目に見えない痛みは、症状だけでなく、

何も理解してくれずに 攻撃してくる人達とも 

闘わなければ なりませんでした。

 

線維筋痛症の事を どんなに 丁寧に説明しても、

「 学校に いけない。 」 「 仕事を していない。 」 

「 一般的な生活が 送れない。 」 と いうだけで、

何不自由なく 恵まれた暮らしを送っている 人間たちから、

お前は 悪者だ、と 非難され続けてきました。

 

 

逆に 痛みをこらえて、

スーパーに 買い物に出かけるなど 活動すれば、

「 今まで 仮病を使っていたのか、

働きたくないから  嘘をついて 騙していたな、 」  と

罵られてしまいます。

 

普段、人前では、穏やかで 物静かな人や 

いつも にこにこ微笑んでいる、可愛らしい女性が

僕が痛みで抵抗できないと 分かった途端、

別人の様に 豹変し、高圧的な態度で 上から見下ろし、

血走った眼で、怒鳴ったり わめいたり…。

 

12歳から 学校に行ってないと知ると、

それまで 親切だったのに 突然、無視をしたり

「 ケッ、」 と 唾を吐く様な 仕草をして 

立ち去る人達も、よく いました。

 

 

もう 人間不信などと いう言葉では 生ぬるいものでした。

 

恵まれた環境に いた頃は

何も見えていなかった、人間の醜い本性が

貧しい境遇に 落ちると 

目を背けたくなるほど、はっきりと見えてきました。

 

僕は ますます 映画や音楽の世界に のめりこみ、

まるで オペラ座の怪人のファントムの様に、

家中のカーテンを 閉め切り、

陽の光に怯えて 生活するように なっていきました。

 

光を 一切、遮断する事で

自分の人生に 余計な希望を 持たない様に、

これ以上、人を信じて 傷つけられない様に、

防御壁を 築き上げていったのです。

 

 

チョコレートなど 糖分の多い甘い物を 

飲食していると、痛みが 軽減された様な 

錯覚を 覚える効果があり、

体調が おかしくなるほど 口にしていました。

 

ほとんど 外出せず、家に引きこもり 

生活していた事もあり、20歳頃までは 

体重が 50キロ足らずしかなかった 細身の身体が

少しずつ 脂肪がついて 太っていきました。

 

さすがに このままだと、精神状態が危ないと

心配してくれた 親戚達が 

「 少しの間でも、入院した方が いいんじゃないか、」 と

提案してくれて 僕も どうしていいのか分からずに 

うなずくしか ありませんでした。

 

 

隣り町にある、島松病院の精神病棟に 

入院する事が決まり 最初に 

僕を待っていたのは 入り口前の 手荷物検査でした。

 

ひとつひとつ、持ち物を チェックされ、

刃物は持っていないか 入念に調べられました。

 

病棟の窓は 逃げ出す事が出来ない様に、

全ての窓に 鉄格子の様な 柵が付けられていて 

トイレに行く時も ドアの前で、常に職員が待機していました。

まるで ハリウッド映画で見た、

刑務所の様な生活が 僕を待っていました。

 

他の患者は お年寄りばかりで、僕と同室になったのは、

ベッドで寝たきりの 90歳の お爺さんでした。 

 

 

どこにも 出かけることもできず、

常に 監視されているので 息苦しかった。

 

毎日 朝、昼夜と 決まった時間に

薬を飲む事が 義務付けられていて、

手渡された、白い粒を ちゃんと 飲み干すまで、

となりで 職員が見張っていました。

 

また 14歳の頃の、味のない薬を 

飲まされるだけの 日常に戻って来てしまった…。

 

夜中になると、廊下の端っこにある 

休憩所みたいな場所で 毎日の様に 

お経を唱えている、40代の患者さんがいました。

 

 

メガネをかけて 細身の方で、何度か 

顔を合わせているうちに

たまに 会話する様になっていきました。

 

入院して 一週間ほど経った ある日の真夜中に、

眠れないので 廊下を 歩き回っていると、

その方は いつもの様に お経を読んでいました。

 

「 こんばんは。 病院にいると 

なかなか、夜は 寝付けないですよね。 」 

と 話しかけると、お経の書いてある本を 

ゆっくりと閉じて、窓の外から 入ってくる、

月明かりの光を じっと見つめながら 僕に こう言いました。

 

 

「 君は まだまだ若いから、これから 

いくらでも やり直せる チャンスがある。

僕みたいに、いつまでも 

こんなところに いたら 駄目だよ…。 」

 

そう言って 諦めの表情を 浮かべた後、

またゆっくりと 本を開いて、お経を唱え始めていました。

 

結局、僕は入院してから 更に 体調を崩してしまい

2週間ほどで 退院して、また 誰もいない、

真っ暗な自宅へと 帰ってきました…。

 

来年の春から、日本初の 映画学部のみの単科大学が、

神奈川県の新百合ヶ丘に 開校する事を知りました。

 

 

今まで 生きてきた証を 何か 

一つの作品として 残したいと考えた僕は、

その日から 受験勉強を、 

自死への想いを 吹き飛ばすかの様に、始めました。

 

生きる糧が、今の僕には たった一つでも 必要だったのです。

 

学校見学に 訪れた際、調布市にある 

日活撮影所の所内にある、

日活芸術学院の見学にも 参加しました。

 

夕張映画祭で グランプリを受賞した、 

吉田恵介監督が 特別講演を してくれました。

まだ若く、これからが 注目されている方で、

話し上手で 飾らない人柄が 親近感を持てました。

 

 

「 どうして、映画監督に なろうと思ったのですか? 」

と 学生に 質問されると

「 お気に入りのアイドルを、自分の作品に 

起用すれば、仲良くなれると 思いついたからです。 」

と 真面目な顔で 語っていたので、

学生たちは みんな 笑っていました。
 

日活芸術学院は 実際の映像制作に 加わり、

実践教育を受けられるという 学校でしたが、

残念ながら 2013年に 閉校になりました。

 

早春の日差しが眩しい 東京の2月。

日本映画大学の試験日は、想像以上に 

キャンパスに 受験生が溢れかえっていました。

 

 

大型デパートの 映画館を覗いてみると

松たか子さんが 主演の、「 告白 」 に 

長蛇の列が できていました。

 

新百合ヶ丘駅で 路線図を見ると、

15歳の頃の 東京暮らしを 思い起こさせる様に

僕にとって、もっとも 春の世界を 近くに感じられる

多摩ニュータウンは すぐとなりに ありました。

 

訳も分からずに 北国から 必死に逃げ続けていた、

あの頃とは違い 今日だけは 明確な目標に

向かって 前進していく、「 挑戦の日 」でした。

 

僕の希望は、監督、脚本家などを育成していく 

演出コースでした。倍率6倍の 難関になっていて、

久々の 人混みと緊張で、痛みが 更に悪化する中、

映画監督の緒方明さんが 面接官を されていました。

 

 

緒方さんの作品を よく見ていたので

不思議と 僕の心の中で 親近感が 沸いて来て

リラックスしながら 面接に挑むことができました。

 

「 これからの4年間は、映画一筋に 打ち込みます。

決して他の道に 迷うことなく、

人を感動させられる作品を 作っていきたいです。 」

 

面接官に向かって、堂々と 目を真っ直ぐに 見つめて

自分の想いを 伝える事ができました。

この時だけは なぜだか、痛みを忘れていました。

 

面接も 無事に終えて、数週間後に 

無事に合格通知書が 自宅に届きました。

 

 

ですが、徐々に 映画製作は 

とても体力と気力を 必要とする仕事なのに、

僕の健康状態だと 先走る情熱や 

勢いだけでは 挫折すると、現実的に判断して、

一度、夢を諦める事にしました。

 

でも 不思議と 夢に向かって 

一つの事を 成し遂げたという、満足感は ありました。

 

こんな 何の役にも 立たない身体でも、

自分の夢への 第一歩を 

踏み出す事ができると 分かったからでした。

 

 

                「 春に 」

                         作詞 谷川俊太郎   引用

 

「 この気持ちは なんだろう…。

  声にならない 叫びとなって 

  込み上げる この気持ちはなんだろう。

 

  喜びだ、しかし 悲しみでもある、 

  苛立ちだ、しかも 安らぎがある

  あこがれだ、そして 怒りが隠れている。

 

  枝の先の ふくらんだ新芽が 心をつつく

  心のダムに せき止められ よどみ 渦まき せめぎあい、

  今 溢れようとする、この気持ちは なんだろう。

 

 

  あの空の あの青に 手をひたしてみたい

  まだ会ったことのない、全ての人と 会ってみたい、話してみたい

 

  明日と あさってが 一度に来るといい

  地平線の かなたへと 歩き続けたい

  そのくせ この草の上で じっとしていたい…

 

  声にならない 叫びとなって

  込み上げる この気持ちは なんだろう。 」

 

狂気じみた 痛みと孤独の日々で、

かろうじて残っている 理性が薄れてゆく中、

いつか訪れる 春の季節を 待ちわびて

合唱曲 「 春に 」を 毎日、繰り返し 聴き続けていた。

 

 

閉ざされた冬が 長い程、

雪解けの 暖かな春の喜びも 大きいだろう。

 

春の季節へと続いてく 桜並木の小道は

いつしか 蜃気楼の様に 

霞んでいき、次第に遠ざかっていった…。

 

君は まだ、そこにいるのだろうか。

僕を見て まだ 微笑んでくれるだろうか

 

    
  【 もう少しだけ 生きていいのかな…。 】

 

25歳になり、福祉事業所の紹介で、

訪問看護師さんが 週に 2、3回 来てくれることになりました。

 

 

体育会系の とても元気な方で、

天気の良い日は 家の前の公園や 線路沿いの

遊歩道を 少しずつ 散歩するようになりました。

 

初めの頃は、「痛みから 解放される = 自死」 しか 

もう 選択肢が思い浮かびませんでした。

 

せめて 最期くらい 痛みで 苦しみたくない、

という ちっぽけな こだわりのせいで

真夜中になると、ふらふらしながら 線路に近づき、

あとは 電車が 走ってきた瞬間に 

飛び込むだけなのに その 一瞬の痛みが 

怖くて 踏み出せませんでした。

 

毎日、線路沿いの遊歩道を ふらふら 

行ったり来たりする、惨めな 繰り返しでした。

 

 

「僕は 自殺する 度胸もないのか…。」

情けなくも いつまで経っても 「 自死 」 を 

実行できずに 月日だけ 流れていきました。

 

訪問看護師さんは 元野球部のノリで、

沈んだままの僕を 多少、強引に 引っ張ってでも 

外へ 連れ出してくれました。

 

持ち前の明るさの おかげで、次第に 

ひきつりながらも 僕の表情に、笑みが増えていきました。

 

家の中で 上手に 散髪もしてくれて、

切り終わった後 僕の顔を見て、

「 お子様みたいな 顔だね。 」 と、いつも 笑っていました。

 

 

鏡に映る 子供の様な 童顔を じっと見て、

「 そうだね。 」と 妙に 納得して 

頷いている 自分がいました。

 

顔だけでなく、表情や 仕草、服装や 喋り方なども 

まるで 小学生の子供の様だと、自覚していましたが 

これが今の、ありのままの 僕の姿なんだな…

と 飾らずに 受け止めていました。

 

僕は 「もう少しだけ 生きていて いいのかな。」 と

だんだん 思う様に なっていきました。

 

平日に 線路沿いの遊歩道を いっしょに歩いて、

北広島駅まで 15分ほど、行って帰ってくるだけの日々…。

 

 

顔の痛みの影響で、身体の左右のバランスも 

上手く取れず、自転車も 乗れなくなって しまいました。

車の免許も取れないので 遠出をしたくても、

駅前のデパート辺りまで 歩いていくのが やっとでした。

 

この街から、出たくても どこにも 行けない…。

札幌駅までの 20分の距離も、

今の僕には、気が遠くなるような 長い道のりだった。

 

こうしている間にも、この 人口5万8千人の 

小さな街で 顔も 名前も 知らない、

すれ違うだけの若者たちが 季節が巡る度に 

僕を 一人残して この街から 巣立っていく。

 

季節が 移りゆく中で、もう 時間の感覚も 

分かりませんでしたが、

ゆっくりと年月は 経っていきました。

 

 

どこか通える 居場所が欲しくて、

病院のデイケアに 通院してみたりも しました。

 

「健常者になったら 大学に通い、12歳から 

諦めてきた青春を 思いっきり 味わいたい。」

と 僕が 目標を打ち明けると、

周りに 10人ほどいた、

何らかの精神病や 障害を抱える人たちは 

「私も 学校に通えなかったので、

私の分も 学校生活を 楽しんで欲しい。」

 

「松下くんは まだまだ若いから これからだよ。頑張って。」 

と、誰もが 僕の苦労に共感して 

心から 応援してくれました。

 

精神科に通院している人は、心が不安定だったり、

傷付きやすくて 脆い部分が 確かに ありました。

 

 

僕だけでなく 他の精神病の人達も、

それで お互いに 気を使って 疲れ果てていました。

 

毎日の様に 「死にたい、死にたい、」 と 

書かれたメールが 何十通も 携帯に届いたり

ついさっきまで 元気いっぱいだと 思ったら、 

突然、うつ状態に なったり…。

 

僕は 心の支えを 見つけるどころか、

ずっと年上の 40代、50代の 

大人たちの 面倒を見る羽目になり、

弱音や愚痴を 聞いてあげたり、

必要以上に 親切にしてあげたり もう ボロボロでした。

 

そんな僕を、彼らは 自分達も 

「 社会的弱者 」という 立場から、

共感して 幸せを願ってくれたのです。

 

 

僕が 平穏な人生を送りたい、

他の子供達と 同じように 学校に行きたい、

と 言っただけで 

「お前は 12歳から 一日も 遊ばないで働け、」 

「普通の人生を 望むな、」

「親のいない 障害者のくせに わがまま言うな、」 と

嫌味や 暴言を吐いたり、

いちいち 因縁をつけてくるのは、何不自由なく、

贅沢しか知らずに 生きてきた人達ばかりでした。

 

その中には 「太平洋戦争の時代の子供は、

学校なんか行かずに 働いてたんだから 

学校は諦めて お前も さっさと働け、」 などと 

絡んでくる、大人まで いました。

その人は 自分の子供は、何不自由なく 

大学院まで 通わせていました

 

 

「どうして 大学院に通っているの?」 と 

その人の子供に 訊ねると

「就職しないで もっと遊びたいから。」 と 

あっけらかんと 答えるのでした。

 

これまで 僕の事を 馬鹿にしたり、

「学校なんか どうでも いいから働け、

親のいない 障害者のくせに 我がまま言うな、」と 

わめき散らす 大人達は みんな、自分の子供を

大学を卒業した後も、大学院まで 通わせたり

海外留学を させたり 高額な お金がかかる塾や 

英会話教室に、習い事と 

好きなだけ 贅沢ばかり させていました。

 

 

25歳を過ぎても 働かずに フリーターをして、

毎日 親に、生活の面倒を 見てもらっている様な 

子供ばかりだった。その中には 28、29歳に

なっても 仕事をせずに、親に甘えて 

頼って、自由気ままに 生活している子供までいた。

 

「恵まれた子供達は 一体、

何歳になったら 働くのだろう…。

一体、何年間 学校に 通い続けるのだろう…。」 

と 疑問に思っていたものです。

 

彼らは 今まで たったの一日も、

痛みも 孤独も、貧しい生活も 

何ひとつ 経験した事がないので、

自分達の贅沢以外、何も 分からないのです。

 

 

「偉そうに言うのなら、あなたも たった一日でも

いいから 僕の苦労を経験してみたら?」 と 訪ねると、

「どうしてだ、自分たちは恵まれてるから 

好きなだけ 贅沢していいんだ、

お前なんかと いっしょにするな、」 と

いい年をした 大人達が 

まるで オモチャを 買ってもらえない、

小さな子供の様に 駄々を こねるのです。

 

僕は ただ、ため息を つくしかなかった。

 

    
     【 君の人生は 映画にできる 】

 

 

僕が 空想の中で創り上げた 春の世界では、

どれだけの月日が経っても 

季節は変わらず、桜の花が 満開に咲き誇り

きれいな街並みを 薄桃色の

幻想的な風景に 染め上げていました。

 

冬の凍り付く様な冷気に 怯える事もなく、

雪が 立ちはだかる壁の様に

降り積もる事も ありませんでした。

 

決して 冬の季節が 巡って来る事はなく

僕を 子供の頃から 苦しめ続けてきた、

痛みも、孤独も 暴力も、悲しみも 

何ひとつ、汚いものは この世界には 

存在せず、優しさと ぬくもりだけが 

そばにいてくれて、僕は その中で 包まれていた…。

 

 

「春の世界」 が ずっと、中学生のままだったのは

小学校を卒業してから わずかしか 人生経験がなく、

高校も 一年足らずしか、通っていなかったので

そこから 先の未来が 

さっぱり 分からなかったから でした。

 

中学校の生徒たちは、僕が 無精ひげを生やし、

目尻に しわが増えても、出会った頃と 変わらない 

若い姿のままで いつまでも 年を取る事がなく 

純粋無垢な 中学生のままでした。

 

弟思いの 優しい姉さんが いて、

父さんも 母さんも いなくならずに 

僕の そばにいてくれて 

爽やかな春風が吹く 街の中を

すみれと 手を繋いで 歩いていました。

 

いつも 僕の となりに いてくれた…。

 

 

           「 センチメンタル 」

                       作詞作曲 平井堅  引用

 

「 改札を出て 君は 振り向き、

 じゃあね、と 手を振った。

 家まで送る、僕の誘いを 優しく断ったあと…。

 

 引き返し乗る、上りの電車 揺られ 一人帰る。 

 夢中で話し 気付かずにいた、同じ景色を見ながら…。

 

 今 君も 同じ気持ちだったらいいな。

 改札 飛び越え、本当は君を 強く 抱きしめたかった…。

 

 君の香りが残る マフラー、巻いて 家路を急ぐ。

  寒ささえ、愛しく感じる…。

 

  君を見つけて 今、分かったよ。 

 手にするものは 一つだけでいいと。

 こんなにも、切ない色に染まった 心が疼くよ…。

 

 

 君に出会って 今、分かったよ。 

  心の居所が どこにあるのかを。

 

  こんなにも、切ない音で 鳴いてる鼓動が聴こえる…。 」

 

12歳から、女の子と 

まともに 会話したのは たったの数回ほど。

恋愛感情なんて 遠い昔に 忘れてしまっていた。

 

誰か 僕の事を、少しだけでも 思っては くれないだろうか?

こんな僕でも、愛してくれる女性は 

どこかに いないだろうか…?

 

12歳から 今まで出会った、ごく わずかな女性たちは

みんな 僕の事を とても褒めてくれました。

 

 

「性格が 穏やかで優しい。」 

「紳士的で 言葉遣いも 丁寧だね。」 など、

僕に 何か嫌がる事をされた、とか言う人は

誰も いませんでした。

 

いつも 言われてしまうのは 顔の事でした。

 

何度か 顔を合わせただけで、

「顔が怖い、いつも ひきつっていて 気持ち悪い、」 と

嫌がられて 避けるのです。

 

目が合っただけで 吐きそうな表情をして、

話かけても 無視する女性も いました。

 

その度に オペラ座の怪人の、ファントムの台詞が

脳裏に 過ぎっていました。

 

 

「 なぜ 私は、闇の世界の 囚われ人なのか、

罪を犯したのではなく、この醜い顔のせい、

 

いつも 人に追われ、憎しみを浴びる。

優しい言葉を知らず、同情してくれる 友もいない…。

何故だ、何故なんだ…。 」

 

…映画 「 エレファントマン 」 の主人公、

ジョンメリックの 悲しみが、

僕は 切ないほど よく分かっていました。

 

19世紀のロンドンで 実在した ジョンメリックは、

珍しい奇病によって 幼い頃から 顔の皮膚の膨張、

身体の骨格の大部分が 変形していき

11歳で 母親を 病気で亡くしました。

 

 

小学校を卒業してからは 進学せず 

働き始めましたが、症状は進行して 

歩行困難になり、容姿のせいで 外出すると、

周囲に パニックが発生するほどでした。

 

仕事も 満足にできなくなり 17歳で 

救貧院に入りましたが、院内で生活している、

貧困者は 大不況で 溢れかえり、

収容可能な人数を 大幅に上回っていました。

 

衛生環境は ひどいもので、食事も満足に出ず、

疫病が 蔓延していました。

 

このような環境に耐えられず、メリックは 

救貧院を飛び出し 生きるために 

やむを得ず、見世物小屋へと 足を運びます。

 

 

「 エレファントマン 」 と 名付けられ、

興味本位で 集まる 大衆の前で、

さらし者にされ 「人間じゃない、怪物だ、」 と 

指をさされて 笑い者にされ、

罵声を浴びせられる事で 小銭を稼ぎ 生き抜いていきます。

 

しかし、警察が 見世物小屋に 閉鎖命令を出し、

行く当てもなかった メリックは 残り わずかなお金で

ロンドン病院の外科医の元へと 向かいました。

 

その外科医は メリックを診察し、

「 神経腫性象皮症 」 と 診断をくだし、 

ロンドン病院の個室で 

暖かいベッドと 食事を与えられて、

ようやく 落ち着ける居場所を 手にしました。

 

 

心優しい外科医は 病院中の鏡を 取り外し、

メリックが 自分の顔を見て 傷付かない様に配慮したそうです。

 

入院してからも メリックは 他人に 常に怯えて、

看護師が 親切に 声をかけても

部屋の隅で 震えて 怖がっていました。

 

次第に メリックの症状を 理解した人たちの 

優しさに触れていくと、落ち着きを取り戻し 

本来の 穏やかな青年へと、変わっていきました。

 

外科医に 母親の写真を見せて、

「母さんは 美しい人だったのに、

どうして 僕のような人間が 生まれたのだろう…。」

と、よく 語っていたそうです。

 

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「心の優しい人間に なろうと 努力してきたのですが…。」 

そう つぶやくと 母親の写真を

愁いを帯びた瞳で じっと 見つめていました。

 

容姿が 醜く崩れていってから 

人間社会から 疎外されてしまったため、

新聞、大衆文学、聖書、雑誌などの

読書によって 孤独を紛らわし、

自分の空想の世界を 創り上げていきました。

 

「 ロミオと ジュリエット 」 の舞台を見てみたい、と 

言うので 医師が 劇場に連れていくと、

感動のあまり 帰宅してからも、

舞台の感想を 目を輝かせて 語り続けていたそうです。

 

僕と同じように メリックも、

自分には叶わぬ、恋の物語に 憧れ続けていたのでしょうか…。

 

 

他人に 心を開き始めた メリックは 

交流を求めて、外科医の友人の 

マッジ・ケンドールさん という、

舞台女優の方を 紹介して もらいました。

 

初対面で メリックの顔を見た、ケンドールさんは

優しく微笑んで 手を差し伸べて 握手を求めました。

 

すると、メリックは 一言も 発する事ができず、

震える手で そっと、握り返すと

「女性に 優しくされたのは、生まれて初めてだ…」 と言い

小さな子供の様に すすり泣いたそうです。

 

その後も ケンドールさんとの 親交は続いて行き、

メリックが書き綴った、ケンドールさんへの 感謝の手紙が 

今も現存していて 大切に保管されています。

 

 

僕とは 比較できないくらい、

悲劇的な半生を メリックは 送りましたが

僕の12歳からの半生と いくつか共通点がありました。

 

早くに 母親を 病気で亡くした事、

小学校を卒業してから 学校に通っていない事、

10代で 家を離れ、行く当てもなく さ迷い歩いていた事、

 

映画や本の 空想の世界に 救われてきた事などでした。

 

メリックの 経験してきた 長い苦しみの半生に

時代も 場所も違っても、

僕も 自分の事の様に 同じ痛みを感じていました。

 

 

これは 僕らだけにしか 分からない、

容姿に翻弄された、悲劇の物語だった…。

 

僕も メリックも、顔さえ おかしくならなければ、

他の子供達と 同じように

ありふれた人生を 送れたはずでした。

 

何よりも辛いのは、痛みや孤独よりも 本当の自分を、

誰にも 分かってもらえない事かも 知れません…。

 

ある日のこと、真夜中に 玄関チャイムが 鳴ったので

「こんな 時間に誰かな?」 と 思いながら ドアを開けると

どこかで見覚えのある 青年が立っていました。

 

 

「どちら様 だったかな?」 と 訪ねると

「小学生以来、会っていないから 誰だか

分からないよね、」 と 困った顔を していました。

 

その青年は、小学校時代に となりのクラスにいた 生徒でした。

 

小さい頃から 乱暴な性格で、すぐに 

暴力を振るったり、弱い者いじめを するので

みんなから 避けられていた子でした。

 

突然の来訪に びっくりしましたが

約13年ぶりに 再会した、 

その子は、まったくの別人の様に

爽やかな ハンサムになっていて、

顔つきも 見違える様だったので 驚きました。

 

 

僕は 胸を なでおろして、

「誰だか分からなくて 一瞬、小栗旬かと思ったよ。」

と ホッとして、二人で 笑い合っていました。

 

彼は、現在は 北海道大学の工学部に通っていて

久しぶりに自宅に 帰って来ると、道の途中に

僕の家があった事を ふと 思い出して、

立ち寄ってくれたとの事でした。

 

話し方も とても 穏やかで あの頃の面影は 

ほとんど何もないのに ずっと前から 

親友だったかの様に、すぐに 打ち解けて

一時間ぐらい 会話は弾んでいました。

 

彼は、来年に 北海道大学を卒業して

その後の 就職先などは、

まだ具体的には 決まっていないと 語っていました。

 

 

工学部なので、なかなか仕事も見つからず、

おそらく 北海道を出て、

東京へ 引っ越すと思う、と 悩んでいました。

 

大学のキャンパスライフに ついて

色々な お話を聞かせてくれて、

僕も 自分の学生姿を 想像して、

憧れのキャンパスライフは 叶わないと

分かっていても、期待は 膨らんだものでした。

 

「お互い、しっかり 頑張っていこうな。」 と 握手をした後、

元気よく 手を振り すぐに ポケットに突っ込んで 

寒い中、足早に 自宅へと帰っていきました。

 

同級生の後ろ姿を 見送りながら

僕自身の気持ちを 奮い立たせていました。

 

 

まだ 僕の事を覚えていてくれた 同級生がいたんだ…。

 

そして、この日の 久々の再会が

小学校時代の 同級生たちとの、

本当の、最後の別れに なりました…。

 

輝かしい子供時代…。 この小さな街の風景が

僕の世界の全てで スタンド・バイ・ミーみたいな

友情が、大人になっても 変わることなく、

永遠に続いていくと 本当に想っていた…。

 

北の台小学校、6年1組のみんなは いつの間に 

この街から いなくなってしまったんだろう…? 

 

 

毎日 いっしょに遊んで 語り合っていた

友人達や クラスメイトは

別れの言葉もなく どこに行ってしまったんだろう…?

 

東部中学校を不登校になった、12歳の時、

学校に通えなくなり、校舎に 背を向けて 

出ていった僕と 卒業式まで 校舎の中に残った、 

他の子供達とは あの瞬間、永遠に

交わる事のない隔たりが どこかに できてしまったんだ。

 

あの瞬間、彼らの記憶からは 

僕と過ごした時間や 大人になってから 懐かしく

語り合うはずだった、思い出の数々は 

テレビゲームの リセットボタンを押す様に 

あっけなく 消え去ってしまったんだ。

 

 

いつまでも 続いていくはずだった、

輝かしい少年時代が こんな 結末を迎えるなんて…。

 

… 26歳になり、ついに 20代も後半になってしまいました。

 

今年も いつものように、クリスマスも 正月も、

一人で インスタントラーメンを食べて

まったく 興味がない、バラエティー番組で 

時間を潰しながら 新年を迎えていました。

 

新年が明け 1月のある日、痛みのせいで、

早朝の5時頃には もう 目が覚めてしまい

新鮮な外の空気が 吸いたくて

7時頃から 近所のコンビニに、散歩に出かけました。

 

 

顔のひきつりが あまりにも ひどいので

町内の人達が たくさん 買い物に来ている、

近所のスーパーには

この頃は ほとんど 行かなくなっていました。

 

その代わりに、町外れにある 国道沿いのコンビニで

身体に悪そうな 脂っこいものばかりの 

お弁当や、お菓子を 大量に買い込んでいました。

 

コンビニなら 他には 買い物客が少ないので

他人に 気を使う事なく、気軽に出かけられたのです。

 

お弁当を 買い終わった後、両手に 

ビニール袋を持って、ふらふらしながら 雪道を

歩いていると 突然、見知らぬ 中年のおじさんに 

「おい、そこの お前、顔つきが

気に入らないから こっちに来い、」 と 怒鳴られました。

 

 

僕は 訳が分からずに、無視して 

通り過ぎようとすると その おじさんは 

僕の後を 走って 追って来て、

「お前の その面構えが 気に入らないんだよ、

こんな 朝っぱらから、ふらふらしやがって、」 

と ケンカ腰になり 僕に 掴みかかってきました。

 

さすがに 僕も 怒りが込み上げてきて

お互いに 胸倉を掴み合って 近所中に響き渡るほどの 

大声で 激しい罵り合いに なりました。

 

胸倉を掴んで こっちに引っ張り、

僕は これまで 溜め込んできた、全ての感情が 

嵐の様に どっと 押し寄せてきて

見知らぬ おじさんに、12歳からの悲しみを 

何もかも ぶつけていました。

 

 

「お前なんかに、僕の これまでの苦労の 

何が分かる? 12歳から もう 14年間も、

人生を奪われたんだ、14年間だぞ、

親も 僕一人を残して あっという間に死んだ、

学校の友達も あっけなく 僕の事を忘れていった、

 

この街の人間は みんな、僕を見捨てたんだ、

こんな街、本当なら とっくの昔に 出ていったはずなんだ、」

 

早朝から 大声を上げて、叫び続けたので

近所の人達が 「 何があったんだ? 」と、

次々に 外に出てきました。

 

辺りが ザワザワしてくると おじさんは 

胸倉から 手を放して 近所の人達の目線が

気になるのか、後ろめたそうな 表情になりました。

 

 

「親が 早くに 亡くなったって 本当なのか。

父親の方か?」 と 聞かれたので

「…両方だよ。 二人とも 病気だった。」 と 答えました。

 

「兄弟は? 世話してくれる 親戚はいるのか?」 

と さっきとは 別人の様に 

心配そうな顔で、次々と 聞かれました。

 

「姉も 親戚もいるけど、ほとんど会っていない。

ずっと 一人で暮らしてる…。」

そう言った後、 雪の上に、落としてしまった 

ビニール袋を 拾い上げて

その場を 後にして 帰ろうとしました。

 

 

「こっちも 悪かった…。 よかったら、

家に上がって、話を聞かせてくれないか?」

と おじさんに 言われましたが、

僕は 振り返りもせずに、たった 一言だけ、

「… もう いいよ…。」 と つぶやき 

帰りの雪道を 一歩ずつ、踏みしめていきました。

 

僕は 一体、何を やっているのだろう…。

26歳にもなって、こんなところで 何をやっているのだろう…。

 

こらえても、こらえても、止まる事なく

自分の 情けなさへの、

悔し涙が こぼれ落ちていきました…。