中学校を 卒業して 1年間 失ったので、
2年目はないと、悲しんでいる余裕もなく、一人で
教材や勉強道具を買い揃え、必死に 受験勉強をしました。
もっと 遠くへ…。 もっと 暖かい南へ 逃げなければ…。
そんな ある日、近所の アパートに住んでいる、
30代の女性と 知人の紹介で 知り合いになりました。
結婚したばかりの とても きれいな方で、
僕の事情を 少しだけ 耳にして、
力になってあげたいと 言ってくれました。
年上の お姉さんの様に 慕っていましたが、
心の何処かで 母親みたいな母性を、求めていたと思います。
結婚している女性なので、僕は まだ
16歳の子供とはいえ、適切に距離をとって
付き合うように いつも 気を付けていました。
クラシックバレエを習っていて、絵のモデルを
頼まれる事も あるほど、線が細くて きれいな女性でした。
生まれつき 身体が弱いらしく、雨の日は
体調が悪いと、よく寝込んでいて ガラス細工の様に
脆く 壊れやすい姿が、とても 儚く 見えました。
僕と 誕生日と 血液型が同じで、
「私と わたる君は 運命共同体だからね。」 と
無邪気な顔で 喜んでくれたのを、
まるで 昨日の事の様に 覚えていました…。
夜遅くまで 勉強机に 向かっていると、
ある日、ゆずの 最新作のアルバムが発売されました。
「 すみれ 」 という アルバム名に、
ゆずの二人に 僕のちょっと 気恥ずかしい
初恋を 見透かされたような気がして
思わず 笑みが こぼれました。
収録曲 「 桜道 」 も 春への憧れが
伝わってきて、北川さんと 岩沢さんに
共感できたような気がして なんだか嬉しかった。
桜道 2
作詞作曲 北川悠仁 引用
「 桜道を、君と 駆け足で登った。
ふと 見上げた空が 夕焼けに 染まっていた。
通い慣れてた この坂道が
やけに 懐かしく想えた 春のある日…。 」
母さんが 亡くなった事と ガンの闘病生活で
うつ状態になり 弱り果てていた、父さんは
毎日、姉に 逆らえない奴隷の様に
言いように こき使われていました。
毎朝、8時頃に ようやく 目を覚ましたかと思えば
自宅から 徒歩10分の北広島高校まで
父さんに いつも 車の運転をさせ、
校門前まで 送らせて、タクシー代わりに使っていました。
真夜中なのに 「今から 迎えに来い、」 と呼び出され
仕事帰りの 疲れ切った身体で
ふらふらしながら 駅まで 迎えに出かけていました。
抵抗する気力もなく、父親の威厳は
もう、何も 残っていなかった。
猛吹雪が 僕の未来へと続いている 道のりを
全て 閉ざしてしまうかの様に 吹き荒れる中…
勇気をもらって 僕は 「 負けてたまるか、」 と
凍える身体で 雪を蹴散らし、前だけを見て
歩き続け、仏壇の母さんの遺影から 目を背け、
受験勉強に ひたすら没頭しました。
真っ白な雪が 大きな牢獄の様に、僕の前に 立ちはだかり、
闘うために、いつも この曲を聴いていました。
「 青 」
ゆず 作詞作曲 北川悠仁
「 冬の空の下、凍てつく 寒さの中で
今も まだ疼いてくる いつかの傷跡
強い北風が吹いて 僕は 吹き飛ばされそうで
それでも 胸の奥で
あなたの名前を 何度も叫んだ…。
涙が溢れて 途方に暮れた夜に さしのべてくれた
あなたの優しさを 僕は 忘れはしない…。 」
それから 頑張って、内申点がなくても 入学できる、
岡山県の全寮制の高校に 合格できました。
受験の前に 父さんと 学校見学に訪れると、
とても素朴で 穏やかな人柄の先生が
校舎の中を 案内してくれました。
「この学校の教師は、寮生活の管理も
しなければ ならないから、ろくに 睡眠も取れずに
過労で 早死にする 先生が多いんだよ。」 と
あっけらかんと 笑ってました。
その屈託のない、無邪気な表情を見ながら
出会ってから 10分足らずで
この先生に 親近感を覚えていました。
この時が 恩師の楠田先生との、初めての出会いでした。
岡山市から 遠く離れた 山奥にある、
吉備中央町の 自然に囲まれた 開放的な校舎。
寮生活で 三年間、寝食を共にする事で
親しい友人も 大勢でき、
きっと 学園ドラマみたいな青春が待っている。
高校生になった、というより ようやく、
中学一年生の、一学期で 止まっていた時間が
動き出した様な 不思議な感覚でした。
入学式の時も、これから 一人だけ 少し遅れて、
中学校生活が スタートするような、おかしな気分だった。
一年遅れで 熱い期待を胸に、新生活が始まりました。
ですが、理想と現実は 期待した分 大きく 違うもので、
想像していた 高校生活のイメージではなく
内申点がなくても 入学できる高校だったので
不良や問題児が 幅を利かせていて、恋愛をしたくても
女子が 1割くらいしかいなかったので 更に落ち込みました。
それでも 頑張らなければと 心許せる
仲間を見つけていき、担任の楠田先生は
学校見学に来た時に 校舎を
案内してくれた方だったので ほっとしました。
初対面で 感じられた通り、教え子たちを
温かく 見守ってくれる人格者の方でした。
男子寮、女子寮の真ん中に 円状の形をした食堂があり
学年ごとに 寮の建物は 分かれていて、
一部屋は 6人部屋でした。
ベッドとタンスだけが 左右に置かれていて、
お互いの プライバシーを
守ってくれるものは 何も ありませんでした。
学校と寮、食堂が 同じ敷地内にあり、
校門の外に出るには 外出許可を
いちいち 取らなければ いけませんでした。
門限も厳しく、自由は 少なかったかも知れません。
騒がしい寮の中で 一人になれる 居場所もなく、
四方を山に囲まれた、小さな町の学校なので、
カラオケや ゲームセンターなど
若者が遊べる 娯楽も 全く 見当たらなく、
やり場のない ストレスとの闘いの日々でも ありました。
携帯電話も使用できず、見つかったら 没収されてしまい
寮の部屋には テレビすら 置いてありませんでした。
唯一の楽しみは、ひと月に 一回、
発売される 映画雑誌を
道の駅の小さな本屋で 購入する事くらいでした。
学校の敷地を出ると、田舎らしく のどかな風景が広がり、
休日は 一人になれる 居心地の良い場所を探して、
よく散歩に 出かけていました。
寮で 夜遅くまで、不良たちが 音楽を
大音量で流したり 大騒ぎしていても 学習室で
がむしゃらに 勉学に励み、中学校を 3年間
不登校だったにも かかわらず、
一学期の成績は 学年3位でした。
毎朝5時半に起きて、寮の玄関で 新聞を読んで
くつろぐのが 日課になっていました。
朝刊を待っていると、寮の管理人さんが
「松下くんは 今まで 見てきた 生徒たちの中でも、
一番 礼儀正しくて、しっかりしている子だよ。」
と 褒めてくれました。
僕を認めてくれる友人や 先生も 徐々に増え、
「 なんとか 頑張れる 」 と あの頃は 思っていたのです。
…まだ お話していなかったのですが、
実は、14歳頃から、僕を 何よりも
悩ませていたのは、手術後の 顔の痛みでした。
一回目の手術を 受けた直後から
まぶたの メスで切った部分に、鋭い痛みが起きていました。
両方のまぶたに、皮膚の内側を
切り刻まれるような 鋭い痛みが 24時間、
たった1秒も 取れることなく 続いていました。
特にまぶたや 眼の周囲は 身体の中でも、
痛みに 敏感な痛点だったので ひどいものでした。
左のまぶたの方が 痛みが強く、
雨が降っている日や、雪が降り積もる、
冬の季節は、メスで 突き刺され、皮膚の内側を
掻きまわされる様な 激痛で 顔がひきつり、
人と会話するのも 困難になるほど ひどかった。
理容院に行き 髪を切っていると
痛みが 更に悪化して 涙が出てくるほどです。
髪の毛が 顔の神経と、どこかで 繋がっているのでしょうか。
時間と共に、治まるどころか 痛みが強くなり
さすがに おかしいと思い、医者に相談すると、
「あまり そのような症例は 聞いた事がない。
放っておけば そのうち治るよ。」 と 言われるだけでした。
どうしていいか 分からず
そのままに するしか ありませんでした。
手術をする度に、2倍、3倍、と 痛みは増していき、
それでも 親に これ以上、心配をかける訳には
いかない、高校は なんとしても通いたい、
と いう想いから 歯を食いしばって 我慢していました。
お風呂に入ると 血行が良くなって
皮膚が温まり 柔らかくなっているためか、
わずかだけ 和らいで 落ち着きました。
湯船から出て、身体が冷えてくると
また鋭い痛みが じわじわと 戻ってきました。
頭に近いせいか、頭痛や めまい、吐き気も止まらず、
夏になると ただでさえ 暑さで辛いのに
人一倍、頭痛や めまいがひどくて
寝込んでしまい、いつも意識が 朦朧としていました。
飛行機の気圧の変化が 一番ひどく、
着陸してからも 4,、5時間は 救急車を呼ぶか
迷ってしまうほど、痛みが悪化して
顔を両手で抑えて 動けなくなります。
朝方は 睡眠中に溜まった痛みで 吐き気が止まらず、
20~30分は 起き上がれませんでした。
「手術中に、まぶたの神経を メスで
傷つけてしまったのでは?」 とも 考えましたが
山奥の全寮制だったので 病院に 行く事もできず、
ただ耐えるしか ありませんでした。
夏休みに、東京の教育団体の女性に 辛いけど
日々、頑張っている事を伝える為に 電話をかけました。
すると ひどく ドスの利いた声で、
「何の用なの?今までは
あんたの父親に、金を もらってたから
仕方なく 面倒見てやっただけよ、」 と 言われ、
僕は あまりの豹変ぶりに 言葉を失っていると、
「もう切るわ、じゃあね、」 と
プツンと 電話が切られました。
自称 「 東京の お母さん 」 の本性は、
金しか頭にない、悪魔のような女でした…。
携帯電話を ようやく 買ってもらい、
小学校の頃に クラスで一番、
仲の良かった親友たちに 連絡が取れて、
自宅前の 大きな公園で 待ち合わせをしました。
久々に 再会ができた、親友たちの成長した姿が
見れただけで 嬉しくて 涙が こぼれそうになりました。
「中学校の 一学期 以来になるね、
みんなは 元気にしていたか?」 と 声を掛けると
ベンチに座ったままの親友から、返って来た
返事は、どこか ふてぶてしい態度で
「そうだな…。 時間が経つのは 本当に早いよな。」 と
ただ それだけでした。
なんだか、期待していた 感動的な再会とは
大きく違い、白け切った 空気が流れるまま、
話は淡々と 進んでいきました。
親友たちは 僕のとなりで タバコを吸いながら
「毎日、だるいよな。 何も やる気が起きないし
学校なんて つまんないよな…。」
と だるそうに、そんな話ばかりでした。
小学生の頃、いつも いっしょになって
馬鹿な事をしたり、どんなに 先生に怒られても、
下らないイタズラを 止めなかったり… と
楽しかった あの頃とは、まったく
違う空気が、その場を 包み込んでいました。
クラスの女子の中で、一番 仲の良かった女の子は
僕を見ても 冷めきった表情のままで
「早く 退屈な高校なんか 卒業して、
この つまらない街を 出ていきたいんだよね…」
と ボソッと 小声で つぶやきました。
あの頃は いつも 男子の中に 混じって
バスケットボールを 追いかけている様な、
元気な女の子で 僕らの 子供じみた、
下らない イタズラを見て、
一緒になって じゃれ合っていたのに…。
「まだ 大学生の彼氏とは 付き合ってるのか?」
と 親友に聞かれ
「最近は 身体の関係ばかり 求めてくるから
あまり 会っていないかな…」
と ため息を ついていました。
僕は となりで 言葉を失うくらい 驚いていました。
いつの間にか いつも僕らと いっしょになって
教室や廊下で ふざけ合っていた、わんぱくな 女の子が
年上の大学生と 付き合っていて、
高校生なのに、もう 大人の関係を 持っていたのでした。
僕だけが 小学校を 卒業して
3年以上の 月日が流れても
あの頃から 何も変わらない、子供のままだった…。
その女の子と 会話をしていると 手首に
リストカットした傷跡が、いくつも ある事に
気が付きました。きっと 僕がいなかった、
月日の間に、色々な事があったのだろう…。
今の僕には 何も励ます言葉も 思いつかず
気まずい空気のまま、
会話も 次第に途切れていき
「そろそろ 俺たちは帰るよ。」 と 眠そうな 顔をして、
ずっと再会できる事を 夢見ていた 親友たちは、
振り返りもせずに、立ち去っていきました。
僕は 6年間、毎日 いっしょに遊んでいた
同級生たちの後ろ姿を 見送りながら、
引き止める言葉すら
何ひとつ 思い浮かばなかった…。
2年生に 無事 進級が決まりましたが、
山奥にある、閉ざされた 敷地内での
寮生活に 疲れ切っていた事もあり、
僕は ふるさとで 落ち着いた生活を過ごしたいと、
北海道の高校の 編入試験を受けました。
一年間で それなりの経験は 積んだので、
何よりも 重要だったのは 地元に帰れば
12歳から 歩むはずだった、
本当の人生に戻れると 信じていたからでした。
ですが 生徒の定員が どこの高校も いっぱいで
空きがなく、僕の わずかな学力では
入れる学校は 限られていました。
ようやく見つけた、条件が合う 学校は
札幌市内にある、北広島からは
遠く 離れた場所の 東海大四高校でした。
北広島駅から JRで 札幌駅まで 20分、
それから 地下鉄に乗り換え
市内の端っこにある 終着駅まで 15分間
真っ暗で 閉鎖的な 空間に耐え、休む間もなく
更に15分 バスに乗って ふらふらになり
ようやく 辿り着ける場所に 校舎はありました。
徒歩や 札幌駅での 乗り換えの時間も 含めると、
一時間半以上 かかってしまいました。
父さんには 通学が 大変だから
止めた方がいい、と 心配されましたが
まったくと 言っていい程、人生経験が
なかった僕は、約2時間という 距離間も、
毎日 この距離を通学する 不便さも
何ひとつ 理解していませんでした。
ただ 北国の高校に通えば あとは
どうにかなるとしか 考えていなかったのです…。
毎朝 6時半に 自宅を出発して
通勤ラッシュの中 一息も つけず、
乗り遅れることも 出来ずに、ようやく
学校に着いて ぐったりしながら 教室に入っても
朝礼が始まる 8時半まで ギリギリでした。
東海第四高校は 体育会系の名門校として
全国的にも 有名で どちらかと言うと
読書好きな文系の、線の細い 僕には
校風も 運動部ばかりの 生徒達も
まったく 嚙み合わない高校でした。
僕の身長は 175センチでしたが それでも
低くて 目立たない方で クラスメイト達は
高校生とは 思えないほど
がっしりとした、大きな体格の生徒ばかりでした。
僕以外は みんな 運動部に所属していて、
休み時間の 他愛のない会話の内容も
スポーツの事ばかりで まったく ついていけず、
一人だけ 席に座ったまま 退屈な教科書を
何度も 読み直していました。
自宅で テレビをつけると、甲子園大会が
始まっていて、観客席にいる 応援団達は
汗だくになって 大塚愛の 大ヒット曲
「 さくらんぼ 」 を 熱唱していました。
どうして こんな高校を 選んでしまったのだろう…
と 自分の無知を呪いながら 後悔の日々が続いていきました。
必ずある、週2回の 専門授業では
剣道を選択しましたが 僕だけが 2年生から
初めて 竹刀を握ったので、鬼の様に 厳しい教師に
「お前だけが 要領が悪くて
他の生徒達の 足を引っ張っている、」 と
見せしめの様に 一人だけ 前に立たされて、
竹刀の素振りを 何十回も やらされました。
体育の授業でも 何をしていても
僕だけが、みんなに ついていけず
置いてきぼりになって 取り残されて しまいました。
小学校の頃は 運動が 一番得意で
サッカー少年団で 全道大会に出たり、
いつも クラスの中心にいたのに このざまは なんだろう…。
普通の高校に入ると 中学校の3年間、
勉強を学んでいなかった事が 大きなハンデとなり
授業内容も ほとんど分からず、
テストの成績も あまりにも 無残なものでした。
教科書の漢字すら 読めないものが多くて、
授業中 一人ずつ 教科書の文章を読み上げていく時、
自分の番が近づいてくる度に 身体が震えていました。
クラスメイト達は 僕を 嘲笑したり、
馬鹿にする事もなく ただ、
「こいつは 何ひとつ まともに できないヤツなんだな…。」 と
憐れむ様な 眼で見つめていました。
心の安らぎを求めて 美術部に入りましたが、
ここの 顧問の先生は みんなから
陰で 「 ロバみたいな顔 」 と 叩かれていて
部員の女の子が 一生懸命に 描いた絵を
「下手くそ すぎる、」 と 目の前で、
破り捨てる様な ひどい教師でした。
この教師が 部室にいる間は 会話も 何ひとつなく、
緊張感が 常に張り詰めていて
みんな ピリピリしていて 部内の空気は悪かったです。
部員の中に 眼鏡を かけている、理系の
可愛らしい女の子がいて、「 ロバ先生 」 が いない時は
人懐っこい笑顔で よく話しかけてくれる様になりました。
その女の子も 体育系の生徒ばかりの学校が
自分には合わなくて 居心地が悪いと
会話の最中に 何度も ため息をついていました。
どうやら 数少ない、文系キャラの
僕といる時が 息苦しい生活の中で
わずかな 心落ち着く 時間だと
感じているみたいで、休み時間でも 廊下で
僕を見かけると そばに来て 話しかけてくれました。
僕も この日常の中で 唯一の
癒される存在だと 彼女の事を 思っていましたが、
ある日の 放課後、部活が終わり
人気のない廊下を 歩いていると、その女の子が
3年生の教室の前で 見知らぬ上級生の先輩と
抱き合っているのを 目撃してしまいました。
僕は その子と お互い目が合うと、
反射的に 軽く 頭を下げて、
「お先に 帰るね。」 と 小さな声で 囁いて
ふたりの横を 早歩きで 通り過ぎていきました。
校舎を出て 夕陽が沈みゆく中、いつもの様に
約2時間の距離を 満員電車に揺られて
手すりに つかまり 家路を急ぎながら
「僕は どこに いるんだろう…。僕は 毎日、
何をしているのだろう…。」 と 12歳の
あの頃から 変わることなく 思い続けていたのでした。
ようやく 北広島駅まで着くと、
駅の構内から見える、窓の外の景色は
すっかり 真っ暗になっていて、
家路を急いでいる 部活帰りの学生や
サラリーマン達で 溢れかえっていました。
足早に改札を出て、お互い 見向きもせずに
そのまま 真っ直ぐに、街灯に照らされた、
暗がりの歩道を 歩いて 自宅へと帰っていく…。
この小さな街の中で、みんな 暮らしているのに
お互いの顔も 名前も知らず、
これからも ずっと、会話する事も ふれあう事もなく
ただ 僕の目の前を 通り過ぎていく だけなのだろう…。
一人が嫌で、交流を求めている人達は、
きっと たくさん この街の中にも いるはずなのに…。
駅の構内にある、天井が ガラス張りの
大きな広場を見渡すと 制服を着た、
可愛らしい、中学生や 高校生の女の子達が
ベンチに腰掛けて 彼氏と くっついて、
手を繋いだり 肩を寄せ合ったりしていました。
この 女の子達も、みんな
この辺りに 住んでいるんだろうな…。
僕の近所に 自宅が あるのかもしれない。
毎晩、部屋の中で 一人でいるのが 寂しくて
恋愛ドラマを観たり、ネットの世界や
出会い系のアプリを使って
理想の相手を 探し求めて いるのかも知れない…。
でも、どんなに寂しくても、たったの一言も
会話ができる、きっかけがないんだ…。
よく 空気の汚れた 東京の空とは違って、
北海道の空は 澄み切っているから、
星がいっぱい見えると 言われます。
だけど、駅の出入り口の前で 立ち止まって
ふと 真上を見上げても、僕の瞳には
輝いてる星なんて ひとつも 見当たらなかった。
ただ、真っ暗闇の深淵が 僕を飲み込もうと
しているかの様に 口を大きく開けて
どこまでも 広がっているだけだった…。
僕は、季節は 初夏なのに
身体中が 言いようのない寒気に 襲われて、
ミスチルの曲を MDで聴きながら
温もりのない 我が家へと 早歩きで帰っていきました。
「 君が 好き 」
歌 ミスターチルドレン 引用
「 もしも まだ 願いがひとつ 叶うとしたら
そんな 空想を広げ 一日中、
ぼんやり過ごせば 月も濁る、東京の夜だ。
そして ひねり出した 答えは…「 君が 好き 」
僕が 生きるうえで これ以上の意味は なくたっていい…。
夜の淵、アパートの脇、くたびれた 自販機で
ふたつ、缶コーヒーを買って…。
歩道橋の上には 見慣れてしまった、
濁った 月が浮かんでいて
汚れていってしまう、僕らにそっと
ああ、空しく 何かを訴えている…。 」
帰宅しても 痛みと疲労感で 食事も取れなくて、
すぐに ソファーに倒れこんで 眠ってしまいました。
日に日に 身体は やつれていき、
朝早くに 制服を着て 教科書を詰め込んだ、
重いリュックを背負って 自宅を出ても
次第に 学校へは 向かわずに そのまま
札幌駅 周辺の大通りの繁華街や
サッポロファクトリーのデパートを ウロウロする様に なりました。
重苦しい日常からも 解放されて
「どうせ 僕がいても いなくても、
誰一人 気が付かないだろう…」 と 札幌中から
人が集まる、賑やかな 大通り公園の芝生の上に
寝転んで 自分の境遇を ただ、嘆いていました。
勉強も運動も 何一つ 他の子供達に ついていけない…。
僕は もう、何をやっても ダメな人間なんだ…。
それは おそらく 校風が僕に合う、
文系の 他の高校に入っても 結果は同じだっただろう。
北広島駅に着いて 自宅までの通い慣れた
線路沿いの遊歩道を とぼとぼ 歩いてると、
正面から 近所のアパートの、
お姉さんの様に 慕っていた女性が
自転車に 乗って 走ってきました。
僕のとなりで 急ブレーキをかけて、
「わたる君、北海道に 帰って来てたのは
知っていたけど ようやく 会えたね。」 と
初めて会った頃みたいに 微笑んでくれました。
久々の再会で 緊張して
あまり 言葉が出なかったのですが
「もう 夕方だけど、これから どこかに出かけるの?」と 訪ねると
「うん、もうすぐ 旦那さんが
仕事終わって 帰ってくるから、それまでに
買い物に行って、夕ご飯を 作らなきゃね。」 と
無邪気な 笑顔で 答えました。
僕の ひきつった顔を見て
気分を悪くさせないように ほとんど うつむいたまま、
「そっか、それなら早めに
スーパーに 買い物に行った方がいいね。
自転車のスピードを飛ばさない様に 気を付けてね。」
と 中身のない、薄っぺらな挨拶だけをして、
手を振って 別れました。
「わたる君、またね…。」 と 手を振りながら
自転車に乗って、夕陽が沈んでいく 方向へと
あっという間に 走り去っていく お姉さんの後ろ姿を
立ち止まったまま しばらく 見つめていました…。
こんなに そばで暮らしているのに、
会う事も 会話する事も ほとんど何もできない…。
いつも 僕の人生は こうだった。
要らないものは 僕のそばから
どんなに 引きはがそうとしても 離れようと しないのに、
本当に欲しいものは、すぐに僕の両手を すり抜けて
どこか遠くへと 逃げていってしまう…。
そして これが、近所のお姉さんを見かけた 最後の姿でした…。
放課後になり、いつものように ふらふらになって
北広島駅まで たどり着くと、
偶然にも 同じ様に 学校帰りだった、
小学校時代に、いつも 仲良く遊んでいた
クラスメイトの女の子と 再会しました。
「久しぶりだね。 小学校の頃から、
お互い あんまり 変わらないよね、」 と
久々に 顔を見たので 喜び合っていましたが、
別れた後、メールを送ったら
2週間 経っても 返信がないので
おかしいな、と 思っていると 突然に
「…小学校の頃と 顔が別人みたいで 嫌だった。」
とだけ 書かれた、返信の 短いメールが届きました…。
もう 気力も すべて失って 半年も経たないうちに
東海第四高校は 辞める事にしました。
もう 何処にも 行く当てはなく、
投げやりになっていた 僕は、父さんに
「岡山県の高校に戻った方が いいんじゃないのか?」 と
勧められて 地元の高校に通う 夢を
やむを得ず、諦めて 挫折感と
やりきれない気持ちを 抱えたまま、
岡山県の吉備高原高校に 帰りました。
寮生活は 2年生の寮に みんな 移動しており、
1年生が暮らしている部屋を 見下しながら、
僕も いつの間にか 後輩ができたんだな、と
感慨深げに 想っていました。
おそるおそる 僕の部屋を覗くと、
中には 顔馴染みの 懐かしい友達たちが たくさんいて
僕が来るのを 待っていてくれていました。
「 お帰りなさい、」 と 声を揃えて
みんなで 僕に抱き着いてきました。
その瞬間、遠回りして しまったけど
僕は ここに戻って来て 良かった…と
目に涙を浮かべて 感じていたものでした。
食堂で、全寮生たちが 見ている前で
挨拶をする事に なってしまい、興味本位で
じっと見つめてくる、みんなに向かって
「これから また 学校生活で みんなのお世話になります…。
出戻りで 格好悪いけど、よろしくお願いします、」 と
恥ずかしさを ごまかすために 威勢よく 挨拶すると、
食堂中に響き渡る拍手で 出迎えてくれました。
数週間後、北海道から 一枚の お手紙が届きました。
どうやら 一度、僕の自宅宛てに届いて
気付いた 父さんが 岡山へと送ってくれたみたいでした。
差出人は 東海第四高校の、クラスメイトの女の子からでした。
美術部の子ではなく、ほとんど会話もなかった、
生真面目そうな 女子生徒からで、
不思議そうに 首を傾げながら 封筒を開くと、
可愛らしい ヒツジのデザインの絵が
いっしょに 同封されていました。
手紙には
「 松下くんに 褒めてもらった ヒツジのイラストを
何度も修正したので 贈ってみました。
高校を卒業したら、デザイン系の専門学校に
進みたいと 考えています。
松下くんも また会える日まで 元気でいてね。 」
と 書かれていました。
読み終えた後、…授業の 休み時間に
その女の子が 机に向かって、
黙々と キャンパスノートに 書き綴っていた、
動物のデザイン画が チラッと見えたので
「すごく上手な絵だね。 完成したら 僕にも見せてね。」 と
声を掛けた事を 思い返していました。
そうか、あの時の…。
僕が自分の事で 精一杯になっていて、
気付いて いなかっただけで
本当は 友達になれたかも 知れない子が いたんだ…。
封筒の横に 置かれた ヒツジのイラストを
いつまでも 遠い目で 見つめていました。
…学校生活は 月日と共に 耐え難く なっていました。
寮部屋は 不良達と同室になってしまい、
夜中も騒いで うるさいので、睡眠も ろくに取れなくて
仲の良かった友人は みんな 別のクラスになり、
あっという間に 孤立してしまいました。
睡眠をとるために やむを得ず、
学習室に、部屋から運んできた 布団を敷いて
硬くて冷たい コンクリートの床の上で 毎晩 過ごしました。
ストレスと 寝不足が増えるほど
痛みが激しくなり、欠席日数が溜まり、
保健室で 過ごす時間が 多くなっていきました。
2年生の2学期頃からは 毎日、2、3時間は
授業を休んで 保健室で 寝込んでいました。
体育の授業で 炎天下の中、
サッカーや バスケなど 激しい運動をした後は
まぶたの神経の痙攣が止まらず、
温めたタオルを 顔の上半分に 被せて
数時間、痙攣が治まるまで 顔を抑えて、
保健室のベッドの上で
足をバタバタさせ、のたうち回っていました。
5月には「 世界の中心で 愛を叫ぶ 」が公開され
社会現象となり、初夏に帰省中、
病院のリハビリ帰りに 札幌駅 周辺を歩いてると、
映画館の前には カップルの行列ができていました。
「 美しすぎる純愛 」 「 生涯たった一度の恋 」…
そんな 安っぽく聞こえる、陳腐な愛の言葉が
ポスターや CMの宣伝文句で 世間に溢れかえっていた。
乙武洋匡さんが出版した
「 五体不満足 」 が 世間で 話題になっており、
テレビや雑誌などで よく見かける様に なっていました。
本屋で 購入して すぐに読み終えた後
あっという間に、有名人になった、乙武さんの姿を
テレビで見ながら 僕は 複雑な思いを抱いていました。
しばらくしてから、週刊誌で ある特集を見つけました。
目に見えない痛みの障害を 持つ方々が
乙武さんの 「 五体不満足 」について 語り合う 対談でした。
「乙武さんは とても 重度の身体障害者なので
今まで 苦労されてきたと思うが
家族や友人の介護を受けられ、たくさんの人たちに
支えられて 今日まで 生活してくる事ができた。
学校生活も 様々なサポートを受けられて、
大学までも 通う事ができて、
本まで 出版して 一躍、有名になっている。
私たちには そのような
恵まれた環境は、何ひとつ ありませんでした。
どんなに 激痛に苦しんでも 周囲に理解されない為、
友人も ほとんどできずに 家族からも 見捨てられ、
国からは 難病指定にも ならないので
支援も 何も受けられない。
本当に 周囲の支えを 必要としているのは、
誰にも 理解される事もなく、
一人きりで 闘っている、目に見えない障害を
抱えている方達では ないのだろうか…。」
と 対談の中で 嘆かれていました。
この特集を読んでいて、僕も 同じ気持ちを 感じていたのでした。
少なくとも、これから 何十年も 痛みで苦しんでも、
乙武さんみたいに テレビや映画に 出演したり、
世間の話題になる事は 絶対に ないだろうな… と
「 五体不満足 」 の 本を片手に
ふと 考えてしまいました。
いつしか教師たちからも 問題児の様に 言われ始め、
痛みが あまりにも ひどいので
「市内の病院に通いたい。」 と 相談すると、
えびす顔で いつも ニコニコしている
教頭先生は 偏見に満ちた眼で、
「お前は 自分を、特別な人間だと思っているだろ、」
と 嫌味を言い放ち、舌打ちをして 立ち去りました。
その えびす顔の教頭は、他の生徒の前では
ニコニコ 愛想笑いしながら
卒業するまで 僕だけを無視していました。
眼に見えない痛みを、
周囲に 上手く 伝える事も出来ずに
自然と距離が離れていき、
痛みに加え、疎外感も 広がっていきました。
だれか そばで 支えて欲しくて、
まだ彼氏のいない、分厚い眼鏡をした
地味な女の子に ひきつって
口元が歪んだ顔で 声をかけたら、
不審に思われ 避けられて 余計 沈んだりもしました。
ある日、放課後 忘れ物をして 教室にとりに行ったら、
その女の子と 僕の友達が、
廊下を 仲良く 手を繋いで 歩いていました。
またどこからか 「 悲しくて やりきれない 」 が聴こえてくる。
…この胸の奥から込み上げてくる 寂しさは 何だろう…。
僕は どうして いつまでも 一人でいるのだろう…。
僕の おかしな様子に気づき、あまり干渉せずに
一人にしてあげた方が いいだろう、と
あえて そっとして おいてくれる、
友人たちの 気遣いも 感じていました。
休み時間に、窓の外を眺めて ため息を ついていると
タイミングを 見計らったかの様に
突然 となりに座って 面白い冗談を
聞かせてくれる 友人もいました。
きっと 僕の負担にならない様にと
寂しそうにしている時に 合わせて、
気を使って 話しかけて くれたのだろう。
このような友達は いつまでも 大切にしたい、と思っていた。
小学校の頃の ただ いっしょに、ふざけたり
騒ぐだけの友人たちとは
明らかに 友達の定義が 変わってきていた。
僕も 少しずつ 大人へと 成長してきたのかも知れない…。
一応、美術部に 入っていましたが、
ほとんど活動に 参加していなかったので
放課後は 図書室の視聴コーナーで 映画を観たり、
誰もいない、専門コースの授業で 使う教室で
のんびり くつろいだり、自分なりの
居心地の良い空間を作って
怠惰な日々を やり過ごして いきました。
「 高校生活は 辛かった 」 と よく 人に語るのですが、
文章を書きながら 回想してみると
仲の良い友人たちと、過ごした 思い出が
一つ一つ 記憶の底から 引き出されて
僕は 心に余裕がなくて、思い出せて
いないだけなんだな、と 気付きました。
「醜い 眼の形との闘いは まだ終わっていなかったんだ…。」
鏡に映る、大きく歪んで ひきつった表情を見て、
自分の顔の中に 怪物か何か、
得体の知れないものが 住み着いているのではないか、と
恐怖を 感じ始めていました。
…いつも 目に 浮かぶのは 春の風景でした。
淡いピンク色で 一面に染まった、
桜並木の小道に 導かれていき
長い冬が明け、スズランや 様々な草花たちが
競い合うように 芽を出し 薄暗い土の中で
耐えていた分、一斉に 咲き誇る瞬間の
春の香りを 思いっきり 吸い込む。
悲しい記憶も、待ちわびるだけだった 日々も、
新しい季節の始まりに かき消されていく…。
北海道で 近所に住んでいる、
あの お姉さんの様な 女性から たまに手紙が届き、
いつも 文章の終わりに 小さく
「 ママより 」 と 書かれていました。
ですが その女性とは、1年生の時
帰省中に 何度か会いましたが 3月頃を 最後に、
それからは 会う事は ありませんでした。
ある日 突然 メールが途切れ、
その女性の 母親の話では、
「 わたる君の顔を見ると 気分が悪くなるから
会いたくない、」と 言っていたそうです。
何も言い返す事も、感情を露わにして 怒る事もできず、
ただ 言葉を失っていました。
僕は また 別れも言えずに 母さんを失った様で、
心に癒えない傷を負いました。
16歳で 母さんを亡くしてから 一年足らずで
母親気取りの女性 ふたりに、
いらなくなった オモチャを捨てる様に
あっさりと 見捨てられたのでした。
僕は 元々、とても 陽気で 明るい性格だったのですが
こんな顔になってからは 周りの人達に、
「 外見ではなく、内面で 愛してもらおう 」 と
どんな時でも 人前では 穏やかに振る舞い、
誠実な人間に なりたい… と 今も 努力し続けています。
「誠実とは なんて 淋しい言葉だろう…。
誰もが あまりに 不誠実だから。
それこそ 君に求めているものなのに…。」 と
ビリージョエルは 歌っていましたが、
僕なりに 相手を気遣い、思いやりを持って
接しても 現実は 厳しいものでした。
今まで 多くの女性や 出会った人たちが
僕を毛嫌いして 避けたのは 容姿だけでは なく、
親がいない、学歴が あまりない、
痛みで 何も抵抗できないから 切り捨てていい、
見捨てていい、と 悪い要素が
いくつも重なって 僕を判断していたと 思います。
被害妄想ではなく、冷たい目や 高圧的な態度に
はっきりと 表れていました。
12歳まで 何不自由なく 恵まれた生活を していた頃は
いつも周りに 大勢の友人がいて
傲慢な態度で どんなに 威張っても、
どんなに 我がままを言っても 笑って 許されていた。
ただ 「 もっと遊びたい、もっと贅沢したい、目立ちたい、」 と
はしゃいでるだけで みんなに ちやほやされて、
自然に 女の子も たくさん集まってきた。
これらは、恵まれた子供達だけに 許された、
「 大いなる特権 」 だった。
悲しいけど、これが人間という 生き物だった…。