遮断する手術を 相談してみるが、

「君の痛みは特殊だから おそらく、

執刀しても 良くならない。」と 言われてしまう。

 

せめて最期くらい、痛みで 苦しみたくないので

安楽死を受けたいと想い、ネットで 検索していたら 

日本からも 難病の患者を受け入れている、

スイスのライフサークルという、安楽死の団体を見つけたので 

全ての希望が絶たれてしまったら

ここに 相談してみよう…と 考えていました。

 

「 32~35歳の頃 」

 

宮城県、神奈川県に 引っ越してから、東京の中で、

6回もの手術を受けた、品川の医師よりも 

腕が良くて 名医と言われている形成外科医の医師、

10人ほどに診察してもらい、診察の結果、

思いがけない 返答が返ってきました。

 

 

「 痛みを取る事ができて、目の形も 元々の 

きれいな形に戻す事は 可能だと思う。」 と 言ってもらえました。

 

「ただ、前回の執刀をした、品川の医者が 

見たことのない かなり特殊な手術法を 行った様で、

その部分が修正できないと 新しい手術ができない、」 との返答でした。

 

品川の病院の カルテを診せても、

「これだけでは よく分からない、」と 言われ 

どうしようもなく 途方に暮れてしまっている状況です。

 

まだ しばらく、治療法が見つかるまで 

長い月日が かかると思うので、まずは 何よりも 

そばで支えてくれる人や、信頼できる友人達を

たくさん 作っていきたい…と 希望を持って

ブログや小冊子に 12歳からの闘病記を 書き綴っていきました…。